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 アマリリスの話から、クニヨシの大まかな人物像は知ることができた。が、クニヨシの居場所がつかめないのなら、そんな情報は意味がない。クニヨシに会って、クニヨシにムンクを探し出してもらう――それこそが、一番の目的なのだ。

「どうして?」マナミはアマリリスをまっすぐに見る。「どうして、クニヨシじゃないとダメなの? 宮がそう言った理由はなに? ムンクはどこへ行ってしまったの?」

 アマリリスはひと呼吸おいてから、

「うん、そうだね。そこが話の核心さ。それじゃクニヨシはひとまず置いて、そっちの話に移ろうか。いいかい? あたしの見解を言うよ。ムンクちゃんは一体どこへ行ってしまったのか――おそらく『彼ノ階』じゃないかと思うんだ」

「「カノカイ?」」

「実を言うとね、これは秘密事項なのさ。宮が言葉を濁しただろう? 捜索を打ち切った理由について。それはね、むやみに他言してはならないからさ。ああ見えて、あの男は律儀だからね。……けど、あたしは教えてあげるよ。あなたたちになら、ね。あなたたちは信用できる。間違いない。だてに四十年、占い師をやってきたわけじゃないよ。その間、たくさんの人と会って、言葉を交わしてきた。人生相談みたいなこともよくやった。さまざまな悩みを聞いたり、本音で語り合ったりしてきた。人を見る目にはちょっと自信があるんだ。あなたたちは大丈夫。だから教えてあげよう」

 アマリリスは一旦言葉を切って、およそ五秒間まぶたを閉じた。

 キャンドルの火がゆらりと揺れる。

「まず言うとね、世界は二つの階層から成る。『此ノ階』と『彼ノ階』の二つに。『此ノ階』は今こうして見ている現実の領域。『彼ノ階』は我々には不可視の、もう一つの領域……と言っても、異世界やパラレルワールドじゃないよ。『此ノ階』と『彼ノ階』の二つが合わさって、一つの世界を形成しているんだ。陰と陽が組み合わさり一つの円となっている、陰陽太極図のようにね。解るかい? ちょっと図を描いて説明しよう」

 アマリリスは席を立ち、メモ用紙と万年筆を手にし、戻った。星座の模様が入ったメモを一枚はがし、テーブルに置く。そこにまず円を描いた。さらに円の外側へ、もう一つの円が書き加えられる。紙の上に、二重の円が完成した。

「初めにことわっておくけど、これはあくまでイメージだからね。イメージ図だから、そのつもりでね。この◎の内側の円が『此ノ階』で、外側の円が『彼ノ階』。『此ノ階』が『彼ノ階』に覆われているイメージさ。『彼ノ階』が『此ノ階』を含んでいると言ってもいい。とにかくこの◎で、一つの世界を表しているんだ。で、ポイントが『此ノ階』から『彼ノ階』を見ることができないということ。『彼ノ階』から『此ノ階』を見られるというのに。それはね、こういうことなんだ」

 メモに、今度は長方形を書き込む。帯状の、細長い長方形。その下側に接するように、もう一つの帯状の長方形を加える。これで上下に帯が並んだ。上と下で帯の長さが違う。下のほうが、上より左右の長さが短い。

「今描いた図は、◎を真横から見たところさ。上の長方形が外側の円――『彼ノ階』で、下の長方形が内側の円――『此ノ階』。上位の『彼ノ階』から下位の『此ノ階』を見ることはできるが、その逆は叶わない。天上の神様から下界は見渡せるが、地上から神様の姿は拝めない。そういう関係さ」

「解りました。二重円は真上から見たところですね」ナオトが口を挟む。

「その通り。横から見れば上下の関係なんだけど、上から見ると横並びの一緒くたになっちまうのさ。不思議だね。『此ノ階』にいる人と『彼ノ階』にいる人は同じ高さに並んで立っているはずなのに、実質はそうでない。あくまで関係は、上下なんだ。『此ノ階』から『彼ノ階』にいる人の姿は見えない。たとえ目の前に立っていたとしても。早い話が、透明人間と同じことさ」

 びくっ。マナミがわずかに反応する。一瞬であったが、アマリリスは目ざとく見つけ、

「……何か?」

「……いいえ」

 透明人間。心当たりがある。今朝、勝手に錠が外れ、開いた、マナミの部屋の窓。姿の見えない何者かが、あの場にいたのか。あれは透明人間の仕業なのか。

 マナミの首筋を嫌な寒風がなめる。

「さっき秘密事項って言ったのは、要するにそれさ。『彼ノ階』に行けば、透明人間になったも同然なんだ。悪事をはたらこうと思えば、いくらでもできる。殿方なら誰もが憧れる妄想も、実現する」

 そこで言葉を切って、ナオトをちらっと窺う。ナオトは気まずそうに視線を外した。

「窃盗も、無賃乗車も、街中の人をいきなり殴り倒すことも、建造物破壊も、やりたい放題さ。――ただし『彼ノ階』に行ければの話だけど。誰でも自由に行けるわけじゃないんだ、『彼ノ階』は。神に近づいたクニヨシくらいの超人でなければ、叶わない夢なのさ。だから秘密なんていったって、暴露したところでどうにもならない。だいたい『彼ノ階』『此ノ階』にしても、証拠があるわけでもなし、まずこの現実離れした説を信じてもらえるかどうか」

 マナミは信じることができる。目の前で起きたあの不思議な現象も『彼ノ階』にいる姿の見えない何者かが手を下したとすれば、説明がつく。やはり今回の件は特殊なのだ。特殊な対応が必要なのだ。

 するとナオトも呼吸を合わせるように、

「僕は超常現象とか、受け入れられます。中学生の頃から、怪奇小説や幻想文学を読んでいますから。今のお話で、心霊現象を思い出しました」

「うん。そうだね。心霊現象の多くは『彼ノ階』にいる誰かの仕業じゃないかと、あたしは踏んでいる。誰もいない部屋から物音が聞こえたり、ドアが勝手に開いたり、家に一人きりのはずなのに人の気配を感じたり、ポルターガイストやら、ラップ音やら、すべて『彼ノ階』の人騒がせな透明人間がやっていると考えれば、納得できるね。中には本当に心霊が絡んでいるケースもあるかもしれないけど」

 なんとなく事態が見えてきた一方で、マナミにはまだ腑に落ちないことがある。

「アマリリスさん、ムンクは『彼ノ階』へ行ったって言うけど、『彼ノ階』へは超人しか行けないんでしょう? どうやってムンクは『彼ノ階』へ?」

 アマリリスは困った顔で、

「それは正直、解らないね。まれに『彼ノ階』へ迷い込んでしまうことはあるらしい。ほら、神隠しとか、四次元空間とか、言うだろ? 何かの拍子に入口が開いて、意図せず入り込んでしまう――そんなアクシデントが起きる可能性もゼロではない。あるいは何者かによって『彼ノ階』へ引きずり込まれたとか……そこまでいくと、宮じゃないけど、お手上げさ。完全に理解の範疇を超えちまう」

 まただ。このまま幕を引かれてしまうのか? 

 マナミは食い下がる。

「どうすればムンクを『此ノ階』へ戻せるの?」

「やっぱりクニヨシに協力してもらうくらいしか、ないだろうね」

「クニヨシに頼むには、どうしたらいいの?」

「さっきも言ったとおり、クニヨシはどことも知れない山奥にいる。協力を頼むどころか顔を拝むことさえ、99.9パーセント無理さ」

「それじゃ……ムンクは……?」

「あきらめなさい。かわいそうだけど」

「嫌よ!」

「もう、どうにもならないね。けど、ムンクちゃんは死んじまったわけじゃない。『彼ノ階』で元気にしているさ」

「嫌だ……嫌だ……嫌……」

 マナミが両手で顔を覆うと、アマリリスは、占いで最悪の結果が出てしまった客を慰めるように、優しく声をかける。

「現実はね、受け入れなければならないんだよ。たとえそれが、辛く悲しいことであっても。時間はかかるかもしれないけど、気丈に乗り越えられるさ。大丈夫」


 夜の九時を回って、マナミは帰宅した。母ルリ子が小走りで現れ、

「マナミ、どこへ行ってたの? 朝、家を飛び出していったきり全然戻らないし、連絡もくれないから、心配したじゃない」

「……ごめん。携帯、持ってなかったから」

「マナミ……何かあったの? 顔色が悪いわ」

「…………」

 ――ふと思う。アマリリスの言っていたことがデタラメの作り話でないと、どうして言い切れる? 宮天聖にしても、どこか胡散臭い。さっきは信じきってしまったけど、冷静になって考え直せば、おかしい点はいろいろある。

 案外、ムンクが家を飛び出し、ちょっと近所を冒険した……ただそれだけの、他愛ない話に過ぎないんじゃないのか? すでに冒険を終えて帰宅し、今ごろマナミの部屋で毛づくろいでもして、のんびりしているかもしれない。マナミを見て、いつものように尻尾を立て、体をすり寄せてくるかもしれない。

「ムンク……」

 マナミはルリ子の肩を押しのけ、二階へと走る。ムンクが出入りできるようドアが開けっ放しにされた、マナミの部屋。部屋の中へ。そこに愛猫の姿はない。身を床に伏せ、ベッドの下を探す。タンスの上、スチール棚の間、机の下、トレーニング用品の陰、押入れの中、カーテンの裏……部屋中、隈なく探したが、

「ムンクがいない」

「……マナミ?」

 いつの間にか部屋の入口にルリ子が立ち、こちらを心配そうに窺っている。

 マナミは部屋を飛び出した。トイレ、浴室、キッチン、リビング――家中駆け回ってムンクの影を求める。テレビの裏側、エアコンの上、浴槽の中、棚と壁の隙間……。

「ムンクがいない……」

 ――現実はね、受け入れなければならないんだよ。たとえそれが、辛く悲しいことであっても。

「ムンクがいない……ムンクがいない……」

「マナミ」

 ルリ子が立っている。心配そうな母親の顔を見た途端、マナミの瞳から涙が落ちた。

「ムンクがいない!」

 流れ出す涙が止まらなくなった。床にしゃがみ込み、子供のように、激しく泣いた。このまま泣きすぎて脱水症状となり死んでしまうかもしれない……涙と一緒に魂まで排出してしまうかもしれない……そう思えるくらい、マナミはとめどなく泣き続けた。

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