5

 ファミレスの前を過ぎた。不動産屋の前を過ぎた。クリーニング店の前を過ぎた。ケーキ屋の前を、喫茶店の前を、学習塾の前を、中古車販売店の前を、郵便局の前を、整骨院の前を、居酒屋の前を、ドラッグストアの前を――次々と走り過ぎていく。

 通りにはちらほらと人影がある。すれ違う人、立ち話している人、店から出てきた人。皆が皆、疾走するマナミに振り返ったり、不審な目を向けたりする。当然だろう。なにしろ猛暑のさなか汗だくで、息を荒くし、ガッと眼を見開いて一点を見つめながら駆け抜けていくのだ。その迫力に、怯えて逃げる子供までいる。

 マナミはといえば、愛猫の追跡に集中するあまり、まるで周囲が見えていなかった。注意力が欠如していた。

 急ブレーキの音。脇道から自転車の前輪が迫る。

 ニアミスだった。前輪とマナミの脚のあいだに、ほんの少しの隙間しかなかった。危うく自慢の健脚が折られるところだった。汗だくの上に、冷や汗まで噴き出す。

「ごめんなすって!」と、その場を逃げるように走り去る。

 ムンクは? アクシデントのあいだに見失っていないか? ――いや、前方にいる。しかも立ち止まっている。捕まえるチャンスだ。マナミは意気込んで駆け寄る。

 ムンクが立っているのは、歩道に面して建つ小さな店の前だ。店の看板の下で尻尾を左右に振りながら、入口を窺っている。看板には店名が――『ほらアナ』とある。

 マナミは普段この通りを、車や自転車でよく往来していた。昔から存在するその小さな店も、通るたび必ず目にしている。ただ何度も店の前を通っているにもかかわらず、中に入ったことは一度たりともなかったし、入ろうとさえしなかった。

 ありていに言えば『ほらアナ』は、成人男性向けの店なのだ。

 全面真っ黒の壁に派手なピンクの文字で大きく「アダルトDVD&コミック&ゲーム エロエロあるよ!」と印されている。入口はガラスの自動ドアのようだが、やはり全面真っ黒に塗られていて、目隠ししている。店内はどんな光景が広がっているのか……そこはマナミにとってアマゾンの奥地と同じくらい、未知の世界だった。

 ここまでムンクを追うのに手を焼いたが、もうすぐそこだ。マナミはそうっと慎重に、忍び寄る。ムンクがビックリしてまた逃げ出したら、元も子もない。刺激しないように。両手を前に伸ばし、そろりと。あと五歩、四歩、三歩……。

 真っ黒い自動ドアが、すーっと動く。だが誰も出てこない。にわかに口を開いた『ほらアナ』。秘められた異世界が、こっちへおいでと、手招きしている。

 オスの本能からか、ムンクは興味津々で、尻尾を立てると、入口へ跳ねた。

「待ちなさい!」

 マナミの手が届くよりも早く、ムンクはアダルトショップへと飛び込んだ。続いてマナミも店内へと踏み込――めない。さすがに、躊躇する。曲がりなりにも、純潔な乙女なのだ。成人男性向けの店に恥も外聞もなく踏み込む度胸はなかった。しかし今はそんなことを言ってる状況ではないのではないか。これは緊急事態であって、愛猫の身を確保することを優先すべきではないのか。ただ場所が場所だけに、うかつに飛び込めない。よりによって、なぜこんな怪しい店に……。でもやはり、ムンクが心配だ。心を無にして、救出に向かうべきだ。だけど恥ずかしい。行くしかない。無理。行け。でも。

「桜田さん?」

 マナミの心臓がぶっ跳んだ。名前を呼ばれた背後へ、おもむろに顔を向ける。

「やっぱり、桜田さんだ」

 空色のクロスバイクを押す長身の青年。スクエアの眼鏡をかけている。リーバイスのジーンズを履いた細長い脚が、少女漫画のキャラクターを思わせる。

「五十嵐ナオト……くん?」

「久しぶりだね」ナオトはクロスバイクを歩道の端に停めた。「さっき、そこで自転車とぶつかりそうになったでしょ? あれ、僕だったんだ。あのとき顔を見て、桜田さんに似てるって思って、追いかけてきたんだよ」

「それはそれは……ははは……」

 マナミは力なく笑い、目を泳がせる。なんてタイミングで現れるんだろう、この人は。最悪だ。化粧だってしていないし。

「でも一瞬だったから、どっちかなって。なにしろ十年ぶりだからね。中学の卒業式以来でしょ」

 ――中学の卒業式。決して掘り返してもらいたくない、暗黒の記憶。しかし思い出したくないと思えば思うほど、そいつは意地悪くしゃしゃり出るのだ。


 十年前。中学の卒業式を終えたマナミは、クラスメイトで親友のハルナと、ツツジの植込みの陰に潜んでいた。植込みは、校庭の隅の目立たないところに茂っていた。

「ねえハルナ、本当に五十嵐くん、来るかな」

「きっと来るよ、マナミ。五十嵐くん、真面目だから。心配無用」ハルナはマナミの肩にぽんと手を載せる。「真面目だよね、彼。勉強はできるし、いつも大人しく本を読んでるし。地味といえば地味だけど、背がすらっとしてて、優しそうな顔してるしさ。家はお金持ちみたいだし。マナミが惚れるのも解るよ。でも競合する子は少なくないよ、きっと」

「わたしが告白するなんて、無謀な気がしてきた」

「マナミ、なに言ってんの。勇気だしなさい。ここまできたんだから」

「だってさ、ハルナ。わたしと五十嵐くんって、合わなくない?」

「片や陸上部の部長を務めたアスリート女子。片や地味で大人しいメガネ男子。組み合わせとしては意外性があって、面白いんじゃないかなあ」

「なに、それ。こっちは真剣に悩んでるのに」

 マナミにとって中学時代は部活動が中心で、さほど恋愛に気持ちが向かなかった。変化が起きたのは、三年で同じクラスとなった五十嵐ナオトと、席が隣同士になってからだ。部活の激しい練習でへとへとになっているとき、ナオトが隣りにいると、それだけで不思議と癒されるのだった。そうしているうち徐々に気持ちが傾いていき、気づくと、ナオトの顔を見るだけでハアハアと呼吸が荒ぶるようになっていた。

「来た! マナミ、来たよ、五十嵐くん」

「ハアハア!」

「マナミ、落ち着いて。ほら、深呼吸」

「ハアーー、ハアーー」

 ハルナに指定されたイチョウの前に、ナオトが立つ。マナミたちが隠れているツツジの植込みから、およそ十メートル。長身のナオトは高い位置から、視線を右へ左へと走らせる。マナミとハルナは、一億ドルの絵画を奪いにきた窃盗団のように、物陰で身を縮め、息を殺していた。

(ほら、行きなさい)ハルナはマナミの袖を引っ張る。

(もうちょっと待って)切羽詰まった眼で訴えるマナミ。

「五十嵐クン」

 かわいい女子の声。――え? と二人は顔を見合わせる。茂みからそっと顔を出して窺うと、ナオトと向かい合って立つ、一人の少女が。隣りのクラスのユイだ。ユイは物静かな性格で、図書委員を務めた、おさな顔の子だった。ナオトを前に、言葉が継げずうつむいて、かすかに震えている。

 一方、想定外のハプニングに、植込みの裏は静かなパニック状態だった。

(どういうことよ、これ!)マナミは目を剥いて、親友に詰め寄る。

(だから競合するって言ったじゃない!)ハルナはやけくそだった。

 のっぴきならない状況に、マナミは腹を据えた。――いざ! 葉を蹴散らしながら植込みを飛び越え、想い人のもとへとダッシュする。その迫力に恐れをなしたのか、あどけない少女ユイは顔を引きつらせ、逃げ出してしまった。

「ハア! ハア!」

「桜田さん……?」

 肩で息をし、張りつめた表情で正面に立つマナミに、ナオトは当惑していた。

「ハア……ハア……」

 マナミは目をギラギラさせ、ナオトとの間合いを詰める。だがその分、ナオトも後ずさる。マナミが一歩、踏み出す。ナオトも一歩、引く。

 青春の一場面にふさわしい甘酸っぱい告白をする予定だったのだが、ユイの乱入で何もかも吹っ飛んでしまった。用意していた愛の台詞は、破り捨てた。もはやストレートにアクションを起こすしか、残された道はなかった。

 アクション――一方的にキスを強行してやると、マナミは決めた。

 改めてそばで見ると、思った以上の身長差だった。背伸びでは届きそうにない。マナミは斜め上に跳躍した。アスリート女子の名に恥じない力強い跳躍だった。首を伸ばし、唇を突き出し、ナオトの頬めがけて。怯えたナオトの顔がクローズアップ。しかし勢いがつき過ぎた。思わず、あっ、と口を開いてしまった。

 それはキスというより、激しい喰らいつき――インパラの首に躍りかかり、牙を突き立てる雌ライオンのような。

 正面からのアタックに、たまらずナオトは地面へ押し倒された。マナミも体を浴びせるようにして、ナオトもろとも倒れ込んだ。砂ぼこりが上がった。ナオトのメガネが吹っ飛んだ。校庭の隅でひそかに起きたアクシデント。ふと我に返ったマナミは、気づいた。仰向けに倒れるナオトに覆いかぶさり、さらにその顔面に噛みついているという、はしたない体勢にあることに。

「ごめんなすって!」

 マナミは飛び起き、脱兎のごとく、一目散に逃げ出した。今のはすべて無かったことにしてください……いや、実際何も無かったんだと、自分自身に言い聞かせながら。


「桜田さん……?」

「え? ……あ、ああ。そうね。十年ぶりよね」

「桜田さんは、まだ埼玉に?」

「うん。まだ実家。都内に通ってる。事務の仕事で」

「僕は地元に就職したんだ。公務員だけどね。……ところで桜田さん、今、時間ある? よかったら、喫茶店で話さない?」

「ええと……」マナミは背後の『ほらアナ』をチラッと窺う。

「ランニング中だった? 今でも走ってるんだね。でも暑いでしょ。水分補給も兼ねて休憩ってことで、どうかな」

「……え?」

 マナミはうわの空だった。『ほらアナ』に入っていったムンクが、気になってしかたない。チラチラと振り返っては、店内でどうしているかと、気をもむのだった。

 ナオトはマナミと「アダルトDVD&コミック&ゲーム エロエロあるよ!」というピンクの文字をかわるがわる見てから、怪訝そうに、

「桜田さん……こんなところで、何していたの?」

 マナミはブンブンと首を横にふった。

「違うの。これには訳が――あ? そうか」ナオトの顔をジロジロ見る。「なんだ、これって『渡りに船』じゃない」

 とまどい気味のナオトに向けて手を合わせ、ウインクしながら言う。

「ねえ五十嵐くん、男と見込んで頼みたいんだけど……ここの店――『ほらアナ』に、わたしと一緒に入ってくれないかな?」


 先頭のナオトを盾にして、マナミは怪しげな異空間へと踏み込んだ。

 まず空間をせかせか飛び回るアップテンポのユーロビートが、二人を迎えた。すれ違い不可能な狭い通路の左右には、アダルトDVDがびっしりと並び、両側から挟むように迫りくる。豊かな乳房や尻をさらけ出し、淫らな格好で色香を漂わせる女優が、これでもかこれでもかと繰り出され、マナミに波状攻撃を仕掛けてくる。

 膨大なエロの熱放射を浴びてタジタジのマナミだが、目的を見失ってはならない。ムンクを見つけ出して捕まえること。ムンクを家に連れ戻すこと。幸い店は狭い。これならすぐに見つかるだろう――マナミは高を括った。

 ……が、意外と見つけられない。オタクの部屋を想起させる店内は、モノがごちゃごちゃあふれている。猫が潜り込みたくなるようなスペースが、そこかしこにある。ダンボール、商品棚の下、商品棚の上、商品の隙間、天井付近……隠れそうなところは一通り探してみる。探しているあいだ向こうも死角から死角へと動き回っているといけないので、二人手分けして捜索にあたった。

 結局、それでも見つからなかった。

 店の壁に明り取りの窓は一切ない。外に通じているのは入口の自動ドアのみ。それともう一つ、店の奥に小窓が開いている。商品を購入する際の会計窓口だ。プライバシー保護のため店員と客、双方の顔が見えないつくりになっている。子供でもくぐるにはきつそうな小窓だが、猫なら難なく通れそうだった。

 これだけ店内をくまなく探してもいないということは、あの小窓から向こう側へ逃げ込んだ可能性が高い。

「はァ? 猫ォ? いないっスよ、こっちには」顔の見えない店員は、若い男のようだ。「さすがに猫が入ってきたら、気づくっスよ。こっちも狭いんで」

「嘘じゃないわよね?」

「嘘じゃないっスよ。そんな嘘ついて、どうすんスか」

 ここにもいない。つまり『ほらアナ』にはムンクはいない。でも確かに『ほらアナ』に入っていくところを見ている。目の前で見ているのだから、間違いない。それならムンクはどこへ行った? 消えてしまったのか――ムンクは?

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