ネコソコドコ?

エキセントリクウ


「ムンク!」と叫び――桜田マナミはヒッと小さく悲鳴をあげた。

 住宅地の見通しが悪い交差点。マナミの愛猫、灰白ネコのムンクが、勢いよく飛び出した。右から、ガラの悪そうな黒い車が迫る。

 マナミは駆けながら、念を送る。念が効いたのかは定かでないが――運転手は急ブレーキを発動した。ヒステリックな音を静かな住宅地に響かせ、黒い車は凍りついたようにピタリと止まる。

 片や、目の前に迫った命の危機など、どこ吹く風。灰白ネコのムンクは余裕でいなし、軽やかにサッと跳ねると、住宅地の道を突き進んでゆく。

「ムンク! 待ちなさい!」気を取り直し、マナミは愛猫を追いかける。「元陸上部の脚をなめるな」

 ナイキのランニングシューズがアスファルトの面を力強く蹴る。社会人となり、すでにスプリンターから退いているものの、脚力は衰えていないようだ。日々のランニングは欠かすことなく、もはや習慣となっている。アスリートの炎は、マナミの内でいまだ消えることがない。

 ショートボブの髪がポンポンと跳ねる。熱を帯びた大きな瞳は、前方を駆ける愛猫を真っ直ぐにとらえている。

 しかし元スプリンターの脚力をもってしても、猫のスピードには敵わなかった。最高時速およそ50キロと言われる驚異的な猫の走りに、マナミは追いつくことができない。

「げっ。まずい」

 二階建てアパートの角を、左に折れるムンク。そのまま進めば、車の往来が多い片側一車線の道路へと至る。室内飼いで安全に育った猫にとって、その道は、弾丸が飛び交う戦場に等しい。そんなことには頓着せず危険地帯へ一直線の愛猫に、マナミは心臓をぎゅっと絞られる心地だ。

 家の外に出たとたん野生に戻ったムンクに、飼い主の不安を察する余裕はなかった。脇目もふらず、本能のままに、夢中で前へと駆けてゆく。止まれ、というマナミの懸命の願いも届かず、あっという間に危険な車道へと達した。

 ムンクのすぐ前を、猛スピードで車が横切っていく。ムンクは一旦足を止めて、車を見送る。それから車道を横断せず、左へ曲がった。マナミが後に続くと、車道に沿う歩道を駆けていくムンクの後ろ姿が見えた。最悪の事態は回避したものの、追いかけっこはまだ終わらない。

 ムンクは歩道を無我夢中で走っていく。いったい何が、そこまでムンクの心をとらえているのか? 「何か」を追いかけている……ただそれが「何か」は判らない。愛猫の視線の先に、小鳥やら、蝶々やらの姿は確認できない。あるいは虫眼鏡でもなければ分からないくらいの、微小の虫なのだろうか。それとも普通の人間には見ることができない――例えば霊のような――存在が、猫の特殊な瞳に映っているのだろうか。

 追っ手を引き離すと、ムンクはふたたび立ち止まった。顔を上向け、視線を左右にせわしなく振っている(テニスを真横から観戦しているみたいに)。やがて視線は、車道に停まっている真っ赤なポルシェの屋根に向けられた。

 車道と歩道を分ける白いガードパイプ。けっして太くはないパイプの上にムンクは迷わず飛び乗り、そこを足がかりとして、ポルシェの屋根に飛び移った。狭い屋根の上で身体を立て、前足を空へと伸ばし、何かを捕まえようと躍起になっている。

 ポルシェの前方、右折しようと、対向車が切れるのを待っていた車がある。その車がようやく右折を果たし、足止めされていた後続の車が一斉に動き出した。屋根に猫が乗っていることなどさらさら知らないポルシェも、走り出す。

「ムンク!」

 追いすがるように、マナミは手を前へと伸ばす。後方から必死の形相で追いかけてくる女性の姿に、ポルシェが気づく様子はない。だんだんと速度を上げ、屋根にムンクを乗せたまま、走り去ってゆく。

 むき出しの屋根の上、車が高速で走れば、強風をまともに食らうだろう。爪を引っかけようにも、硬い金属の面に阻まれて、ままならない。強風にあおられたら、道路に転がり落ちてしまうかもしれない。あるいはカーブの際に、振り落とされる恐れもある。

「待って!」

 まるで駅伝大会のように、一般道を全速力で走る。脚には自信がある。心なしか差が縮まってきたようにも感じる。

 ふいにポルシェのブレーキランプが点灯した。停車するかもしれない……そこで一瞬、気が緩んだ。気の緩みが、筋肉へ伝わった。フォームが崩れ、前のめりになる。続いて膝を、掌を、歩道に打ちつけ、肩から地面に転がった。高校の陸上大会で、トップを走っていたのに転倒してしまった嫌な記憶が、頭の中で再生される。

 マナミは痛みに顔を歪め、それでもすぐさま起き上がる。体勢を立て直し、ムンクを乗せたポルシェを追いかけようとする。

 転倒している間に、ポルシェとの差は一気に広がってしまった。先ほどブレーキを踏んだものの、停車して待っていてはくれなかったのだ。もう、とても追いつけそうにない。マナミはただ立ちつくしてしまう。ムンクの姿は見るまに遠ざかり、小さくなっていく。マナミのすがる思いを嘲笑うかのように。

「ムンク――ッ!」

 いかないで。いなくならないで。

 ――いなくなる? 嫌だ。ぜったいに。ムンクがいなくなるなんて。

 もう、あんな思いはこりごりだから。辛くて、苦しくて、悲しくて……二度と繰り返したくない。

 あんな思いは、もう二度と――。

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