16

「あ、あれ?」

 二人が立っているのは、白砂が敷かれた細い路。路の左右両側には、びっしりと背高の竹が立ち並んでいる。どちらを見ても、竹だらけ。奥の奥まで鬱蒼と竹藪が続いている。顔を上げても、密生した竹の枝葉が空を隠している。路に沿って右側に並ぶ竹の頂が左に傾き、左側の竹の頂が右に傾いて、互いに交差し、屋根を形づくっているのだった。

「どんなイリュージョンよ、これは」

「桜田さん、幻覚じゃないよ。僕たち、きっと竹筒の中に入ったんだ。進もうよ」

 白砂の小路は少しもぶれることなく、まっすぐ伸びている。両側に並ぶ竹も、空を覆う緑の天蓋も、延々続き、まったく途切れない。屋根が遮っているせいか、辺りは夜明け前のように薄暗い。路の白砂だけが、ぼんやりと明るかった。

 初めは横に並んで歩いていたが、だんだん道幅が狭まってきたので、並びを前後に変えて、マナミ、ナオトの順で進んでゆく。路の両端にまで、竹が迫っている。時おり横から伸びた竹の枝葉が、進路をふさぐ――二人が『彼ノ階』へ行くのを、阻むように。

 そのときマナミが気づいた。

「竹が動いてる」ナオトに振り向き、「ただ道幅が狭まっただけじゃない。竹が左右から路を浸食してきているのよ」

「呑み込もうとしているのか? 僕たちを」

「五十嵐くん、走るわよ」

 足元はもはや竹の葉で覆われたケモノミチと化していた。今すぐにも途絶えてしまいそうな、心もとない路。もしも路が失われてしまったら、竹藪から一生出られなくなるのではないか――そんな不安に襲われ、頭に血が昇る。呼吸を荒らげ、竹を掻き分けながら、グラウンドに引かれた白線のような細道を、突き進んでいく。

「え?」

 急に視界が驚くほど広がった。もう目障りな竹は一本たりとも立っていない。その代わりに、どこにでも見かけそうな背の低いビルが立ち並んでいる。

 ガードパイプの向こうを、一台の車が通り過ぎていった。目の前には、歩道に面した小さな店。その黒い壁に印された文字が目に入る――「アダルトDVD&コミック&ゲーム エロエロあるよ!」

 ついさっきまで都内にいたはずだが、二人は一瞬で埼玉まで戻ってきた。八日前、二人が十年ぶりに再会を果たした『ほらアナ』の前まで。

「なんなのよ、これ」

「ここが『彼ノ階』なのかな?」

 ガシャン。背後で響いた派手な音にマナミが振り向くと、自転車が倒れていた。その傍に、制服姿の高校生らしき男子が両手を広げて立っている。ごめんなさい、そう言いながらマナミは自転車を起こした。途端に男子高校生は口をあんぐりと開き、小刻みに震え出す。見開いた眼はマナミに向けられず、自転車にじっと注がれている。まるで化け物を見るような顔で。高校生は二歩後じさりし、自転車の鍵を握りしめたまま、逃げるように走り去っていった。

「まさか……」マナミはナオトと顔を見合わせる。「見えてないの?」

 マナミは少し考えてから何か思いついた様子で、『ほらアナ』の入口へと向かった。

「ちょっと、桜田さん?」

 店に入るなり、マナミはアダルトDVDを棚からつかみ取り、床に投げ捨てた。続けて手当たり次第に、DVDのパッケージを放り投げていく。次々打ち捨てられ、床に散乱していく、刺激的なポルノ写真。唖然とするナオトも意に介さず、マナミは商品を床に落とす手を止めない。ちぎっては投げ、ちぎっては投げ……。

「え? え? なに? なにこれ?」

 突然の騒ぎに、奥の小窓から金髪の青年が顔を出した。目にしたのは、現実と思えない光景。アダルトDVDが右へ左へ勝手に飛び交うという、怪現象だった。店員の青年は首を引っ込め、いなくなったと思うと、外から回ってきたらしく自動ドアを開けて現れた。

 胸に大きく『働いたら負け』とプリントされたTシャツを着た青年は、店の入口で身動きできず、立ちつくしている。

「マジ? なにこれ? なにが起きてるの?」

 心持ち愉快に感じつつ、マナミは青年に向かってDVDを投げつけた。とうがんのような巨大乳房を有する女の子が、回転しながら宙を舞い、『働いたら負け』という文字に向かって飛びつく。

「ふわぁー」

 情けない声とともに尻もちをついた青年は、腰が抜けてしまったのか、それきり立ち上がれない。なに? なに? と馬鹿みたいに繰り返し、混乱が収まらない様子だ。ポルターガイスト現象の犯人マナミは、両手を口に当て、笑いを必死にこらえている。

 マナミは座りこむ店員の脚を飛び越え、ナオトはごめんなさいと手を合わせて、『ほらアナ』を退出した。

「ああ、面白かった。とにかくこれで『彼ノ階』にいることが、確かになったね」

「早速ムンク君を見つけ出そうよ、桜田さん。また、この辺りを探そうか?」

 マナミは首を横に振って、

「勘だけど、わたしの家の周辺にいるような気がするの。行ってもらっても、いい?」

「もちろん。飼い主の桜田さんが、一番よく解っているはずだからね」

 マナミの自宅まで、ここから歩いておよそ二十分。その間、なるべく車が多く通る道を避け、住宅街の中を行くことにした。

 いつも以上に、車の往来には気を配らないといけない。いきなり横道から飛び出してきて接触しそうになったとしても、運転手はブレーキを踏んだりしてくれないのだ。背後から猛スピードで走ってきた小学生の自転車に、激突される恐れもある。交通事故に巻き込まれても相手に非はないだろう――姿を消しているこっちのせいなのだから。

『彼ノ階』は階層が異なるというだけで、ふだんの光景と何も変わらなかった。通りを歩いていても「異界」にいる実感がまるで湧いてこない。住宅の上には青空が広がり、無定形で様々な大きさの雲が浮かんでいる。

「桜田さん、あれ、なんだろう?」見慣れた空に異常を見つけたのは、ナオトだ。

「ほら、大群。ムクドリ……かな?」

 南側の上空を怪しく埋める大群。北に向かって飛んでいるようで、だんだんこちらへ近づいてくる。鳥の群れにしては、羽ばたく動きが見て取れない。群れを構成する個々の影も、大きいものから小さなものまで、多様だ。ようやくその形が確認できる距離までやって来ると、ナオトは驚きの声を上げた。

「え? サカナ……?」

 平凡な日常の光景は一変した。飛来したのは、魚群だった。まるで海の底から泳ぎ回る魚たちの姿を仰ぎ見ているようだった。背景のブルーは、空なのか、海なのか、あいまいになってくる。

「五十嵐くん、見て。あれ……人じゃない?」

 群れの先頭、悠然と空を泳ぐ体長十メートル超のジンベエザメ。その背にすっくと立つ一人の影が、あった。この謎の人物が、ジンベエザメに乗り、数多の魚たちを先導している――そんな風にも映った。

 マナミたちの頭上を、ジンベエザメが通り過ぎる。謎の人物は黒装束で、長く伸びた髪をたなびかせ、目を閉じ印を結んでいた。その立ち姿は、華麗でもあり、どこか醜悪でもあった。

 さらに続々と魚たちが空を飛んで来る。あらゆる種類の海洋生物……大型のイルカもいれば、銀色に輝く小魚の大群もいる。青空は魚影で覆われ、どこまでも途切れない。魚たちは一様に、同じ方向へと進んでゆく。皆が皆、先頭に立つ謎の人物に従って、その道をたどり、列をなしてついていくのだ。その様は河のようだった――住宅地の上空に、魚群の河が、延々と流れている。

 道路の真ん中を、三匹の猫がこちらへ駆けて来た。シロ猫、キジトラ猫、ミケ猫。三匹とも、低空飛行する美味しそうなアジを、夢中で追いかけている。猫から見れば、大好物の魚を狩りで仕留められる、またとない機会だろう。おまけに獲物は目移りするほど、たくさん飛び交っているのだ。猫たちは飛び上がり、前足を伸ばしては、魚を仕留めようとエキサイトしている。

 三匹のうちトップを走る、シロ猫。その体に、上から垂れてきた数本の細い紐が、巻きつく。――紐に見えるが、実はクラゲの脚だった。クラゲはシロ猫を捕えると、ふわりと上昇する。つられて、シロ猫の体も浮かび上がる。クラゲに吊り下げられたまま、シロ猫は魚群の流れに加わり、空を飛び去っていく。

 続いてキジトラ猫は、イカの脚にからめ捕られ、空へと昇り、飛んで行った。ミケ猫はアジを捕まえようとジャンプしたところ、後ろから地面すれすれを泳いできたウミガメの甲羅に乗っかってしまった。すかさずウミガメは上昇を始め、あえなくミケ猫もまた、空へと連れ去られていくのだった。

 一部始終を目撃したマナミが、ぽつりと言う。

「犯人、見つけた」ナオトに向かって、「猫さらいの犯人、見つけた!」

 マナミはぐるりと見回してから、近くの民家の敷地へと走り、飛び込んだ。屋根から伸びる雨樋をつかみ、窓枠に足をかけ、軽々と外壁をよじ登る。ボルダリングのチャンピオンと見紛う身のこなしで、マナミは二階のベランダへ降り立った。

 物音に気づいた主婦が、ベランダに顔を見せた。すぐ目の前にマナミがいるにもかかわらず、主婦は首をかしげ、家の中へと引っ込む。

 マナミはベランダの柵に立ち、右から左へと流れていく魚の群れを目で追う。目をつけたのは、こちらに向かってくるマンタだった。小柄な女性を乗せるのに、充分な大きさを備えている。そのままのコースで真っ直ぐ飛んでくれば、ベランダからの距離、高さ、ともに申し分ない。

「子供のとき、コウノトリに乗って大空を飛んでみたかったんだよね」

 タイミングを計って、マナミは宙に飛び上がった。顔に小魚がバチバチと当たる。それをものともせず、マナミの眼は飛来したマンタの背をしっかり捉えた。マンタも、突然の背中への衝撃にびくともせず、乗客をしっかりと受け止める。すぐにマナミは両手で、マンタのツノ状のヒレをつかみ、片膝をついて前を向いた。――短距離走のスタート直前のように。

「桜田さん!」

 魚群と共に飛び去るマナミを、取り残されたナオトは呆然と見送り、道路に立ちつくしている。マナミは空の上から大きく手を振って、ナオトへ「行ってきます」と告げた。

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