17

 機首を上向けた航空機のように、魚群の河は空高く昇り始める。マナミを乗せたマンタも、三角形の翼をしなやかに上下させ、前を行く群れについていく。

 すでに高層ビル六十階相当の高さまでは上昇しただろうか。それでもずっと前を行く先頭グループは、さらに高みへ達している。一体、どこまで連れていかれるのだろう……いささか後悔も覚えるが、こうなった以上腹を据えて、行くところまで行くしかない。それにここまで来たら、犯人を逃がすわけにはいかない。

 ――犯人。魚群の先頭に立つ謎の人物こそ、世間を騒がせている猫さらいの犯人であると、マナミは断じた。魚をエサに猫たちをおびき寄せ、どこかへ連れ去ってゆくのに違いない、と。ムンクも同じ手口で誘拐されたに決まっている、と。奴の後を追いかけて、必ずやムンクを救い出す――マナミはそう誓った。マンタの背でクラウチングスタートの姿勢をとり、前方を鋭く睨みながら。

 魚群の流れはどんどん高度を上げながら突き進んでゆく。水平に進むことなく、ひたすら急角度で空を登る。マナミは後ろへ転げ落ちないよう、マンタの背に足を踏ん張った。すでに、頭がクラクラするほどの高さに達している。シートベルトもつけていない。パラシュートも備えていない。安全が保障された乗り物に乗っているわけでもない。死と隣り合わせの不安要素ばかりだが――墜落など、考えると恐ろしくなるだけなので、最初から考えないようにした。

「頼んだよ」マナミは相棒のマンタに声をかけた。マンタは言葉を理解したように、口を大きく開いて応える。

 魚群の先端は、すでに雲の内部へ突入していた。後に続く魚たちも、次々と雲の向こうへ消えていく。地上から仰ぎ見る雲はあまりに遠いが、今はもうすぐ手の届くところまで来ている。にわかにマナミの周囲が真っ白になった。マンタも、いよいよ雲の中へと飛び込んだのだ。白く閉ざされた視界。雲を抜ければ、視界は一気に広がるだろう。この雪国のような白いトンネルを抜けさえすれば――。

 ふわっと雲の上に躍り出た。視界いっぱいに青天が広がる。マンタは雲の上すれすれを飛んでいく。雪の積もった丘のように、雲はゆるやかな斜面になっていた。魚たちは一列に斜面を登っていく。マンタも後に続く……が、突然のコースアウト。気まぐれを起こした幼稚園児のように、突然列を離れたのだった。

「おい、どこへ行く?」

 左へそれ、大きくカーブを描く。他の魚たちは構うことなく、列を崩さずに進み、斜面の向こうへ消えていく。焦ってマンタの進行方向を変えようと試みるが、頑としてマナミに従ってくれない。そうこうしているうち、完全にはぐれてしまった。マナミはマンタのヒレを引っ張り、強引にハンドリングしようとする。それが気に入らなかったのか、マンタは頭を天に向け、ひらりとバク転を決めた。天地がひっくり返り、マナミは雲の上へ放り出される。

 雲を突き抜ければ、地上まで落下を止められない。そこで命が尽きたとしても『彼ノ階』にいる限り、誰にも発見されず、マナミの遺体はひっそりと朽ち果てるだろう……。

「おわあ」マナミは声を上げた。「なによ?」

 ――雲の上に転がっている。雲はマナミの身体を落とさず、きっちり受け止めたのだ。手をつくと、見た目通りのふわふわした感触。思いきって立ち上がると、スプリングが詰まったベッドの上に立つ心地がした。こわごわ一歩踏み出す。問題なく、雲はマナミの体重を支える。足がずぶずぶと沈み込むような事態にはならない。一歩、一歩、一歩。足の裏が弾力で押し戻され、左右にふらついて歩きづらいが、何とかなりそうだ。

 魚群が飛び去っていった方角は、雲が山のように盛り上がっている。あの向こうはどうなっているのか、ここからは判らない。とにかく雲の丘の頂を目指して、斜面を登っていくことに決めた。見渡す限り何もない風景も、歩きにくさも、砂丘を思い起こさせる。しかしマナミ自慢の健脚をもってすれば、造作はなかった。

 丘の頂までやって来たところで、隠れていた向こう側の全貌が見渡せた。青空を背景に雲はずっと向こうまで伸び、その上に広大な公園が広がっていた。公園――。なぜ雲の上にあるのか不可解だが、どう見ても人の手で造り出された公園に違いなかった。

 足元から前方に向かって、なだらかな下り斜面が続いている。そこは一面、カラフルに区分けされた花畑となっていた。花畑のあいだを一本の白い路がまっすぐ下っている(その白色は雲の地色だ)。上空にいることを忘れるほどのおだやかな風を感じながら、マナミは白い路をゆっくり降りていく。

 花畑の最初のブロックは、赤とピンクが入りまじっていた。路の左右をいっぱいに埋める赤とピンクの花は、ポピーだった。絵本の一ページに描かれていそうな、美しくも怪しい見目のポピー。赤い花びらの上に、輝くようなブルーの小さな魚――ルリスズメダイが群れている。その横を、レモンイエローのチョウチョウウオが通り過ぎていった。フワフワとミズクラゲも流れてゆく。花の上や間を、様々な魚たちが泳いでいるのだった。

「……天国か?」

 死後の世界へやって来てしまった心地。足下の不安定な雲の路にゆらゆら揺れながら、ポピーの花と鮮やかな色の魚たちを眺めているうち、マナミはだんだんおかしな気持ちになってきた。

 ポピーに続き、路の右側にネモフィラ、左側にナノハナの花畑が現れた。ネモフィラの青色とナノハナの黄色が、雲の白で結ばれている。ネモフィラの上には、のんびりと休息するウミガメの姿があった。小さく愛らしいネモフィラを気にいったのか、ウミガメは優しいまなざしを注いでいる。

 次の区画は、あらゆる色に咲くチューリップと、道を挟んで、ラベンダーが立ち並んでいた。チューリップとラベンダーの狭間、白い路を楽しそうに泳ぐ、縞模様の小さな魚たち――イシダイの幼魚だ。イシダイに向かって、サッと流れる影。チューリップの陰から素早く飛び出したのは、ハンターの風格を帯びたこげ茶色の猫だった。今まで出会ったことのない未知の敵にびっくりしたのか、身をすくませたまま、一匹のイシダイが叩き落された。ハンター猫は獲物をくわえ、得意げに顔を上げる。そこでばったりマナミと目が合い、食事を横取りされてはたまらないと、雲の路を走り去っていった。

 あれは行方不明になった飼い猫のうちの一匹に違いない……マナミは確信した。この公園に、飼い猫たちは連れてこられたのだ、と。地上から遠く離れた雲の上にまで。

 アハハ。思わずマナミは笑ってしまった。迷子になった飼い猫が天空の公園にいるなんて、誰が想像できただろう? 宮天聖があっさり捜索を断念したのも、うなずける。

 しかしこれで、頑丈に閉ざされていた扉が、やっと開かれた。ムンクはここにいる。すぐ近くにいる。今なすべきは、ムンクを探し出し、地上へ連れて帰ること。マナミは慎重に周囲へ目を配りながら、さらに公園の奥へと進んでゆく。

 花畑を抜けると、路の先に小柄なアーチ状の石橋が見えた。橋の下を、ささやかな小川が流れている。雲にU字の溝を刻んで流れる、幅3メートルほどの川。出どころは不明だが、山の湧き水のような透き通った水が流れ続けていた。川岸に立つ猫が盛んに舌を動かして、水をのどへ掻き込んでいる。川を住み処としない海水魚は、流れる水を見てもまるで興味を示さず、その上を知らん顔で飛び交っている。

 橋を渡った先には、未知の植物をかたどった彫刻が立ち並んでいた(素材は岩塩だろうか)。グロテスクな熱帯植物に見えるが、空想の産物のようだ。彫刻を取り囲むように魚たちが泳いでいて、海底遺跡を思わせる。

 続いて、やはり奇怪な植物の形状の、噴水が現れた。茎がくねくねと曲がりながら上に伸び、アザミに似た花を開いて、その中心から水を噴き出している。円形の水場には猫が集まり、喉を潤していた。

 進めば進むほど、目にする猫の数がますます増えていく。百匹、二百匹、三百匹……見回せば、あちらにも、こちらにも、猫たちが群れている。この中からムンクを探すのは、容易ではない気もするが――しかしたとえ群れの中にムンクが紛れていたとしても、耳や尻尾だけで見分けられる自信が、マナミにはあった。

 噴水の先は広場だった。緑の下草が広がり、雲を覆っている。広場の中央には、ヌシのように、大きなガジュマルの樹がどっしりと根を下ろしている。

 広場には多くの猫が集っていた。緑の上に寝そべったイルカと戯れる猫。丸まったフグを転がして遊ぶ猫。エイの背に乗り、宙を飛び回る猫。カニに耳を挟まれ、悲鳴を上げる猫。イワシのトルネードに釘付けになり、目を回す猫。

 そのとき、ぴょんぴょん跳ねながら小魚を追い回す子猫の姿が、家を飛び出したときのムンクと重なった。マナミには見えない「何か」をしつこく追いかけていたムンク。あれは『彼ノ階』にいる魚だったのかもしれない。飼い猫は時折何もない部屋の壁をじっと見つめることがある。それに猫の瞳は畏怖の念を起こさせるほど、神秘的だ。『彼ノ階』を見通せる能力が備わっていたとしても、不思議ではない。

 マナミは広場の中央に立つガジュマルの樹へと歩み寄る。太いものから細いものまで、おびただしい数の気根が垂れ下がるガジュマル。一見化け物のような印象だが、一方で、世界の中心に鎮座し、人々を慈愛の眼差しで見渡す仏様のようにも映る。

 猫たちにとっては安心できる存在なのか、たくさんの猫たち(ここだけで三百匹はいるだろうか)がぐるりとガジュマルを囲んで、まったりしている。足を伸ばして昼寝している猫。お腹を舌で器用に毛づくろいする猫。寝転がったまま仲良くじゃれ合う、二匹の子猫。ガジュマルに登って、樹上で気持ちよさそうにあくびする猫。

 こちらまでふかふかの緑の上に寝転がりたくなる……思考停止に陥りそうなくらいの、平和な光景。猫たちは皆おとなしく、物静かで、広場はシンとしている。

 その静寂の中、一匹の猫が鳴き声を発した。耳慣れた声だった。

「ムンク!」

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