18
ガジュマルの根元の陰から、愛猫の顔がのぞいた。驚いたような表情で、マナミを見ている。軽やかにぴょんと飛び出すと、甘えた声を出し、寝ている猫たちをよけながら、マナミのもとへと近づいてくる。ムンクは長い尻尾を立て、マナミの脛に何度も体をこすりつける。それから彼女の顔を見上げ、なつかしそうに喉を鳴らした。
マナミはムンクを抱き上げた。ムンクの横顔に、耳に、背中の毛に、頬を寄せる。
「もう、心配かけて!」
周囲の猫たちが観衆となって、飼い猫と飼い主の感動的な再会劇を見つめている。それはうらやましそうな面差しで。他の猫たちも、地上の家が恋しくなったのかもしれない。自分たちの主人は今ごろどうしているだろうかと、思いをはせているかもしれない。
「さあ、うちに帰ろう、ムンク」
マナミは体を屈めて、ムンクを降ろした。その瞬間、一匹の黒猫と目が合った。黒猫の瞳は、尋常でない光を放っている。その威圧感に、マナミの動きが止まった。
黒猫――いや、男だ。
男が立っている。黒猫は掻き消えた。男と黒猫が、瞬く間に入れ替わったのか。
「どうしてここに、人間がいる?」
膝の裏まで垂れた長い黒髪。斜めに立てた刀のような、冷たい眼。顔立ちは美しく若やかだが、黒装束から伸びる手首も、指も、脛も、足も、寝たきり老人のように骨ばって、痛ましい。
「あなたでしょう? 『飼い猫大量失踪事件』の犯人は」
「誰が?」
どこかで聞いた返事。加えて男の風貌、猫に姿を変える、『彼ノ階』にいる……これらを考え合わせれば、結論は一つだ。
「あなたも山人ってわけね。人んちの猫をさらって、こんな雲の上に集めて、一体どういうことよ?」
「猫は人といるべきじゃない」男は不明瞭な声音で話す。
「どうせペットを解放しようっていうんでしょう? ペットはね、人が生きてく上で、必要なの。ただ観賞のために自分のもとへ縛りつけておくっていうのとは、違うの。ちゃんと心を通わせてる――心と心が繋がっている――そういう存在なの」
「猫は人といると、不幸になる」
「猫がいなければ、人が不幸になるわよ」
足元からムンクがマナミを見上げている。マナミはムンクの頭にそっと手を置き、
「大丈夫だからね」母親が子供をなだめるように、言った。
「中には、育てられない子猫をモノのように捨てていく人もいる。不幸な猫もいる。それが現実。でも結局人は、嫌な現実を生きていかなければならないのよ。現実を生き抜くために、猫の存在が必要なの」
「現実はどうでもいい」
マナミはため息を吐いた。
「はっきり言って、あんたのせいで、みんな迷惑してるのよ。困っている人がいる。悲しんでいる人がいる。絶望した人がいる」
「人はどうでもいい」
「どうでもよくない」
「くだらない」
「くだらなくない」
「人なんて。誰も」
「……誰も?」
マナミはハッとした。
地上から遠く離れ、人影が一切ない雲の上の楽園で、猫とともに暮らす男。誰とも関わらず、誰とも話さず、誰からも干渉されない。世間の煩わしさから解放され、平和にゆったりと日々を過ごす――飼い猫のように。
何者かの仕業であるとしても、今ひとつその動機がつかめなかった『飼い猫大量失踪事件』。たった今、その謎が――
「解った。要するにあんた、孤独なんでしょう。人は誰も信じられない。けど猫だけは裏切らない。嫌な現実から逃げて、自分だけのユートピアを造った。唯一の友達、猫と一緒に」
「嘘つきだ」
男は眼つきを険しくし、一歩、迫りくる。押し倒されそうな気配を感じるが、マナミは引き下がらず、抗うように睨み返す。
「嫌な世間を離れて、独りで山に籠った。そこでたまたま山人に出遭った。人にウンザリしていたあんたは、人を超えた存在になれると知って、飛びついた」
「最悪だ」
「そして山人になった。人間離れした特殊能力を手に入れた」
「馬鹿だ」
「山人になって、人を見下すようになった。人を困らせて、人を怖がらせて、人を不幸にして、陰で笑っていた」
冷ややかな眼は、皮膚を切り裂く鋭利な刀。切っ先をマナミに向け、じわじわと詰め寄る。
気づかぬうち、マナミは後ずさっていた。臆したつもりはないが、身体が危険を察したのだろうか。
殺意を臭わせて迫りくる男と、間合いを保ったまま後退するマナミ。
「飼い猫ばかり狙って。そんなに人を悲しませるのが面白い?」
「愚かだ。人は」
「そういうあんただって人じゃない。猫に紛れていたって」
「俺は……」
「人でしょう」
「人」
「人よ」
「俺は……人の……俺が……」
男の顔色がにわかに変わった。冷ややかだった眼が、熱くなってゆく。
「え……?」
切れ長の目に涙が浮かぶ。すっと、細い筋を引きながら、涙が落ちる。
「俺は……俺を……殺してやりたい」
「…………」
「毒を飲んでも、死なない」
「…………」
「胸に包丁を突き刺しても、死なない」
「…………」
「首を切断しても、死なない」
人にとって最大の不幸は死ぬこと。至高の幸福は不死の身体を手に入れること――のはずだ。しかしいざ死を望むとなったとき、不死の身体は意地悪く邪魔をする。皮肉にもこの超人は不老不死になり、かえって苦しんでいるのだ。
嫌悪する人間。自身もまた人間であるという矛盾。耐えきれずにすべてを終わらせたいと思っても、終わらない。残虐極まりない責め苦を、永久に受け続けなければならない無間地獄のように。
「そんなの理由にならない」マナミは振り切るように言った。「人に見えない『彼ノ階』へ猫を連れてきて……自分は顔も見せず、陰でこそこそ。ずるい。卑怯よ」
「解脱したい」
「猫たちを返して」
「解脱できない」
針の山で串刺しとなっている罪人の形相で、男が迫る。マナミは睨んだまま視線を離さず、後退する。異様な両者に気圧され、猫たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「返して」
「消えろ」
危ない。動物的感覚が知らせる。餌食となる。逃げ――。
男が勢いよく踏み込んでくる。間隔が詰まる。マナミは踵を返そうとする。肩を後ろに引いて。ふいに男が消えた。代わりに、視界いっぱいの青天。続いて、雲の端が見えた。そこに立っていたはずの雲の端。横倒しになった身体。下へ下へと、背中が引っ張られる――仰向けの状態で。
踏み外した?
今しがた上を歩いていた雲が、みるみる遠のいていく。ムンクを、猫たちを、置いたまま。助けなければ。雲に戻らなければ。けど、もう戻れない。せっかくここまで来たというのに。犯人を見つけたというのに。ムンクと再会できたというのに……。
もっと背後に注意を払うべきだった。転落の恐れを考えて。取り返しのつかないことをした。もう遅い。後悔したところで、どうしようもない。諦めるしかない。受け入れるしかない。すぐそこまで近づいた、死を――。
「マナミちゃん、空行もできないのにこんな空の上までやって来るなんて、無謀ってもんだぜ」
天から神の御声が降りてきた。覗き込むクニヨシの汚れた顔。仰向けになったマナミの身体は、猛々しい二本の腕に支えられている。宙を踏んでいるクニヨシの足。そこにガラスの床でもあるかのように。これが「空行」だろうか。アマリリスの語った「月に降り立ったこともあるそうだよ」という言葉がよみがえる。
マナミは大きく息を吐いた。それから存分に息を吸い込んで、微笑む。
「無鉄砲なのは生まれつき。それよりクニヨシ、遅かったじゃない」
「すまねえ。さっき食ったバナナが傷んでたのか、下痢しちまってよ」
「ばか」マナミはクニヨシの腕の中で笑った。「クニヨシ、うちの猫が見つかったんだ。行方不明だった他の猫たちも。みんな、あの雲の上にいる」
「雲の上に? 猫は高えところを好むっていうが……。それにしても、猫がどうやってここまで昇ってきた?」
「連れてこられたんだ、山人に」
「なんだって?」
「お願いだ、クニヨシ。あの雲の上まで運んでくれ」
クニヨシはマナミを抱えたまま、見えない階段を駆け登る。ふたたび雲上の楽園にやって来たが、男の姿はなかった。また猫に化けているのだろうか。クニヨシも同じ考えらしく、雲を覆う下草を踏みながら、猫たちを注意深く見回している。
ニャニャッ。尻尾を立て、甘えた声でマナミのもとへ駆け寄ってきたのは、ムンクだった。マナミはムンクを抱き上げ、鼻を突き合わせる。ムンクは眼を大きく開き、マナミを見上げた。
「ムンク、ごめんね。もう大丈夫だからね」
「師匠」
唐突に割って入った声に二人が振り向くと、男が立っていた。
「ヨシトシ……やっぱり、おめえか」
「ヨシトシ?」
「マナミちゃん、こいつぁヨシトシっつって、ワシの元弟子さ。あまりに素行不良が過ぎるから、破門にしたんだがな」クニヨシは舌打ちする。「せっかく山奥で崖から身を投げようとしていたところを引きとめて、我が子のように世話してやったってのによ」
クニヨシはヨシトシをぎょろっと睨む。圧するほど凄みをきかせて。
「この面汚しめ。どんだけ人様に迷惑かけりゃあ気が済むんでい。山人ってなぁ神と人とのあいだに立って、取り持つのが務めってもんだろが」
「人のために山人になったつもりはありませんが」ヨシトシは涼しい顔で言った。
「山人になろうが、所詮おめえも人間だってことを、忘れるんじゃねえ」
「俺はもう人間を超えたんです。人間なんて、その辺の雑草と変わらない」
「まったく呆れた奴だ。通力を得たからって、調子に乗りやがって。通力をなんだと思ってやがる」
「武器ですよ。身を護るための」
「嘘をつけ。おめえなぁ悪用ってんだよ」
「どう使おうが勝手でしょう」
クニヨシは呆れて、
「こんなことなら放っておけばよかったぜ。崖の上でおめえを見つけたときにな」
「師匠には感謝してます」
「師匠と呼ぶんじゃねえ。人に迷惑かける奴ぁ、さっさと去れ」
「師匠たちこそ、目障りです。今すぐ消えてください」
「言うことを聞かねえなら、力ずくだぜ?」
「悪いけどもう師匠を超えてますよ」
「言うじゃねえか。やってみやがれ」
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