朝から雨が降り続いていた。マナミは子供用サイズの傘を開き、友達のアイとともに、小学校の校舎を出た。空は薄暗い灰色だったが、二人は楽しくおしゃべりし、ときに大きく笑い声を上げながら、家路を歩いていた。

 アイには二つ年上の兄がいて、入学したばかりの中学校の話を、よく聞かされていた。その話をそのまま、アイはマナミに聞かせた。部活の話になると「マナミちゃんはかけっこが得意だから、陸上部に入ったほうがいいよ」と勧めた。小学校の運動会で短距離走に出ると、マナミはいつも先頭を走り、一度も負けたことがなかったのだ。

 角にコンビニのある十字路で、二人は別れた。その先のコインパーキングの前を過ぎ、二つめの角を右に曲がると、マナミの自宅が見える。家に帰ると、いつも母のルリ子が「おかえりなさい」といって出迎えてくれる。マナミは心の優しい母が好きだった。

 コインパーキングの手前まできたところで、雨音の向こうから、猫の鳴き声が聞こえてきた。どこで鳴いているのか――その姿を探した。すると、駐車場を囲むフェンスの内側にずぶぬれでうずくまって、間断なく鳴き続けている茶色の子猫を見つけた。

 マナミは車が一台も停まっていないコインパーキングに入り、フェンスのすぐ下で助けを呼んでいる子猫に近づいた。まず傘を差し出し、子猫を雨から防ぐ。それから傘の手元をフェンスに引っかけ、屋根にしてあげた。ポケットからハンカチを取り出し、子猫の体をていねいに拭いていく。子猫は安心したようで、いつしか鳴きやんでいた。

 生まれて半年くらいか。全身茶色の毛に包まれ、哀しいほど痩せた子猫。目を閉じたまま地面に突っ伏して、かなり衰弱しているように見えた。骨ばった脚をぶるぶる震わせていて、立ち上がることさえ、難しそうだった。

 傘でしつらえた屋根をそのままに、マナミはランドセルからレインコートを取り出し、身につけた(予備の雨具として持ってきていたのだ)。「待っててね」そう言うと、マナミはコンビニへと走った。そこで猫の餌の缶詰を一つ買い、コインパーキングへ戻った。

 缶詰を開け、餌をつまみ取り、子猫の口もとへ持っていく。目を閉じたままの子猫はくんくんと餌の匂いをかいでから、小さな舌を伸ばし、なめた。おそらく久しぶりにありつけたであろう食事を、子猫は口にする。おいしそうに、マナミの指先までなめた。それからはもう遠慮せず、マナミの差し出す餌をガツガツ食べた。

 すっかり満足した様子の子猫に、マナミの顔がほころんだ。これでよし、とマナミはうなずく。「また明日来るからね」マナミは子猫の頭をなで、バイバイと手を振ると、傘の屋根をそのまま残して、コインパーキングを後にした。

 翌日、雨は上がっていた。登校の途中、マナミはコインパーキングに立ち寄ってみた。子猫は昨日と同じ場所、傘でつくった屋根の下にいた。昨日は閉じっぱなしだった両目をしっかりと開いてマナミを見上げ、細い声で鳴く。餌を食べて元気を取り戻した様子で、マナミはうれしかった。フェンスから傘を外して回収し「学校の帰りにまたご飯、持ってくるよ」と、マナミは子猫に約束した。

 マナミは家でも小学校でも、子猫のことは誰にも話さなかった。仲のいいアイにさえ、一言ももらさなかった。一人ひそかに胸のうちで、子猫の名前は「チャーちゃん」にしようと決めていた。

 下校時間になると、マナミは小学校をダッシュで飛び出した。脚の速いマナミは、通学路を歩くみんなを、次々追い抜いていった。それからコンビニに立ち寄って、昨日と同じ猫の餌の缶詰を買った。

 息を切らしてコインパーキングに近づいたところで、その入口付近、道路の端に倒れている子猫の影が目に入った。マナミは立ち止まって、子猫を見据えながら、呼吸を整えていく。子猫は地面でじっとして、置物のように動かない。もう息をしていないと、離れていても、見て取れた。マナミはそっと、近寄ってみた。

 道端に倒れているのは「チャーちゃん」に間違いなかった。アスファルトが紅く染まっていた。

 マナミはどうすればいいのか判らなかった。息が止まった子猫を見下ろして、ただ佇むしかなかった。そのうち何も考えられなくなり、身体が固まったみたいに、一歩も動けなくなっていた。

 しばらくすると白のバンがやって来て、近くに停車した。ドアを開けて出てきたのは、白のマスクをつけ作業着を着た、二人の中年男だった。一人は小太りで、もう一人は痩せていた。二人はバンのバックドアを開き、木箱と清掃道具を取り出して、マナミのほうにやって来た。

「お嬢ちゃん、そこをどいてくれるかな」小太りに言われ、昨日傘を引っかけたフェンスの前へと下がった。マナミはそこから、ことの成り行きを見守っていた。

 二人は「チャーちゃん」に手を合わせ、拝んだ。それから手袋をはめ、子猫の体を持ち上げると、木箱に納めた。紅くなった道路に洗剤と水をかけ、デッキブラシでゴシゴシとこする。最後に清掃道具と木箱を荷台に戻すと、二人はバンに乗り込み、マナミのほうは見向きもせずに、立ち去った。

 子猫はいなくなり、何事もなかったかのように、辺りは普段の姿へと戻った。それなのに、マナミはその場を動けずにいた。いつもは軽いはずの脚がやけに重く、なかなか家へ帰る一歩が踏み出せない。フェンスに寄りかかり、ただひたすらに、昨日のことを思い起こしていた。雨の中で子猫と出会った場面を、繰り返し、繰り返し……。

 日が沈み、薄暗くなってきたところで、ようやくマナミは家に帰った。いつもの通り、玄関まで母のルリ子がやって来て「お帰りなさい」と声をかけた。母の声を聞いた途端、じっと我慢していたものが、マナミの内から一気にあふれ出した。玄関に立ち、マナミは大きな声で泣いた。まるで赤ん坊みたいに、激しく泣き続けた。ルリ子がおどろいた顔で「どうしたの?」と何度訊いても、マナミは答えず、泣きじゃくるだけだった。


 ――もしも。

 もしも、あのとき、子猫を家に連れ帰っていたら?

 コインパーキングへ置き去りにせず、子猫を抱いて帰り、母に相談していたら? 子猫の運命は変わっていたかもしれない。子猫はもっと長生きできたかもしれない。

 それなのに、置き去りにした。その結果、子猫のはかない生命は尽きた。やはり家に連れて帰るべきだった。安全な場所に避難させるべきだった。それができずに子猫の命が失われたのなら――責められても仕方ないのではないか? 取り返しのつかないことを、してしまったのではないのか?

 きっと子猫は期待していた。この女の子が新しいお母さんになって、ワタシを育ててくれる。あたたかい部屋で、安心して眠ることができる。お腹いっぱい、ごはんを食べさせてもらえる。助かった。これで死なないで済む。いつまでも幸せに生きられる。この女の子のおかげで……。

 どんなに悔やんでも、もう、どうしようもない。けど、悔しい。涙がこぼれるほど、ものすごく悔しい。

 ――チャーちゃん、守ってあげられなくて、ごめんなさい。

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