大宮駅でナオトから切符を手渡され、マナミは申し訳なさそうに頭を下げた。昼食をおごってもらい、『ミラクル・サイキックサーチ』での着手金と、新宿までの電車賃まで出してもらった。おまけにいなくなった飼い猫のことで、朝からずっと、あちこち引きずり回しているのだ。マナミが謝ると、ナオトは笑顔で、

「気にしないで。乗りかかった船だしさ、とことん付き合うから。だって桜田さん、ムンク君がいないと元気ないし。ほっとけないよ」

「ありがとう、五十嵐くん。お金は後でまとめて返すからね」

 二人は大宮でJR湘南新宿ラインに乗り、新宿へと向かった。新宿駅で降り、人波を縫って進んで、都庁のある西口に出る。大都会を主張するように立ち並ぶ高層ビルを横目に見ながら、大久保方面に歩いていく。スマホのGoogleMapsに従い、騒がしい大通りから細い道に入って尚も歩く。到着したのは、黒に近いチャコールグレーのマンション。マンション名を確認し、二人はエントランスへと進んだ。

 インターホンに向かい、ナオトが挨拶する。

「こんにちは。僕たち、宮天聖さんからの紹介で来ました」

 どうぞ、という声が聞こえ、オートロックが開錠された。エレベーターで5階に昇り、アマリリスの暮らす部屋にたどり着く。現れた、小柄な老婆。ムラサキに染めた髪とムラサキの口紅。フレームの大き過ぎる眼鏡が、目を引く。とりわけ目を引くのは、年齢とまるで不釣り合いなゴスロリドレス姿だった。『新宿の太母』と称されるかたわら、少女の魂もずっと持ち続けているらしい。

 マナミたちが自己紹介すると、アマリリスは目を細めて、

「よく来てくれたね。ちょうど話し相手がほしいと思っていたところだよ。しかも若いお客様なんて近ごろは滅多にないから、大歓迎。さあ、どうぞ上がって」

 一歩入ると、そこは異空間だった。日没前にもかかわらず窓は黒の遮光カーテンが引かれ、照明はキャンドルの灯ばかりで、室内は暗い。急激に時間の感覚が、失われていく。薄明りに浮かび上がる水晶の玉、並べられたタロットカード、六芒星の魔法陣、虚ろな目のフランス人形、薔薇の装飾に縁どられた鏡、深紅のソファ、ガラスケースでとぐろを巻く白蛇……。

 古めかしく重々しい漆黒のダイニングテーブルに、魔法使いが座ったら似合いそうな椅子が、二つずつ向かい合う。

「どうぞ腰かけて。今お茶を入れるから」

 マナミとナオトは並んで座り、大方を影が占める部屋を見回す。ダークで異様な雰囲気に呑まれ、ここへ来た目的を見失ってしまいそうだ。

 二人にラベンダーティーを出し、アマリリスは向かいに腰を下ろした。

「あたしも、もう八十二になるから。七年前に旦那が肺癌で逝っちまってからは、ひとり寂しく、毎日過ごしているんだよ。こんな風だから、話の合う人もいなくてさ。そりゃ、占いをやってるときは良かったけど、今じゃただの変わり者だ。変わり者の婆さんさ。知らない人が見たら、年老いた魔女と間違えるかもしれないね」

 アマリリスはそう言って、自嘲気味に笑った。

「ところであなたたち、何か聞きたいことがあるんだって? 宮からメールをもらってるよ。……あ、そういえば宮だけど、顔が宮史郎に似てただろう?」

 ナオトは小さく笑って、

「お聞きしたいのは、クニヨシさんについてです。アマリリスさんはクニヨシさんと会って、話し合われたそうですね。僕らはクニヨシさんのことを何も知りません。なので、教えてほしいのです。クニヨシさんに関する情報を、できる限り」

「べつに構わないけど、なぜ?」

 マナミが今日の顛末を話す。そのあいだ、アマリリスは何度もうなずいて、終わりに大きくうなずいた。すべて飲み込めた、という風に。

 アマリリスは眼鏡の位置を直してから、二人を交互に見て、

「クニヨシだけどね、ひと言でいうと『山人』さ」

「「サンジン?」」二人が声を揃え、顔を見合わせる。

「里を離れ、山に分け入って、山奥に籠る。修行のためにね。山人の究極の目的は通力を得ること。死と隣り合わせの過酷な修行を積んで、通力を得るんだ。そして山人は超人となる。生身の人間が神に近づく。山の頂は神の住む天に近い。山人は頂上から、天へと昇る。通力を得た山人は空を自在に飛び回ることができる。その姿はときに『天狗』と呼ばれて畏れられ、『山神』と呼ばれて崇められる」

 ――それはもう、すごいお方です。私など足元にも及びません。神に近い存在と言っても、ぜんぜん大げさでない――宮天聖は、そう語った。

「クニヨシさんは……天狗なのですか?」唖然とするナオト。

「本当に空を飛べるの?」マナミは疑いの目を向ける。

 アマリリスは二回うなずき、

「空を飛んだり、跳ねたり、駆け回ったり、思い通りさ。どこまでも飛んでいける。宇宙にだって飛んでいける。月に降り立ったこともあるそうだよ」

 ふたたびマナミとナオトは顔を見合わせる。お互いの正気を確かめ合うように。話は思わぬ方向へと転がり、一気に現実から離れてゆく。飼い猫が自宅を飛び出したところから始まり、とうとう人が空を飛んで月に行くところまで来てしまった。

「通力を得るとね、空を飛ぶだけじゃない。あらゆる術を使いこなす。こう右手と左手を組み合わせて、印を結ぶだろう? そこで、まじなう。すると火は水となり、石は果実になる。鳥は魚となり、虫は花となる。山人自らも、千変万化さ。動物、機械、樹木、自動車、武器、竜……なんにでも化けちまう」

 マナミとナオトは同時にため息を吐いた。

「それと比べたら、コーヒーカップを浮かせるなんて、確かに子供のお遊戯だわ」

「神話ですね、まるで。もしくは中国の仙人とか――」

「そう、仙人に近いね。仙人といえば不老不死だけど、実際、クニヨシは通力を身につけてから、不老不死の身だし。寛政九年――と本人は言っていたけど――江戸に生まれたそうだよ。十代で山に入って山人となり、三十七の歳に不老不死となって、現代の平成まで生き永らえている。普通に計算すると、もう二百十歳を超えてるね。黒船来航も、倒幕運動も、日露戦争も、関東大震災も、太平洋戦争も、安保闘争も、バブル好景気も、インターネットも、すべてまのあたりにしてきたのさ」

 二人は思わず閉口してしまう。想像をはるかに超えたクニヨシという人物。現実離れした、謎の存在。こんな突拍子もない話を聞いていると……この異空間にあって、巨大な夢の内へと沈み込んでいくようだ。現世を離れ、深く、深く、夢の中へ――。

 いけない、と、マナミはかぶりを振った。現実に戻ろうとして。

 それを見たアマリリスはクスッとし、

「信じがたいかい? でも、すでにあなたたちは異界と関わっているんだよ。気づいていないだけで」

「正直、クニヨシさんという人が、恐ろしく思えてきました」ナオトが言う。「クニヨシさんと直接お話して、怖いと思うことはありませんでしたか?」

 アマリリスは笑って、

「天狗といっても妖怪じゃないよ、クニヨシは。れっきとした人間だから。性格はちょっと偏屈なところもあるけど、悪い奴じゃない。江戸っ子らしく、人情味あふれる男さ。年がら年中、深山に籠りきりだけど、たまに里へ降りてきて、人びとと接する。そのとき困りごとを抱える者がいれば、通力によって救済するんだ。原因不明の難病におかされた女の子を、嘘みたいに快復させたこともあったそうだよ。難病にお手上げだった医師は、目をまるくして驚愕したらしい。『奇跡だ!』って」

「本当の神が現れたと、思ったかもしれませんね」

「ある村では、実際に神と崇められ、祀られたそうだよ。近いところでは高尾山とか、天狗信仰は各地に残っているね。昔、長野の浅間山に、四天王と称される山人天狗がいたんだ。その四人のうちの一人が、クニヨシの師匠である縄文杉僧正という山人さ。クニヨシは縄文杉僧正から様々な術や知識を教え込まれて、永く苦しい修業の果てに、山人天狗として独り立ちした。その後、神と崇められるまでになると、次はクニヨシが師となり弟子を育てる番さ。クニヨシは十人ほどの弟子を抱えていたそうだ」

「山人から新たな山人に引き継がれて、それが続いているのですか? 現代でも?」

「おそらくね。弟子の誰もがクニヨシみたいな高いレベルに達しているわけではないだろうけど、山人は着実にその数を増やしているに違いない。把握していないだけで、もしかすると、日本全国に相当な人数の山人が生存しているかも」

「クニヨシ以外の山人は? 誰か知らないの?」

 マナミの問いかけに、アマリリスはゆっくりと首を振った。

「残念ながら。山人なんて、人目のつかない山奥に潜んでいるか、さもなきゃ、一般人に紛れて何食わぬ顔で暮らしているよ。本人が山人ですと明かさなきゃ、まず判らない。クニヨシは特別だよ。なぜかあたしに興味をもってね、向こうから訪ねてきたのさ。『あんたが高名の占い師、アマリリスさんかい?』って。あれは二十年くらい前かね。ちょうど今くらいの時季さ」

「クニヨシさんとは今でも連絡をとっているのですか?」

「どこにいるの? クニヨシは」

「さあ。電波の届かない、どことも知れない山の中でしょ。本当に一度会ったきりで、後は手紙も電話も一切なし。興味をもったって話も、怪しいね。このあたしを山人にでも誘うつもりだったのかしら。さすがにそれはないと思うけど」

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