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 屋根にムンクを乗せたまま、真っ赤なポルシェはどんどん走り去っていく。遠ざかるムンクを呆然と見送りながら、マナミはその場にくずおれるように、座りこんだ。

 爆音。背後から接近してくる雄々しいエンジン音に、マナミは振り返った。重厚なマシン、ハーレーダビッドソンだ。ライダース・メッシュジャケットを着た恰幅のいい男性が、頼もしく乗りこなしている。これから戦場へ向かう騎士のように。

 とっさにマナミは手を高く挙げた。ガードパイプから身を乗り出し、ハーレーダビッドソンへ猛然と主張する。大型バイクはマナミの目の前で停止した。ライダーがヘルメットを外すと、パン屋の主人を思わせる優しそうな中年男性の丸顔が現れた。

 マナミはガードパイプに足をかけ、ひらりとジャンプ。ストン、と。ハーレーダビッドソンの後部座席に飛び乗った。いきなりのことに、丸顔のおじさんは目まで円くする。

 マナミはジャケットを引っ張り、後ろから手を突き出して、まっすぐ前方を指差した。

「前の赤い車を追って。屋根に猫が乗ってる車」

「もしかして、あなた刑事さん?」

「そういうことにしておく」

 面倒なことに巻き込まれてしまったぞ、という表情を浮かべてから、おじさんはヘルメットを装着し、バイクを発進させた。荒々しいエンジン音を響かせ、ハーレーダビッドソンはぐんぐん速度を上げていく。後から割り込んだ数台の車を、次々抜き去りながら。いっとき絶望的なまでに引き離されたポルシェの後ろ姿も、見えてきた。ムンクは屋根の上で、風に吹き飛ばされぬよう、身を低くしている。

 マナミはおじさんの後ろから首を伸ばし、ムンクを窺う。それから幅広い背中をバシバシ叩いて、急き立てた(競走馬にするみたいに)。

 次第に車の列が詰まってきて、ポルシェの速度が落ちてきた。マナミたちはついに追いつき、ポルシェの左側を並走する。目の前のがっしりした肩を左手でつかみ、身を乗り出すと、マナミはムンクに向けて右手を伸ばす。

「ムンク、おいで」

 スフィンクス座りで素知らぬ顔のムンクは、こっちに振り向きさえせず、呑気にあくびを発している。それを見たマナミは、眉をぴくぴくと引きつらせた。

 ほどなく赤信号によって、車の流れは止まった。ポルシェとハーレーも並んで停止し、マナミは愛猫へ思いきり両手を伸ばす。あと少しで届く――というところでムンクは救いの手をすり抜けるようにして、ポルシェの屋根から大きく跳ねた。ハーレーを飛び越え、ガードパイプを蹴って、ムンクは歩道に着地する。そこでまたもや、上空を見上げ、目に見えぬ「何か」を狙っているのだった。

 一体「何」が飛んでいるのだろうか? それが何かは依然として不明だが、ふたたび逃げ出したらしく、ムンクは追いかける。

「おじさん、ありがとう」

 感謝をこめて広い背中をポンと一回叩き、マナミはバイクから降りた。ガードパイプを飛び越え、アスファルトを蹴り、愛猫の捕獲に向かう。

 真夏の太陽が高くなり、辺りの気温がうんざりするほど上昇している。県内の熊谷は、毎年この時期になると最高気温の話題で、天気予報に連日登場する。その熊谷からさほど遠くない、この場所だ。昼間の炎天下に全力で走るなんて、危険極まりない。いくら体力に自信があるといっても、肉体のダメージは計り知れないだろう。

 猛暑にやられ、マナミの全身はすでに汗まみれだった。そのうち目を回し、足がもつれて転んでしまうかもしれない。そのまま起き上がることができず、熱中症で失神してしまうかもしれない。

 ムンクはそんな飼い主の苦しい状況など気にも留めず、どこまでも走っていく。「親の心子知らず」ということか……。

 親子。――そう、マナミにとってムンクは、我が子のような存在なのだ。

 まるで自ら産んだ子供のように、マナミはムンクを大事に育ててきた。「猫の飼い方」を熟読し、生態を学んで、理解した。健康状態に注意し、体はくまなくチェックし、少しでも異常があれば何よりも優先して対処した。食事に気を配り、栄養やカロリーが最善となるよう考慮した。猫にとってストレスは大敵なので、できるだけ一緒に遊んで過ごすようにした。いつだって、ムンクのことを気にかけてきた。

 マナミはムンクを飼うと決めたとき、誓ったのだ。寿命が訪れるそのときまで、誠心誠意、責任をもって育てる、と。生まれて間もない子猫だったムンクを引き取り、胸に抱いた――あのときの志は、絶対に忘れない。


 七年前。当時高校生のマナミとムンクが出会ったのは、自宅近くのコインパーキングの前だった。「チャーちゃん」と名付けた子猫との辛い思い出の残る、あのコインパーキングだった。

 そこへ通りかかったマナミはあのときと同じように、子猫の悲痛な鳴き声を耳にした。

 保健所の職員が小さな捨て猫を保護しているところに、たまたまマナミは出くわしたのだった。職員の男性は子猫をキャリーバッグに入れ、車に積もうとしていた。小学生のときに目撃したチャーちゃんの遺体が運ばれていく場面が、マナミの頭ですぐにオーバーラップした。子猫の物悲しい鳴き声が、マナミの胸に痛く刺さった。

 マナミはたまらず職員のもとに駆け寄った。

「待ってください」マナミは職員の腕をつかんで、引きとめた。「その子猫を、どうするんですか」

「この猫はね、保健所で一週間、保護するんだ。その間、飼い主からの連絡を待つ。ただこの猫は捨て猫だから、おそらく連絡はこないだろう。だから誰か、新しい飼い主になってくれないかと、呼びかけるんだよ。それでも行き先が決まらない場合は、処分される」

「処分」という言葉を耳にしたとき、子猫は一段と高く鳴いた。

「わたしが引き取ります」マナミは胸を張って言った。「名前は――ええと、『ムンク』にします」

 とっさの思いつきだった。名前をつけてしまえば、即、家族の一員になるような気がしたのだ。職員に対し、本気度をアピールしたかったのかもしれない。

 ではなぜ『ムンク』にしたのか……実はマナミ自身にも、解らなかった。自然に無意識から、ポンと生じたのだった。

「君、猫は飼ったことある?」職員は審査するような目をマナミに向けた。

「ありません。猫も犬もインコもハムスターも、ペットを育てたことは、一度も」

「大変だよ、猫を飼うのは。好き嫌いがあるからエサをあげても全然食べてくれなかったり、逆に食欲旺盛だとすぐに食べ過ぎてデブデブに太ったり、夜中にエサをくれって起こされたり、爪でそこらじゅう引っかいて家具をボロボロにしたり、いたずらして花瓶を割ってしまったり、汚れたトイレの管理だってしなければいけない……それでも、大丈夫? 寿命がくるときまで、責任をもって飼える?」

「はい。寿命が訪れるそのときまで、誠心誠意、責任をもって育てます。全力を傾けて育てていきます――命を賭けて」

 職員はうなずいた。「それじゃ、書類をもってくるから、待ってて」

 小学生のとき、救えなかった小さな命。今度こそ、しっかりと救い出すことに、成功した。マナミは安堵の息をもらし、満足そうな顔を子猫に向け、早速「ムンク」と呼びかけてみた。子猫はマナミの目を見て、ミャアと元気に鳴いた。「ありがとう」と言っているように、マナミは感じた。

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