15

 入口正面のエレベーターで最上階へ昇る。廊下の突き当りに、外へ通じていそうな白い鉄扉。そっとドアノブを引いてみると、途端に勢いよく風が吹き込んできた。扉の向こうには、ごく小さなベランダが飛び出している。箱型で、二人立てば埋まるほどのスペースしかない。万一この狭い空間からはみ出せば、8階からビルの谷底に転落する運命だ。

 ベランダからビルの頂に向かって、壁に梯子が立っている。唯一の、屋上に続く危なっかしい通り道。強い風に煽られ、足を滑らせるおそれもある。ためらうナオトを尻目に、マナミは平然と梯子をつかみ、軽々と昇った。仕方なくナオトも、勇気を振りしぼって後に続く。

『さゆりビル』の屋上は、その外観から想像した通り、殺風景だった。周囲を、一メートルくらいの高さのコンクリートの壁が囲っている。その壁の前に――立て膝で座る一人の男が。取り立てて何もない屋上で、そこだけ空間が際立っていびつに映る。

 たまらなく鼻をつく、異臭。風が運んできた圧倒的な異臭に、マナミは顔をしかめる。臭いに押され、近づきがたいが、それでもゆっくり男のもとへ歩み寄る。吹きつける風と異臭が、ますます強まっていく。

 男の格好は、二百年着古したようなボロボロの着流し。胸を大きくはだけ、焼けるように赤い肌があらわになっている。荒れ狂い伸び放題となった密林のような長髪が、顔を完全に覆い隠し、妖怪の風貌へ近づけている。

 男の片手に握られているのは、カステラだ。垂れ下がる髪の毛を暖簾のようにどかしては、粗野な無精ひげに囲まれた口へカステラを運んでいる――足元に広げられた雑誌のグラビアページを、眺めながら。ブロンドヘアがなまめかしく波打つ、ロシア美女のヌード写真。デッキチェアに横たわり、半球型の乳房を、これ見よがしに披露している。

「こんにちは」声をかけたのはナオトだ。

 男が顔を上げ、髪をどかす。覗いたのは、ぎょろりと剥かれた眼球だった。

「お初にお目にかかります。私、五十嵐ナオトと申します。恐れ入りますが、クニヨシ様でいらっしゃいますか」

「誰が?」

 立て膝座りのまま、男はナオトを下からぎろぎろと睨みつけ、威圧する。思わずたじろいで、ナオトは言葉に詰まってしまった。すると困惑するナオトをぐいと押しのけ、マナミが前に進み出た。

「とぼけないでよ、クニヨシ」

「さ、桜田さん……」

 凄まじい風貌の男――クニヨシは、マナミを珍しそうにじろじろと見上げた。マナミは唇をへの字に結び、大きな瞳で上から睨み返す。見開かれたクニヨシの眼は気味が悪く、尋常でない気迫を放っている。その圧迫感は息を詰まらせるほどだが、マナミも決して負けてはいない。眼光の強さは、両者互角だった。

 睨み合いが三十秒あまり続き、クニヨシが口を開く。

「おねえちゃん」

「桜田マナミです」

「マナミちゃん」クニヨシが言う。「バナナ食うかい」

「は、はいいい?」

 クニヨシのかたわらには、丸くふくらんだスーパーのレジ袋が二つ。そのうちの一つに手を突っ込み、バナナを――バナナらしきものを取り出し、マナミに差し出した。

「高地栽培のバナナさ。ゴミ箱から拾ってきた。ほれ、やるよ。完熟で甘えぞ」

 黄色かったはずの皮は、すっかり黒ずんでいる。それはバナナというより、古い木片に見えた。口に入れるのも、さらに飲み込むのも、相当な勇気が要りそうだ。

「遠慮しておく」マナミは手のひらを向けた。

「なんでい、そうかい。なら、ワシが食うまでさ。どれどれ一口――う、うめえ! この濃厚な、ねっちょり感がたまんねえ」

 腐ったバナナをくちゃくちゃ食べるクニヨシに、ナオトがおそるおそる話しかける。

「クニヨシさん……僕たち、お願いしたいことがあって来ました。クニヨシさんにしか頼めない、特別なお願いです。本当に、困っているんです。僕たちに残された道は、クニヨシさんへ協力を仰ぐことだけ――」

 ふあああ……クニヨシは大きく、あくびを放った。それからバナナの皮をレジ袋に放り込み、「ああ眠みい」とつぶやいて、背後の壁にだらしなくもたれかかる。はだけた赤い胸板をボリボリと爪で掻き、もう一発、大きなあくびをしてみせる。

 クニヨシに冷ややかな眼を向けていたマナミは、とうとう我慢できずに踵を返した。

「五十嵐くん、帰りましょう」

「桜田さん!」

 引きとめるナオトを振り切って、歩き去ろうとする。

「マナミちゃん!」クニヨシも呼び止める。

 五歩引き返したところで足を止め、マナミは突き刺すような視線をクニヨシに向けた。

「マナミちゃん、いい脚してるじゃねえか」

 ショートパンツから伸びる輝かしい太腿を、膝を、ふくらはぎを、足首を、クニヨシは惚れ惚れと見入っている。それから片手を前に伸ばし、おいでおいでと、マナミを誘う。

「その絶品の美脚、ワシにちょいと触らせてくれねえか」

 マナミは屋上のコンクリートを踏みつけるようにして、大股でクニヨシに近づいた。クニヨシの前に立ち、鼻から息を大きく吸い込む。――ドン! コンクリートが陥没しそうな勢いで、マナミの右足が踏み出された。

「触りなさいよ」

「さ、桜田さん……」

「触ってもいいけど、その代わり、こっちのお願い、ちゃんと聞いてよね」

「ああ、聞くとも」クニヨシはニヤニヤする。「どれどれ。それじゃあ、早速触らせてもらおうかい」

 バナナのねちゃねちゃと垢のこびりついた掌が、目の前に差し出された太腿へと、伸びる。いよいよ手が触れる――寸前、マナミはわざと右脚の筋肉に力を込めた。

「か、固てえ! ずいぶん立派な大腿四頭筋じゃねえか! 下腿三頭筋も、申し分ねえ。マナミちゃん、さては鍛えてるな? もっと磨きゃあ、山人になれるぜ」

 マナミは何も言わず、サッと脚を引いた。

「いいでしょ、もう。脚を触らせてあげたんだから、今度はこっちの頼みを聞いてもらう番よ」

「僕から説明する」ナオトが前に出る。「クニヨシさん、聞いてください。桜田さんの家の飼い猫が『彼ノ階』へと迷い込んでしまったんです。占い師のアマリリスさんから、クニヨシさんなら『彼ノ階』へ行けると伺って、ご協力をお願いしに参りました。どうか、『彼ノ階』にいる桜田さんの猫を探し出してあげてください。もうクニヨシさんにしか、頼めないんです。お願いします!」

 ナオトが深々と頭を下げると、クニヨシは大げさに「はああ?」と言って、あからさまに嫌悪を示した。

「迷子の猫を探せだあ? てやんでえ! そんなもなぁ、犬のおまわりさんにでも頼んどけ」ナオトに唾を吐きかけ、「そんなチンカス仕事、やってられっかっつんだい。こちとら神と崇められたクニヨシ様だぞ? それに今日は二十年ぶりに隅田川花火大会を見に来たんでい。ちまちま猫の相手をしてる暇なんざ、ねえ――ぐふぉっ!」

 股間に両手を挟み、コンクリートの上をみっともないほど、のたうち回るクニヨシ。絞り出すような唸り声を洩らし、びくびくと痙攣しながら。

「どうよ? 鍛え上げられた脚によるトーキックの味は、どうよ?」

「くっそ、キンタマを蹴りやがって!」

 マナミは蔑む眼で見下ろし、

「脚を触らせたら、こっちの頼みを聞く約束だったじゃない。ちゃんと守りなさいよ」

「聞かねえつったら聞かねえ! そんなに言うなら、てめえらで行ってきやがれ」

「え、行けるんですか?」

「ワシがてめえらを『彼ノ階』へ送り込んでやれば、済む話じゃねえか」

「それを先に言いなさいよ」

「まったく……」

 クニヨシはふところに手を突っ込み、青竹を取り出した。横笛を思わせる細い竹の棒。顔の前に持ち上げ、二人の後方へ、軽く放り投げる。竹はコンクリートの面で乾いた音をたてて跳ね上がり、車輪のように転がっていく。やがて屋上の中央付近で回転を止め、その先端をこちらに向けて静止した。

「そいつの節は完全に打ち抜いてある。筒になってるから、そこを通っていけ。こっちの穴から入って、向こうの穴から抜けりゃあ、そこは『彼ノ階』さ」

「通るって……指一本しか入りそうにないけど」

「マナミちゃん、細けえこたぁ、気にすんな。いいから、行ってみな」

 マナミとナオトは顔を見合わせ、転がる竹に向かって、同時に一歩踏み出した。

 ――一気に吸い込まれる感覚。急速に身体を持っていかれる感覚。まるで掃除機に吸引されるノミになったような。

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