19

 ヨシトシは印を結び、呪文を発する。と、下草に隠れていたヒトデが二体、垂直に飛び上がった。ヒトデは宙にとどまり、プロペラのように高速回転している。――ヒュッ! 二体のヒトデが、宙から同時に放たれた。手裏剣のように鋭く回転し、左右からクニヨシに飛びかかる。

 クニヨシは印を結ぼうと両手を持ち上げた。しかし間に合わなかった。左右から飛んできた手裏剣が、左右それぞれの手を骨ごと斬り落としたのだ。

「それじゃ印を結べませんね」

 クニヨシの両手首から大量の血がどぼどぼ流れ落ちる。破裂した水道管のように。傷口を塞がなければ、流血はいつまでも止まりそうにない。

 そこへタイミングよく二匹のタコが、仲良く並んで泳いできた。しめたとばかりにクニヨシは両手首を繰り出し、タコに突き刺す。ボクシンググローブのように装着されたタコのおかげで、出血はようやく止まった。

「これでどうでい」

 ぬらぬらと揺れ動くタコの脚同士を絡ませ、クニヨシは印を結ぶ。呪文。途端、猫に追いかけられていた一匹のハマチが、膨らみ出した。釣り針にかかったかのように激しく暴れながら、前後へ体を引き延ばしていく。魔法をかけられたハマチは、みるみるうちに成長、出世し、ホオジロザメとなった。

 ホオジロザメはヨシトシに向かって突進し、頭からかぶりついた。しっかり牙で捕えると、バリバリ骨を噛み砕きながら、ヨシトシを呑み込んでいく。最後につま先までサメの口中に収まったところで、ヨシトシは完全に没した。サメの口のまわりは赤い血でべっとり濡れている。牙の間から、血に染まった長い髪の毛が垂れている。

 空腹を満たしたホオジロザメは宙を漂っていたが、ふいに下草の上へ落下した。仰向けで転がって、死んだみたいに動かない。すると上向いたサメの白い腹を突き破って、人の両脚が飛び出した。続けて両腕も生える。四肢を得たホオジロザメは、手をついて起きあがった。まるで人がサメの着ぐるみをかぶっているようだ。

 ホオジロザメは生えたばかりの両手を組み合わせ、印を結ぶ。そのとき前を歩いていたシオマネキが通力を浴び、巨大化していく。シオマネキ特有の大きなハサミはより拡大され、パワフルな重機と化した。

 巨大なハサミは、クニヨシの胴を襲った。腹部から身体は真っ二つにされ、大量の血が流れ落ちる。血とともにはらわたも、だらしなくこぼれ出る。ピンク色の臓器も、ボトリと。下半身は力なく倒れ、上半身はだるま落としのごとく落下した。

 半身となったクニヨシは腕組みをし、「やるじゃねえか」そう言って、上半身だけで、ぽーんと飛び上がった。

 腰から下を失ったクニヨシは巨大化したシオマネキの背中に飛び乗り、合体する(カニ型ロボットに乗り込んだ態で)。クニヨシは二本足で立つホオジロザメに向き合い、重機のハサミを振り回した。あっさりと一撃で、サメの体はきれいに切断される。

 しかし切断と同時、細かな破片がパッと飛び散った。数多の小魚に分裂したのだった。

 小魚は群れをなし、他の魚を巻き込みながら、渦を巻き始める。渦巻きはぐんぐん勢力を増し、天へと伸び上がっていく。ビル五階相当の高さにまで達した渦巻きは、徐々に速度をゆるめていき――回転が止まったところで、壮絶な姿を現した。

 竜だ。暗く沈んだ闇をまとう、黒竜。長い胴をS字に曲げ、クニヨシに牙をむく。牙の間から、荒々しい息。猛獣に似た気味の悪い唸り声を、重く響かせて。

「そうきたかい」

 手首にはめたタコの脚を絡ませ、クニヨシは印を結ぶ。――突風。辺りを、目が開けていられないほどの強風が吹きすさぶ。ガジュマルの気根が大きく揺れ、葉が吹き飛ばされる。ふわふわのクラゲが、奔流に押し流されていく。猫たちは尻尾を膨らませて、右へ左へと逃げまどう。

 突風はクニヨシの周りで渦を巻き始め、竜巻となって上昇していく。黒竜に匹敵する高さにまで達し、回転が収まると、新たな竜が出現した。全身が氷のように白い、白竜。クニヨシの姿が見えないのは、白竜になったからだろう。

 クニヨシが転じた白竜と、ヨシトシが転じた黒竜とが、これで決着をつけようと、対峙する。白黒、明暗を分ける闘いが始まろうとしている。

「みんな、こっち。下がって!」

 危険を察したマナミは、猫たちに呼びかけ、安全な場所へと誘導する。一匹たりとも怪我を負わせない。一匹残らず無事に家へ帰す。猫たちを守り抜く使命感に、マナミは突き動かされた。その真摯な思いに応えるかのように、マナミのもとへ、数百匹の猫たちが次から次へと集まってきた。

 黒竜が白竜の喉へ牙を突き立てようと、突進する。白竜は牙をかわし、黒竜の前脚一本を噛み切った。漆黒の胴から大量の赤い血が、ダムの放流のように烈しく流れ落ちる。

 余りの流血に度を失ったのか、黒竜は牙を狂ったように繰り出す。白竜は長い体を自由自在に廻し、折り曲げ、くねらせて、攻撃をかいくぐる。

 大量出血で動きが鈍くなった黒竜に、隙が生じた。無防備となった腹に、白竜の牙が食い込む。白竜の口も、黒竜の体も、ともに恐ろしいほど血だらけとなっていく。

 いずれ黒竜の体は二つに切断されるだろう……そう思われた。そこへ、敗色濃厚だった黒竜の――ヨシトシの――反撃の牙が、振り下ろされる。

 呑み込まれた。地獄の入口のごとく大きく開いた口の中に、白竜の頭部が丸ごと。

「クニヨシ!」

 頭をかぶりつかれた白竜は、長い胴体を無茶苦茶に振り回し、抵抗する。が、どれほど足掻いても抜け出せない。むしろズルズルと引き込まれていく。暴れれば暴れるほど、ますます罠が深く食い込み、逃げられなくなっていく。

 白竜――クニヨシ――は体の半分まで呑み込まれてしまうと、もう脱出する気力さえ失ったようだ。そこからは一気に埋没していく。ズズズズズ……。まるで蕎麦でもすするように、黒竜は白竜を、完全に飲み下した。

 決着がつくや、根元から伐られた大木のように、黒竜は雲の上に倒れ込んだ。巨体を広場に横たえ、じっとして動かない。下草に沈み込んだ、軽自動車ほどある大きな頭部。暗黒色の、禍々しい面。冷たく光る眼も。血に濡れた牙も。口から漏れ出す野蛮な呼気も。何もかもが、不穏な殺気を漂わせている。

 足が飛んだ。うかつに触れれば殺されかねない黒竜――その横顔を、命知らずの無鉄砲な足が、蹴り上げた。冷たく光る竜の眼を、傍らに立つマナミが、焼き切るほど睨みつけている。

「ちくしょう!」

 二発目。筋肉が隆起した脚を遠心力に任せて振り回し、竜の横っ面めがけてブチこむ。だが竜はピクリともしない。痛くもなく、痒くもなく、と。

 三発、四発、五発、頭を狙って脚を撃ち込む。マナミの武器といえば、これだけだ。鍛え上げた脚だけ。剣もない。銃もない。通力も使えない。己の肉体だけで竜に歯向かって――勝てる見込みはゼロ。陸上に蹴り技はないし、空手の経験さえない。

 その上、竜の頭は、山に転がる大岩のようだった。大岩並みの堅さ、重さ。表面はギザギザに尖っている。ここへ素足を何度も打ちつけるというのは――無茶を通り越して、狂気と言うしかない。

「ちくしょう! ちくしょう!」

 顔を歪め、むやみにキックを繰り出す。堅牢な大岩は無反応で、微塵も動かない。このままでは、マナミの大事な脚が壊れてしまう。ぐちゃぐちゃに骨が砕けてしまう――。

 グウ。竜が低く唸った。ようやく返ってきた反応。黒竜は重い頭を持ち上げ、ゆっくりと振り向く。マナミを睨み、顔を近づけてくる。荒々しい息を吐き、悪魔のような唸り声を低く鳴らし、顎から赤い血をしたたらせて。

 マナミは攻撃の手を止めて、引き下がる。向かっていく気持ちは失っていない。心のうちでは骨が折れるまで、蹴り続ける覚悟だった。が、危険を察した脳が、マナミの身体を制したのだろう。蹴りに使った右脚は暗い紫色に変色し、ゾッとするくらい腫れ上がっている。脛の皮はカミソリで切ったような傷が走り、血がだらだらと垂れている。

 巨大な未知の獣に恐れをなした猫たちが、一斉にマナミの後ろに隠れる。全身の毛を逆立てる猫。尻尾を丸めて震える猫。ヒステリックな鳴き声を上げる猫。マナミは両手を水平に上げ、背後の猫たちをかばった。ここから先には通さない、と。

 黒竜とマナミの睨み合い。もう逃げられない。マナミは覚悟を決した。

「殺したいなら殺しなさいよ」目を逸らさずに。「殺したいんでしょう? だったら殺せば? わたしの命なんて、あんたにくれてやる。その代わり、ここへ連れてきた猫たちみんな、家に帰してあげてちょうだい。一匹残らず、みんな帰してあげて」

 ニャア。

 ――ムンクが。足元からムンクが、悲しそうな瞳で、マナミを見上げていた。

 マナミ、死んでしまうの? ボクより早く天国へいっちゃうの? もうボクと遊んでくれないの? ボクの頭を撫でてくれないの?

 途端にマナミの目から涙がこぼれ落ちる。落ちた涙はムンクの鼻を濡らした。マナミはしゃがみ込んでムンクを抱きしめ、声を上げて泣き出した。

「わたしが死んだら……ムンクの面倒を、見られないじゃない……」

 号泣するマナミを慰めるように、ムンクが彼女の頬をなめる。マナミは泣きながらムンクの頭や背中を撫でる。ムンクは小さな前足を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。母親にすがる赤子のように。

「寿命まで、責任をもって、育てるって、約束したのに……」

 他の猫たちが、マナミのもとへ集まってきて、ぐるりと取り囲む。その中の一匹が、勇ましく前に進み出た。背中の毛を逆立て、牙を剥き出し、巨大な黒竜を睨みつける。奮い立った数匹の猫たちも続き、横並びの壁をつくって、怪物に立ち向かう。

 マナミはムンクの頭を抱き、涙を落とし続ける。

「ダメ親で、ごめんね……ムンク……ごめんね」

 ――空を裂く、咆哮。

 黒竜が天に向かい、長く、切々と、吠えている。絶望のあまり溢れ出した、痛々しい叫び。断末魔の声に似た、物悲しい響き。

 長い咆哮がようやく途切れると、竜は飛び上がった。長大な体を伸ばし、真っ直ぐ上に向かって。空高く、どこまでも上昇してゆく。

 ……そのうち藍色の空へと埋もれ、竜はついに見えなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る