11


「ムンク!」と叫び――マナミはヒッと小さく悲鳴をあげた。

 見通しの悪い十字路を駆け抜けようとするムンク。そこへ右から、漆黒の車が迫る。

 車のバンパーが接触する――その直前、ムンクはサッカーボールになった。バンパーに弾かれ、ボールは山なりに飛んでいく。

「ムンク!」

 マナミは駆け出す。飛び去るサッカーボールを追って。

 道は下り坂となり、着地したサッカーボールは数回跳ねた後、斜面を転がり落ちていく。

 にわかに視界が開け、左右を見ると、道幅が大河の河口と変わらないくらいまで広がっている。一面アスファルトのだだっ広い坂道は、まるで斜に傾いた広場だ。

 どんどん急斜面となり、サッカーボールはスピードを上げ、遠ざかっていく。制御不能なほど、勢いがついてしまったマナミ。足がもつれ、前のめりとなり、アスファルトに膝を打ちつけながら転倒する。マナミもまたボールのように、急坂を転がり落ちる。

 回転が止まると、両脚に刃物で切られたような痛みを覚えた。もう無理だ。走れない。立ち上がれない。アスファルトの表面に、膝から流れ落ちた紅い血が広がっていく。

「どうした、桜田! 立て! 走れ!」

 顔を上げる。高校陸上部監督のヤマザキ。激しい形相で、見下ろしている。

 アスファルトの道は、高校のグラウンドに変わっていた。マナミを置いて走り去っていく、部員たちの背中。追わなければいけない。立ち上がらないと。

 走り出すが、一歩踏み出しただけで、もろくも転倒してしまう。足に違和感を覚え、目をやる。ギョッとする。右脚は日本刀に、左脚は金属バットになっていた。

 こんな脚では、とても走ることはできない。声援を浴びてグラウンドを駆ける――そんなかけがえのない時間が、奪われてしまった。

 悔しさのあまり、涙をこぼす。グラウンドに突っ伏して、身体を震わせる。

 足音が近づいてくる。力強く大地を蹴る音。顔を上げると、目の前を三人の男たちが通過していった。ブラジルのユニフォームを着たサッカー選手。先頭の選手が、サッカーボールをドリブルしながら駆けてゆく。

「ムンク! 待って! やめて」

 マナミは立ち上がり、後を追う。幸い、両脚は元通りになっていた。ホッとする。マナミにとって鍛え上げた両脚は、宝物なのだ。

 ブラジル選手のスピードは、驚異的だった。とてもサッカーボールを扱っているようには、感じられない。神業と言ってもいいくらいのテクニック。

 ドリブルから、サイドへ向けてパスが上げられた。パスを受けたのは、真っ黒なカラスだ。体長二、三メートルある、悪魔の化身のような、巨大なカラス。サッカーボールを長く尖ったくちばしに挟み、バサバサと羽ばたいて、飛んでいく。

 懸命に追いかけるが、みるみる離されていく。走っても走っても、前に進まない。足下を見ると、地面がルームランナーのように前から後ろへ流れている。

 ついにカラスを見失い、マナミはがっくりと地面に膝をついた。全身から力が引いていく。うなだれたまま、顔が上げられない。走る気力もなくしてしまった。

 ムンク……嫌だ……いなくならないで……ムンク……。

「イ、ヤ、だ!」

 ぐるりと、幽霊じみた樹が囲んでいる。色濃く繁った葉が空を隠し、あたりは仄暗い。深い森の底にいるようだ。マナミはやっと立ち上がり、重い足取りで、落ち葉を踏みしめてゆく。

 森を抜け、湖のほとりに出た。周囲は、今しがた夜になったかならないかのような、微妙な暗さ。紺色の空に円い月が浮いて、湖面に月影を映じている。

 湖の中央から突き出て、月に向かって伸びているのは――階段だ。階段を光る「何か」が登っていく。煌々と輝く、玉のような光。

 導かれている……そう直感したマナミは、水際に足を踏み入れた。湖面は凍っているように見えないが、足は沈まず、水面に乗っている。マナミは思いきって、湖の上を駆け出した。砂の上を走っているような感触が、足裏に伝わってくる。

 階段は大理石でできており、水中から飛び出て、およそ四十五度の角度で延々と続いていた。雲の上まで伸び、その先どこまで達しているのか、見当もつかない。

 仰ぎ見ると、光る「何か」がもうすぐ雲に届きそうなほどの高みを登っている。

 湖面から大理石の階段に飛び移り、マナミは月に向かって駆け登る。この先にムンクが待っている――そんな予感がして。

 ムンク……待っていて……今から助け出してあげるから……。

 いくら登っても、終わりがまったく見えない、気が遠くなる階段。だんだん足が重くなっていく。視界がぼやけてくる。

 背筋がひやりとする。どうやら、背中に気味の悪い死霊がしがみついているらしい。

 ずいぶん登ってきた。頭のすぐ上を、雲が流れていく。なんとなく嫌な感じがして振り返ると、今まで登ってきた階段は、すっかり消えていた。

 マナミは恐ろしくなり、足がすくんだ。その間に足元の階段も、幻のようにフッと消えてしまった。宙に放り出された身体は、湖面へと引き寄せられる。

 大地に空いた真っ黒な穴にも似た、湖面へと。


 ――ガサッ。物音がマナミの眠りをさます。弾かれたようにベッドから半身を起こし、部屋を見回した。日が昇ったばかりのやわらかな明るさが、部屋を満たしている。

「ムンク、いるの?」マナミは虚空に向かって話しかける。「部屋の中にいるの? いるなら、答えて。鳴いてごらん、ムンク。ニャー、ニャー」

『彼ノ階』にいる者は、『此ノ階』から見ることができない。たとえ目の前に立っていたとしても。

「ムンク、お腹すいた? ごはん、ちょうだいって。ほら、ニャー、ニャー」

 部屋は朝の静けさに包まれている。目覚める直前に聞いたのは、何の音だったのか。夢の中で響いた音だったのか。マナミ自身がたてた音だったのか。

 息を殺して、耳をそばだてる。目をつぶり、気配を感じ取ろうとする。

 ――部屋は静まり返ったまま、微かな変化さえ起きず、マナミは肩を落とした。

「……姿が見えないなら、いないのと同じじゃない」

 ムンクは亡霊となったわけではない。たとえ亡霊に近い存在であるとしても。

 ふだん猫は大人しく、もの静かな性質だ。日中は多くの時間を眠って過ごし、その間、ときどき姿勢を変えたりするものの、際立った物音は一切たてない。

 もしかすると今だって、マナミの足元でリラックスして寝そべっているかもしれない。……が、それはただそんな気がするだけで、やはり、いないのかもしれない。

 いるのか、いないのか。それを確かめるすべはない。このあいまいで、不確かな、まるで濃霧の中に閉じ込められたような状況が、マナミを苦しめ、悲しませる。


 家を飛び出した室内飼いの猫が迷子となり、数日間さまよったあげく、ふらりと戻ってきたという話を、知人から聞いたことがあった。ムンクも、腹をすかせてひょっこり帰ってくるかもしれない。マナミは辛抱強く待ってみることにした。

 防犯上好ましくないが、一階の掃き出し窓は、猫が通れる幅だけ開けておいた。窓のそばには、ムンクが常食としていたキャットフードを置いておく。これでもしキャットフードがなくなっていれば、ムンクが戻ってきた証拠となる(野良猫に盗られた可能性もあるが)。

 月曜、火曜。仕事から帰宅し、いの一番に確かめるも、残念ながら変化はない。水曜、木曜。やはりキャットフードに手をつけた跡は見受けられない。

 木曜の夜、マナミはついにフードを片づけてしまった。仮に戻ってきたとしても、姿を見ることはできない。もしフードがなくなっているのを見たら、かえって、ますます辛くなるのではないか……そう考えたのだ。なんて残酷な運命だろうと、マナミは嘆いた。

 結局、アマリリスに諭されたように、あきらめるしかないのだろうか。ムンクは『彼ノ階』にいるだけで、あの世へ旅立ったわけではない――それなのに。

 あきらめきれない思いと、もうどうしようもないという思いが、繰り返し入れ替わる。そうしているうち、悪いほうへ悪いほうへと、マナミの気持ちが傾いていく。

 これは現実なのだ。どんなに残酷でも、どんなに理不尽でも、もう曲げようのない現実なのだ。受け入れるしか、ない。

 ムンクはいなくなった。身を守りきることはできなかった。寿命が訪れるそのときまで責任をもって育てる――約束は果たせなかった。

 小学生のとき子猫の命を守れなかった、あの耐えられないほどの苦しみがよみがえる。身体中をナイフで切りつけられているような、はなはだしい苦しみが。

 自分はひどい人間だ。頼りない人間だ。最低の人間だ。恥ずかしい人間だ。価値のない人間だ。

 小さな命を守ることすらできない、どうしようもなく弱い人間だ。


 脚が重い。筋肉が固い。関節の動きが鈍い。立ち上がって、前に進むのがやっと。まるで使い物にならなくなった、マナミの大事な宝。

 とうとうマナミは、走れなくなってしまった。泳ぎ続けないと死んでしまうサメみたいに、毎日走り続けてきたというのに。

 泳ぎ続けないと死んでしまう。走り続けないと死んでしまう。このままでは死んでしまうかもしれない――。

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