20

 上空に浮かぶ雲の上に取り残された、マナミと猫たち。果たしてどうやって地上へ戻ればいいのか。もし近くを飛行機が飛んできたとしても『彼ノ階』にいる以上、いくら手を振ってみたところで、向こうの目には雲しか映らないのだ。

 途方に暮れ、マナミは暫しぼんやりと佇んでいた。それからムンクを連れて、広大な楽園をあてどもなく歩いていく。最初に通った路をたどるように、広場から噴水、噴水から彫刻の立つスペースへと進み、小川の流れるところまで歩いてきた。

 ……足が止まる。

 石橋がない。小川にかかっていた石橋が。よく見ると、川を流れていた水も干上がっている。幻のように、消えてなくなった。

 胸騒ぎがして引き返すと、未知の植物を表現した彫刻が砂となって崩れ、風に吹き飛ばされる瞬間を目にした。数体の彫刻すべて、またその向こうの噴水も、同じように砂となって消失した。

「いけない」

 猫たちが多く集まる広場へと走る。まず中央のガジュマルの樹が倒れているのが、目に飛び込んできた。見渡せば、広場の地面あちらこちらに、深く大きい窪みが生じている。次々猫たちが窪みにはまり、斜面を滑り落ちていく。

「みんな逃げて!」

 窪みに落ちた猫たちを助けようと駆け出す――その足下が、いきなり大きく陥没した。マナミは落とし穴に転げ落ちる。底に達すると、起き上がる間もなく、身体がずぶずぶと潜っていく。雲の上にかぶさる地盤は、すっかり脆くなっていた。もう上に乗るものを支えることすらできなくなっていた。

 主を失くした天空の楽園は、ついに最期のときを迎えたのだった。

 地盤を突き抜け、雲を突き抜け、マナミは大空に放り出された。マナミだけではない。雲の上にいた数百匹の猫たちも一斉に振り落とされた。海から連れてこられた数多の魚たちも……。

 地上に向かって、マナミと、数百匹の猫と、海洋生物の群れが、一斉に落下していく。

 マナミはすぐそこに、宙を舞うムンクの姿を見つけた。空を降下しながらムンクへと思いきり片手を伸ばし、小さな前足を掴もうとする(スカダイビングで手と手をつなぐように)。ムンクを捕らえて懐に抱けば、地上に激突したとき、ムンクだけは助かるかもしれない――マナミはそう考えた。ムンクだけでも生き続けてほしい、と。

 あと数センチ。まだ。もう少し。まだ。届け。まだ――。

 そのとき、天から糸が垂れてきた。糸はムンクの体にくるくると巻きつく。マナミにも同様に、天から下がってきた糸が巻きついた。

 救いの糸は、植物の根だった。空中で身体をひねって見上げると、ガジュマルの大樹が視界を覆った。楽園の広場の中央にそびえ立っていた、あのガジュマルの樹だ。無数の気根が伸び、落下するマナミとムンク、それに他のすべての猫を余すところなく捕まえ、吊り下げていた。

 気づくと落下の速度が緩やかになっている。ガジュマルの大樹が、無数に繁った葉を広げて空気を孕み、巨大パラシュートと化しているのだった。

 ガジュマルの枝に立つ人影がある――一心に印を結び呪文を発する、クニヨシ。ヨシトシに切断された胴体も、両手も、きれいに元通りになっている。さすが不死の身だ。

 マナミはクニヨシをまぶしそうに仰ぎ見て、両手を合わせる。

「クニヨシさま……ありがとう」

 通力によって空を泳いでいた魚たちは、再び通力を受けて、海へと帰っていく。マナミを空へと運んだマンタや、ヨシトシを乗せていたジンベエザメが、マナミのそばを通り過ぎ、飛び去っていった。

 ゆっくりと大地が近づいてくる。やっぱり地上がいいな、とマナミは率直に感じた。大地を力いっぱい蹴って、どこまでも好きなだけ走れるというのは、なんて幸せなことだろう。今すぐにでも走りたいと、マナミはうずうずしている。

 眼下にはひろびろした平らな土地が広がっている。数百匹の猫たちが着地するには、申し分ない広さだ。地上が迫り、ぽつんと立つ一人の人影が見えた。自然とマナミはそこに向かって、降下していく。

 地上でマナミを迎えたのは、ナオトだった。マナミはふわりとナオトの腕の中へと収まった。ナオトは空から降ってきたお姫様を両手で抱き、はにかんで言う。

「ラピュタみたいだね」

 マナミは苦笑いをこぼし、

「ファンタジーはもうたくさん」

 ナオトがマナミを地面に降ろすと、マナミは顔をゆがめ、脚を押さえた。

「桜田さん……どうしたの、その右脚? ……すごく腫れてるし、傷だらけじゃないか」

「心配しないで。どうってことない。いつも鍛えてるから」マナミは無理に笑顔をつくって、「それより、ここはどこ? 五十嵐くんはどうして、ここに?」

「桶川飛行場だよ。クニヨシさんが連れてきてくれたんだ。僕を壺に乗せて」

「壺に?」

「うん。花を生けるような壺でさ。竹筒のときみたいに、吸い込まれて。一瞬でここまで飛んできたんだ。それからクニヨシさんに、ここで待ってろって言われてね」

「どうでい。ドンピシャだっただろう」

 いつの間にか二人の背後に、クニヨシが腕組みをして立っていた。

「クニヨシ……よく戻ってこられたね。大丈夫だった?」

「わハハハハハ!」クニヨシは仰々しく笑った。「マナミちゃんにまで心配されるなんてなぁ、ワシもいよいよ引き際か……。大丈夫って、そりゃあ死にはしねえがな。奴の胃の中から出られなくなっちまってよ、えらい難儀したぜ。最後は結局、お情けで奴が吐き出してくれたのさ。まったく面目丸つぶれだぜ。ヨシトシの奴め……本当にワシを超えやがった。今じゃワシでも敵わない、巨大な存在さ」

「で、ヨシトシは? 竜になって、どこへ行ったの?」

「さあな。地上とは正反対のほうへ向かって行ったから、宇宙まで飛んでいったんじゃねえかなぁ」

「……宇宙へ?」

「ああ。差し詰め、このまま宇宙空間を漂い続けるつもりだろう。ひとり地球を離れて、誰にも邪魔されず。自由気ままに星から星へ飛び回って……な」

 マナミは目を伏せる。

「居場所を……奪ってしまったのかな……」

 クニヨシはマナミの肩に手を置いて、

「気にすんなって、マナミちゃん。あいつはいずれ、こうなる運命だったのさ。――もしもだぜ? もしもヨシトシの内にある、反社会的な火種が燃え広がってみろ。誇張じゃなく、人類にとっての脅威になり兼ねねえ。きっと奴もそれを自覚してて、いさぎよく身を引いたのさ」

 マナミは夕暮れの迫った空を見上げる。天空の楽園を支えていた雲も、今はない。

「猫好きだったんだよな……あいつも」

 仕事がきつかったり、会社で嫌な思いをしたときは、マナミだって猫になりたいと妄想することがある。その点だけは、ヨシトシに同情できないわけでもないのだ。猫好きの気持ちは、猫好きにしか解らない。

 落ち込む彼女を励ますように、ニャーア、と足元から鳴き声がやってきた。

「桜田さん……その猫、もしかしてムンク君?」

 マナミはムンクを抱き上げ、ナオトに「うん」と、うなずく。ムンクとおでこを寄せ合い、ムンクの顔を見つめ、愛猫がすぐそばにいる幸せを噛みしめるのだった。

 いつの間にか、地上に帰還した数百匹の猫たちが集まってきていて、一斉にマナミへ視線を送っていた。城のバルコニーに立つ国王を見上げる民衆のように。みんなマナミを信頼し、マナミに期待している。

 この子たちの期待に応えなければいけない――頑張らなきゃ。

 マナミは胸を張り、猫たちを端から端まで見渡して、両手を左右に広げた。

「皆の者! いざ行かん。飼い主の待つ我が家へ!」

 

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