第5話 狼は赤頭巾を被る(1)
――壁に激突した。
「むぐっ!」
ずるずると落ちていき、その場に座り込んだ。
「……運命の相手になんてことするのよ……。あの女……」
星の杖をくるんと回すと、元のドレス姿に戻った。辺りを見回す。狭くて、じめじめした路地裏だった。空は随分と暗い。真夜中だろうか。
(ちょっと質問しただけで、人をモルモットのように追いかけ回しやがって……。後半若干キッドになってたし!)
愛しいあたしをこんなに追い詰めたこと、後々に後悔させてやるから!
ぎゅっ! と親指の爪を噛み――頭に引っかかった事を思い出す。
(魔法を打ち砕く方法の載った本が……ない?)
その話を聞いたのは、ニクスの時だった。ニクスの父親を雪の王様に変えた魔法の鏡を壊す時に、キッドが言っていたのだ。
魔法を打ち砕く方法が載った本を、持っていると。
(実際には見たことないけど、キッドが嘘をついてるようには見えなかった)
あの時点では持ってなかったということか?
(であるなら、途中から……どこかで……見つけた……? 渡された……? 手に入れた……?)
どうやって?
(……いいや、考えてても仕方がない。それよりも今は優先するべきことがある)
今は杖を元に戻すことだけを考えるのだ。
(魔法使いを探しに行かなくちゃ)
「赤は好き?」
少年が立っていた。
あたしは、きょとんと瞬きをする。
「赤は、好きですか?」
「……何?」
「赤は、正義の色なんだ。良い色なんだ。視界が赤だらけになると、幸せになれるんだ」
あたしは少年を注意深く見た。少年の足の筋肉が蠢いたのが見えて、一歩下がり、覚悟を決める。
「お姉さんのことも、赤にしてあげる。そしたら」
顔が上がった。
「僕も幸せになれるよね?」
赤い目があたしを捉え、あたしは杖を向けた。しかし、目の前から少年が消えたのである。はっとしてしゃがみこむと、背後から少年が抱きついてくる仕草をしているのが見えた。腕は空振り、少年が地面に着地し、息を吐き、また吸って、再び姿を消した。
その動きは見たことがあった。リトルルビィの瞬間移動だ。
「うぎゃっ!」
今度は上から落ちてきた。あたしの肩に乗り込み、口を開く気配がした。
(これは……まさかっ)
首を噛まれた。
「いだーーーー!!」
背後に壁があるのが見えたので、思い切り頭を上げると、鈍い音が聞こえ、壁に頭をぶつけた少年があたしの肩から離れた。地面に転がり、うずくまる。
(呪いには呪いを)
強くイメージして、星の杖を向けた。
「森を歩く……」
少年が再び顔を上げ……あたしから奪った血を垂らしながら……また姿を消し、呪文を言い切る前にあたしに抱きついてきた。
「ああ! クソうざい!!」
怒鳴るのと同時に、少年を壁にぶつけた。少年が悲鳴をあげ、あたしの背中から消えた。場所が良くない。あたしは駆け出し、狭い路地裏から抜け、誰もいない真夜中の広場に出た。
なんて静かな夜だろう。
視線を動かす。右、左。後、前。
風の音が聞こえる。
木の音が聞こえる。
何かがいる。
何かが隠れている。
何かが移動している。
木が揺れる。
気が揺れる。
風が鳴る。
胸が鳴る。
音がする。
音がする。
周りを見る。
辺りを見る。
葉が揺れた。
「っ」
振り返った。
誰もいない。
視線を感じる。
上を見る。
木を見る。
木々を見る。
風が鳴る。
見えないそれがいる。
見えるそれがいる。
あたしは構えた。
建物を見た。
また気が揺れる。
また木が揺れる。
風が鳴った。
風が吹いた。
「赤ずきん、お使いは済んだかい?」
――リトルルビィの幻覚が、あたしに噛みつこうとしていた少年を義手一本で捕まえた。少年が叫び、威嚇するように牙を見せると、リトルルビィは呆れたようにため息を吐き、少年を頭で叩きつけた。
「っ」
あまりの石頭に少年が倒れた。しかし、また姿を消す。だが、瞬間移動した少年を瞬間移動したリトルルビィが捕まえた。今度は義手の拳で殴られる。
「っ!」
少年が地面に転がった。血を吐いた。起き上がろうとすると、リトルルビィが少年を蹴飛ばした。
「このっ」
少年が離れようとした。しかし、リトルルビィは少年を捕まえ、馬乗りした。少年が再び威嚇するよう叫び、手に持っていた飴を口に入れようとしたのを、リトルルビィが手首を押さえて止めた。そして、その時初めて少年がリトルルビィを見て――はっとした。
「……お母さん……?」
その隙にリトルルビィが義手で少年を殴った。殴って、殴り、殴られまくり、少年が白目を剥くまで殴り続けた。意識を手放し、動かなくなった少年を見て、リトルルビィがあたしに振り向き、指を差した。
「……ああ」
あたしはキッドから盗んだ注射器を取り出し、少年に近付いた。
「えっと……血管はどこかしら……」
リトルルビィの幻覚が少年の腕の皮膚を押さえた。あら、血管が見えた。ありがとう。
「消毒」
注射器を挿して薬を入れると――少年の目が開かれた。一瞬にして意識を取り戻し、悲鳴を上げた。痛がるように暴れ出し、空っぽの注射器が地面に飛ばされる。リトルルビィが少年を押さえつけ、義手の手で口を塞いで黙らせる。それでも少年は超音波のような悲鳴を出し続け、とうとう建物の窓が開かれた。
「おい! うるせーぞ!」
何も残されていない広場を見て、男が窓を閉め、自分の妻に文句を言った。
(……キッドがいなくて良かったわ)
「老婆は胃の中、少女も胃の中。満腹狼、ベッドですやすや」
静かに呪文を唱えると、かすかに残っていた血の痕跡が消え、ただの広場となった。路地裏に振り返った。幻覚のリトルルビィが少年を地面に起き、頭を掻き、あたしに近付き、少しだけあたしに頭を預けてから――風に吹かれて消えた。
(……ああ、クソ。面倒なことになった)
あたしは舌打ちしながら少年に近づき、少年の口に指を入れ、その唾液を傷口に塗ると、やはり治癒効果があった。
(吸血鬼。……リトルルビィと同じだわ)
「はぁ……ふぅ……」
(ん?)
苦しそうな少年の肌に触れると、驚いた。
(何これ。薬の副作用?)
少年の肌からとんでもない熱さの熱を感じる。
(ああ、本当に面倒なことになったわ)
辺りを見回す。
(どうする。この時間ってことは、キッドはあの古い家でぐーすか寝てるだろうし……ベックス家に移動すれば、使ってない客室で休ませることとか……)
その時、星の杖が震え始めた。はっとして杖を前に出すと、薄い光の筋がどこかに向けられて放たれていた。
(これは……)
杖が、行けと言っている。
(……確かに、こんな真夜中の広場にずっといたら、あたしまで風邪引きそう)
少年に触れてみる。うなっているが、意識はない。攻撃してくることはないだろう。
(よいしょっ)
重さの感じない少年を背中に抱え、立ち上がる。
(全く、母親になった気分)
――テリー! 抱っこしてぇー!
(……懐かしいわね)
霧が出ている。先は見えないが、杖が導いてくれる。杖を信じ、あたしはゆっくりと歩き出した。
(*'ω'*)
星の杖の光が消えたので、あたしは足を止め、建物を眺めた。
(胡散臭い宿。こんなのあったのね)
あたしはドアを叩いた。すると、気弱そうな娘が中から現れ、怪しそうな目であたしを見てきたので、あたしは眉を下げて、困った表情を見せてやった。
「夜分遅くにすみません。あたし達、親戚を訪ねに遠くから来た者でして、馬車の中で弟が熱を出してしまったの。この時間だし、お医者様も店じまいなもので、大変困ってましてね? 一泊、泊めさせていただけませんか?」
「残念ですけど……」
娘が眉を下げた。
「その、部屋は貸せないんです……」
「あら、満杯なのかしら?」
あたしの息が建物の中に入って、ぐるりと回って戻ってきた。部屋はがら空きだ。誰も泊まっていないではないか。
だが、気弱そうな娘は眉を下げたまま、首を振った。
「その……駄目なんです。別のところへ行っていただけませんか?」
「食事などはいりません。一泊、寝るところをお借りできればいいの。ほら、見て。弟が苦しがってるわ」
「ああ……でも……その……」
「ちょっと、そんなところで何やってるの?」
扉が大きく開かれたと思えば、優しそうな女性があたしと少年を見て、目を丸くした。
「まあまあ、こんな夜分遅くにご苦労様ですわ。一体どうしたっていうの? こんなに苦しそうになさって!」
「熱を出しているの。一泊させていただけないかしら? お金なら払うから」
「ええ! ぜひ泊まってください! ああ、可哀想な子。ぜひ休ませてあげてくださいな! ちょっと、お前」
女性が気弱そうな娘に指示を出した。
「一番上等な部屋の鍵を渡して差し上げて。ああ、お代の心配はいりませんよ。私はね、その子が心配なだけで、今宵は運が良いことに客がいなかったもんでね。可哀想に」
「ええ。可哀想な子なんです。でも、お優しい宿に巡り会えて良かった。お心遣い感謝致しますわ」
「とんでもない。さ、お部屋へどうぞ」
気弱そうな娘が複雑そうな顔をして鍵をあたしに差し出した。それを受け取ると……小さな声で言われた。
「お願い。奥さんを信じないで」
あたしはきょとんと娘を見た。娘はあたしに鍵を渡して、何でもない顔をしてカウンターの奥に引っ込んだ。
(……この宿……嫌な空気を感じる)
妙な宿に、背中には襲ってきた吸血鬼。
そして、『お願い。奥さんを信じないで』と意味ありげなメッセージ。
大丈夫よ。言われなくたってあたしに味方はいないのだから。
一番上等な部屋のドアを開け、少年をベッドに寝かせた。息が上がり、苦しそうだ。汗をかいている。杖を向けて、体を楽にさせられないかイメージするが、呪文が全く頭に浮かばなかった。ということは、そういった魔法は、あたしには使えないと言うことだ。
(悪いけど、一晩そのままでいてちょうだい。朝になったらキッドの元へ連れて行ってあげるから)
襲ってきたとはいえ、汗くらい拭いてあげるべきかしらね。でもその前に……。
「ああ……」
隣のベッドに倒れたら、とても疲れていたことを自覚する。
(魔力を外に流して、だいぶ楽になったとは言え……怠いのは変わらない)
唸る少年を見る。
(坊や、あたしも今朝までは熱にうなされていたのよ。大丈夫よ。子供の熱なんて一晩で治るんだから)
そう思ったら、自然と瞼が重くなりかけ、うつらうつらとしていると――ドアが叩かれた。
「ごめんください。お客様」
(……宿の女将だわ……。はあ……面倒くさ……)
寝ることを一旦諦め、怪しまれないようにドアを開けた。するとそこには、食事を乗せたトレイを持った女将が優しい笑顔で立っていた。
「少しばかりですが、お食事をお待ちしましたわ」
「まあ、なんとご親切に。ありが」
トレイに触れた途端、気弱そうな娘の言葉を思い出した。
「奥さんを信じないで」
――口を動かす。
「……とう、ございます。弟のことでいっぱいで、食事なんて忘れてましたわ」
「何か出来ることはありますか? なんなりと仰ってください」
「それでは……桶と水、それと手ぬぐいはありますか? あの子の汗を拭ってやりたいの」
「ええ。もちろんですとも。お待ちになって」
女将がドアを閉め、足音が遠くなっていく。
あたしはトレイに乗った美味しそうな食事を見て……見た目によらず妙な匂いを感じて……テーブルの上に乗せた後、星の杖を食事に向けた。
「ある人が1人も殺さず、12人殺した。これはなんだ? なぞなぞだ。解いてごらん」
あたしの魔力が杖に流れていき、魔法となって現れる。可愛い鼠の幻覚が現れた。つぶらな瞳で食事を発見し、警戒しながら近づいていく。鼠はお腹を空かせているようだ。危険がないことを察し、サラダに入っていたチーズを手に取り、食べてみた。すると、悲劇。鼠は急に泡を吹き、チーズをテーブルに落とし、そのまま倒れ、動かなくなった。役目を終えたネズミの幻覚は隙間風に吹かれて消えていく。
全てを見ていたあたしは――唖然と食事を見た。
「な……なっ……」
匂いを嗅いでみる。なんともない。鼠の幻覚が落としたチーズを見てみる。指で触れようとして――やめて、親指の爪を噛んで考える。辺りを見回す。この部屋、上等な部屋の割には何もない。ならばと、爪をチーズに刺してみた。すると、あたしの爪が溶けた。
「うわっ!?」
チーズから離れ、あたしの歪んでしまった爪を眺める。
(最悪! あとで整えなきゃ! ……ってそうじゃなくて……!)
恐ろしいチーズの欠片を見つめる。
(触れただけで溶ける。これは……毒?)
トレイに杖を向け、ゴミ箱に全て捨てる。
(あの女将、なんてものを持ってきてるのよ!)
――奥さんを信じないで。
(あの娘、何か知ってるわね。くそ……。疲れてるし、お腹も空いてるのに……!)
あ、そうだ。
「娘は言った。母を信じないで。なぜなら母は魔女だから。意地悪魔女は、毒を振りまく」
星の杖をくるんと回すと、見覚えのある場所に移動した。辺りを見回し、誰もいないことを確認する。
(よし)
キッチンへ行くと、ベックス家の見習い料理人のケルドが自分の食事の準備をしていた。
「ふう! 今日も疲れたぜ! 今夜は豪勢にいくとするか!」
食糧庫から大きな肉を取り出し、ステーキにして焼く。あら、隣にはパンもあるわ。台に新聞が置かれているのが見えて、ついでに日付を確認する。……さっきの時間軸からそんなに経ってない。ということは――クロシェ先生がまだ来てない時期ね。
(リトルルビィが……呪われた時期でもあるわね。……まだ人間なのかしら)
関わってはいけない。戻れなくなる。
(……クソ……)
「おっと、せっかくだ。隠してたワインも飲もう! えっと、どこだっけ?」
ケルドが離れた隙を見て、あたしの杖が動いた。
「よーし、これで全てがそろ……え!?」
ケルドが周囲を見回した。
「俺のステーキは!?」
(ケルド、あんたの腕は最高よ。あー、美味ー!)
あたしは胡散臭い宿にて、久しぶりのステーキと柔らかい白パンを美味しくいただき、満腹となった。
(食欲がなかったら、本当に久しぶりに食事をした感覚。魔力を使うとお腹空くのねー)
空になった皿を見て――思い出す。
(ケルドは……島に来なかったのよね。恋人を迎えに行ってから船に乗るって屋敷から出て行って……結局、船は港に戻らなかったから……そのまま……)
ナイフとフォークをテーブルに置き、溜息を吐く。
(無事だと……良いんだけど)
「う……ふぐ……」
ベッドを見ると、うなされる少年。
(あの坊やが中毒者ってことは、飴を舐めたってことよね)
一体どんな願い事をしたのか。
(子供だもの。リトルルビィだって、母親を亡くして、中毒者になった兄の幸せを願って飴を舐めた。あの坊やも……きっと何かあったんでしょうね)
うなされる少年の顔を覗いてみる。
(何も出来なくて悪いわね。大丈夫よ。薬は本物だから)
まだ小さな頭を撫でる。
(負けちゃ駄目)
「おか……さ……」
(……さて、腹ごしらえは済んだし、桶も水もなんか届かないみたいだし、……もう休もうかな)
念の為ドアにカギをしておこうとドアの前に立つと――瞬きをする。
「は?」
内側から鍵をかけられない仕組みになっている。
(うわ。やってるわー……)
外側からならかけられるが、内側からではかけられない。つまり、――あたしが寝ている間、女将やあの気弱そうな娘が入ってくるかもしれない。
(ねえ、女神アメリアヌ様、あたし……何かした?)
疲れてるのよ。
(ちょっと、これ、うわ、まじで? ちょっと……はあ? そんなのある? まじで……うわ……)
その時、ドアが叩かれた。思わず驚いて呼吸を止め、ドアを見つめる。しばらく黙っていると、またドアが叩かれた。
「お客様?」
女将の声がした。
「寝られましたか?」
――静かになった。
しかし、あたしは離れず、ドアノブを見ていると――動いた。
「ああ、起きてますわ。ごめんなさい!」
笑顔でこちらからドアを開けてやると、女将が驚いた顔をして一歩下がった。手ぬぐいの入った水入りの桶を持っている。
「まあ、どうもありがとう」
「お食事はいかがでしたか?」
「ああ、それが食べる前に数匹の鼠に食われてしまって」
「え、鼠ですって?」
「ああ、気にされないで。きっと仲間同士、飢えていたのでしょう。あたしが食べるはずだった食事を食べて、その場で死んでしまいましたわ。仕方がないので、全てゴミ箱に捨ててしまいました。でも、お気持ちはあたしの心が食させていただきました。本当にどうもありがとう。おかわりは結構です。実はそんなにお腹は空いてないの。鼠達の寿命が尽きる前に、美味しい食事をさせることができて、本当に良かったわ」
「まあ、なんてお優しいお人なのでしょう。鼠取りを買っておかなければ。どうもすみませんでした」
「いいえ。とんでもない。桶をどうもありがとう。弟の汗を拭いたら、あたしも休みますわ。だから貴女も今日一日の労をねぎらってちょうだい。本当に感謝するわ。ありがとう」
「そうですか。何かあればご遠慮なく仰ってください。それではお休みなさい。良い夢を」
「ええ。貴女も」
ドアを閉めて、耳を押し付ける。足音が遠ざかっていく。
(……よし、離れたわね)
さて、この水に異常がないか調べないと。あたしは杖を向けた。
「なぞなぞの答えだ。正解は12人の人殺し。全員、毒を食べたカラスを食べて死んだのだ。さて、この答えはいかがかな?」
人魚の幻覚が現れ、桶の中で泳ぎ始めた。しかし、3秒もしないうちに悲鳴をあげ、その姿は泡となって消えた。あたしは眉をひそませ、爪の先を入れてみた。すると、また爪の形が歪んだ。
(ああ、これ駄目だ)
あたしは杖をくるんと回し、どこかの排水溝に水を捨て、部屋に桶を戻した。
(世話がかかるわね)
再び杖をくるんと回し、ベックス家の井戸にやって来た。縄を引っ張ると桶が上がってきて、その中に入った水を桶に移し返す。爪を入れてみても、爪は歪まなかった。
(これならいいでしょう)
――屋敷を見上げてみる。あたしの部屋が見える。明かりはついていない。あそこに……ひょっとすると――ドロシーがいるかもしれない。けど、過去のあたしが起きてる可能性がある。見られるとまずい。
(過去の自分に会ってはいけない)
貴女がこの時間軸に戻ってこれなくなるから。それでも関わりたければどうぞ。時間軸へ戻ってきたくなければどうぞ。
(あの森でメニーが待ってる)
……。
(いや、別に……メニーが待ってるから気を付けるとかじゃなくて……)
あたしは桶を見下ろした。
(いや、いい。メニーとかどうでもいい。まじで、どうでもいいから。本当よ! ここでドロシーと会わなくたって、どこかの時間軸で会えばいい。まだ会える可能性はあるんだから!)
杖をくるんと回せば、怪しい宿の一室に戻ってくる。うなされる少年のベッドに座り、桶を地面に置く。
(さーて、汗拭くわよー。本当に、あたしに感謝なさい。坊や)
「さん……」
(どうせ今夜は寝られないでしょうし。……あ、ママの化粧水持ってくればよかった。あ、いや、でもこの時間起きてるかも。官能朗読がラジオでやってる時間……)
「お母さん……」
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