第10話 濡れない地図


 中庭。


 どこまで伸びていいのかわからない雑草がまだまだ伸び続け、ぼろぼろのアトリエを囲んでいる。あたしを襲った鎧の兵士たちはいなくなっていた。リオン達に片付けれたのだろうか。


 アルテが雑草を踏んづけて井戸への道を作った。あたしもそれについていく。アルテがランタンを照らし、井戸の中を照らした。しかし、井戸の奥は闇に包まれて全く見えない。


「……あ、何か落ちてる」


 アルテが井戸の側にあった紙を拾い、あたしに見せた。


「は? また古代文字……?」

(どれどれ?)


 あたしの目が古代文字を読み取る。


 ――グロリアです。

 井戸に用のある方、今、落し物をしたので梯子を取りに行ってます。

 ……もし、星のブレスレットを見つけたら、ここに置いておいてください。


「こんなに辞書を持ってこなかったことを後悔したことはない。えーーーーっと……井戸に……落し物……えっと……」

「……落し物したけど、もし見つけた人がいたらここに置いておいて、みたいなこと書かれてるんだと思う」

「ふーん。……なんか落としてたみたいだったもんね。妙に手首見てたし」

「ええ」

「……井戸の底、何かあるかな?」

「アルテ」


 あたしは首を振った。


「行かない方が良いと思う」

「……そう?」


 アルテが梯子を見た。


「……でも、梯子もあるし」

「音が聞こえるわ。水の音。多分、井戸の底は水しかないのよ」

「ってことは……井戸の底に何か落として……何かあるかも」

「アルテ。ここは駄目だと思う」


 アルテの腕を掴んだ。


「行っちゃ駄目」

「……」

「無暗に暗いところに行かない方が良いわ。それに……あのメイド、その梯子で下りて、上ってきてないでしょ? 落ちて、上れなくなったのよ。梯子が途中で切れてるのかも」

「だけど……」

「アルテ」

「なんか……」


 アルテが井戸を覗き込む。


「呼ばれてる……気がする……」

「……アルテ?」


 アルテがランタンを置いた。


「ちょっと」


 梯子に足をかけた。


「ちょっと、アルテ」


 あたしの声を無視して、アルテが下り始めた。


「ちょっと、ら、ランタン!」


 アルテが井戸の底に下りて行った。


「アルテ!!」


 ――アルテが闇の中に消えた。


「……」


 ――何も聞こえない。気配もしない。


「……アルテ?」


 呼んでみる。返事がない。


「……ちょ……」


 あたしは辺りを見回す。手を叩いてみる。誰も来ない。


「ソフィアー?」


 来ない。


「リトルルビィー?」


 来ない。


「……メニー?」


 来ない。


「役立たずのドロシー」


 来るわけない。


「……はあ……」


 あたしは深く息を吸い込み――ランタンを強く握って、縄の梯子に足をかけた。


(アルテを見つけたら、すぐに上に上がる)


 縄の梯子を一段ずつ確認しながら下りていく。絶対に手を離してはいけない。あたしの呼吸だけが聞こえる。闇の中に入っていく。ランタンが光を照らす。闇が永遠と続いている。水の音が近づいてくる。あたしは呼んでみた。アルテ! ……あたしの声だけが響いた。どんどん下りていく。どこまで続いているんだろう。こんなに深かったなんて。あたしはもう一度呼んでみた。アルテ!! アルテからの返事はない。あたしはもっと下りていく。手が痛くなってきた。あたしはしっかり梯子を握りしめ、下りていく。……足が滑りそうになった。あたしは目を見開き、ぎゅっと梯子を握りしめた。


「……くそ……!」


 一段ずつ、しっかりと踏み、下りていく。


(アルテの様子が何かおかしかった)


 あたしの足が下りていく。


(くそ、体押さえてでも止めるんだった)


 あたしの足が下りた。




 足場がない。





「っ!!」



 足場がない。あたしは縄を握りしめた。だが、濡れる縄に手が滑った。


「っ」


 あたしは井戸の底に落ちた。

 わたしは井戸の底に落ちた。


「ぶはっ!」

「ぶはっ!」


 あたしは顔を水面から出した。

 わたしは顔を水面から出した。


「アルテ!」

「誰か!」


 あたしは叫んだ。

 わたしは叫んだ。


「いたっ」

「いたっ」


 水が冷たい。足の感覚がない。

 水が冷たい。足の感覚がない。


 あたしは泳ぎ出した。前に、あっちに陸があった気がする。

 わたしはその場にとどまった。動けなくなってしまった。痛い。足が痛い!


 あたしは闇の中を進んだ。

 わたしは闇の中にとどまった。


 あたしは体を動かした。

 わたしは動けなくなった。


 あたしは無理矢理泳いだ。

 わたしは無理矢理足を動かした。激痛が走った。悲鳴を上げた。


 あたしは手を伸ばした。

 わたしは手を伸ばした。


 ――陸に辿りついた。


「はぁ……! はあ……!」


 あたしは体を起こし、陸に身を乗らせた。ずぶ濡れだ。


(地図が……どうしよう……)


 ランタンも落とした。明かりがない。


(とにかく、ここから出ないと……ここは危ない……!)


 水の音が響く。あたしは立ち上がり、手を伸ばし、壁に触れ、その壁に沿って歩く。――ドアを見つけた。


「っ」


 ドアノブを捻ると、開いた。――下へ繋がる階段が続き、壁にはろうそくの灯がともっていた。


「……何なのよ。ここ……」


 ずぶ濡れになった足を動かし、階段を下りていく。井戸の底よりも深い底が続いている。階段を下りていく。ろうそくの火が明るい。足元がよく見える。


 階段を下り切った。


 ――洞窟のような、岩で固められた広い通路に繋がっていた。ろうそくの火が通路を照らす。あたしは階段から抜け出し、その通路に進んだ。


(……地図……)


 あたしはずぶ濡れの手をポケットの中に突っ込ませ……眉をひそめた。


「え?」


 ポケットから出した。――地図は濡れてなかった。


「……」


 広げてみた。――はっきり絵が残されていた。


「……」


 あたしは――考えることを止めた。もうこうなってしまうと、考えたらきりがない。この地図は濡れなかった。良かったではないか。そういうことにしておこう。どうして濡れてないんだとか、あたしはずぶ濡れなのにとか、もう、考えないようにしよう。それよりもアルテを見つけないと。


(でも、井戸に下りてあそこにいなくて……他にどこにいるっての?)


 ――通路の奥から足音が聞こえた。


「っ」


 あたしは息を呑み、振り返った。通路の視界から、影が見える。


「アルテ……」


 足を引きずる影が見えた。


「……」


 あたしはその場で止まった。影が近づいてくる。あたしは待った。影が近づいてくる。足を引きずる音が近づいてくる。ずるずると、ゆっくりと、確実に近づいてくる。あたしは待った。影が近づいてくる。あたしは待った。心の準備は万端だ。


 いつでもどうぞ。





 影は言った。







「私のブレスレットは……どこ……」







 足の折れたメイドが、片足を引きずらせ、姿を現した。


「足の……感覚が……ない……」


 顔を俯かせたメイドが、ゆっくりと顔を上げた。


「私のブレスレット……」


 あたしを睨んだ。


「返して!!」





 ――勢いよく走り出した。メイドが泣き叫んだ。


「返してよ!! ブレスレット!!」


 あたしは腕を振って全力で走る。後ろを振り返る。片足の折れたメイドが、泣きながらとんでもない速さで追いかけてくる。


「私のブレスレット返して!!」


 あたしはもう振り返らないことを決めた。ひたすら前だけを走る。呼吸が乱れる。構うものか。あたしは走る。


「私のブレスレット返して!!」


 耳元で聞こえた気がして、あたしはさらに大きく腕を振った。


「私のブレスレット!!!!」


 腕を強く掴まれ、引っ張られた。無理矢理振り向かされた。ミイラの女が泣き叫び、あたしに怒鳴った。


「返して返して返して返して返して返して返して返して返して返して!!!!」

「……っ!!」


 あたしは両手で女を押しのけ、再び走り出した。何か蹴飛ばした。


「ひゃっ!」


 足を取られたが、すぐに立ち上がり……踏んづけた。何かが壊れた音が聞こえた。後ろから再び足を引きずらせる音が聞こえ、慌てて走り出す。また聞こえてくる。追いかけてくる。メイドの泣き声。女の泣き声。あたしは走る。また呼吸が乱れていくのがわかる。このままだと過呼吸になる。視界が恐怖でぐらついてきた。どうしよう、どうしよう、どこに行けばいい! どうしよう!


 ――電話の音が、遠くから聞こえた。


「っ」


 息を呑み、音の鳴る方へ走る。どんどん近づいてくる。電話の音がする。走る。後ろから女の泣き声と、足を引きずらせる音が聞こえてくる。あたしは走る。電話の音が近づいてくる。あたしは走る。――ドアが開かれた部屋を見つけた。


「っ!!」


 あたしはその中に滑るように入り、ドアを閉めた。


「……どこ……私のブレスレット……」


 ドアから離れる。口を押さえ、部屋の隅に座り込む。


「……足の感覚がないの……。……痛い……」


 ドアが叩かれた。


「痛い」


 ドアノブがひねられた。


「私のブレスレット……」


 ドアノブが壊れるんじゃないかと思うくらい動き回る。


「返して……」


 ドアノブが動く。


「痛い……」


 ドアが叩かれる。


「返して!!!」


 ドアが叩かれる。


「私のブレスレット返して!!」


 あたしは黙る。ドアが叩かれる。


「返して返して返して返して返して返して返して返して返して返して!!!!」


 ドアが叩かれる。あたしは黙る。ドアが叩かれる。あたしはうずくまった。ドアが叩かれる。あたしは瞼を閉じた。ドアノブが回される。あたしはもっとうずくまった。


「私のブレスレット返して! 私のブレスレット返して! 私のブレスレット返して! 私のブレスレット返して! 私のブレスレット返して! 私のブレスレット返して!!」


 あたしの体が震え続ける。


「痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い」


 ――メイドがぽつりと呟いた。


「……痛い……」


 ――どこかへ消えたように――声が聞こえなくなった。


「……」


 気配が消えた気がした。あたしは目玉を動かし――部屋の周囲を見回した。……牢屋だった。


(……あ)


 土が柔らかい。隣を見た。壁が一部壊れてる。


(……穴掘ったら行けそう……)


 柔らかい土を両手で堀り、隣の部屋へ潜って侵入する。ここも牢屋だ。ドアが開いてる。牢屋の外へ抜け出し、周囲を見渡す。


(……城の地下に牢屋ね。……嫌な場所……。昔を思い出すわ)


 ――電話が鳴った。


「ひっ!?」


 振り返ると、壁に電話が設置されていた。近づき、腕を伸ばし、受話器を取る。耳にあてる。


「……」

『……グロリア先輩は良い人だった。子供の頃から一緒にこの仕事をしていたの。そそっかしい私とは違って、先輩は何でもできる完璧な人だった。家族思いで、よく故郷の話をしてくれた。星型のブレスレットは、先輩の故郷で伝わっているものだった。何度か作り方を教わっていたんだけど……ベッドで眠ると、私はすっかり忘れてしまって……先輩に呆れられてた。それでも……何度も教えてくれた。結局、覚えられなかったけど……』

「……誰なの?」

『……先輩は……傷つけようとしたわけじゃない。ただ、精神がぎりぎりのところにいたのに……落ち着こうとしていたのに……ブレスレットを落としてしまって……とうとうパニックになってしまっただけ……』

「……カリス?」

『見つけたらでいいの。星のブレスレット。どうか、先輩に返してあげて。じゃないと、あの人いつまでもここにいる。ああ……可哀想……なんて可哀想に……』


 電話の相手はすすり泣く。


『可哀想に……可哀想に……』

「カリス!?」


 ――一方的に電話が切られた。


「……」


 受話器を置こうと横を見ると……ドアが開かれた部屋を見つけた。ここよりもずっと明るい。


「……」


 あたしは受話器を置き、その部屋に入ってみた。


 大きな祭壇が備え付けられていた。周りに大量のろうそく。地面には魔法陣。……マーメイド号で見た、黒魔術の魔法陣を思い出す。


(……ここ、本当に旧校舎だったのよね。……何が行われていたのかしら)


 部屋のドアを開けてみた。上に通じる階段があった。


(上に行けそう)


 思った以上に長い階段だった。休みながらも一歩一歩上っていき、かなり上った先に設置されたドアを開けば――エントランスホールに戻ってきていた。


(……ここに繋がってたのね。うわ、確かにここ、ドアがあった。)


 あたしは後ろに下がりながらドアを見つめる。


(ここから下に行けば祭壇の部屋があって、その先が牢屋? ……悪趣味すぎ……)


 柱に背中がぶつかった。


「ん?」


 柱に紙が貼られている。――ロザリっち、もしこのメモを見たら、映写機の部屋に集合。


「……アルテ」

「見つけた」

「ぎゃああ!!」


 悲鳴を上げて振り返ると――腕を組んだソフィアがあたしを見下ろしていた。あたしは胸を押さえ――潤む瞳をぐっとこらえる。


「う、ううう……! お、お前、い、い、いつから……ふぐぅうう……!」

「どこにいたの? リトルルビィが捜してたよ。君の匂いも気配も消えたって」

「……この古城、色々おかしいのよ。ずっとお化け屋敷を歩いてる感覚よ。本当に……気味が悪い!」

「くすす。元気そうだね。恋しい君。無事なら良かった」

「あら、素敵。先生、この姿が無事に見える?」

「ずぶ濡れに見える」

「そうよ。井戸の底に落ちたのよ。そして足を引きずったメイドに追いかけられて、もう散々よ!」

「アルテが君を捜してたみたいだったけど?」

「……あの子、正気だった?」

「ん?」

「途中で様子がおかしくなったのよ。井戸に下りたと思ったら……下りた先にいなくて……あたしはそのまま井戸の底に落ちて……」

「ずぶ濡れ?」

「お風呂入りたい。もう最悪……」

「他に何かあった?」

「……祭壇があった。あと魔法陣」


 ソフィアがきょとんとした。


「この学園で、変な儀式とか行われてないでしょうね?」

「……魔法陣ってどこにあった?」

「そこのドアから入って、下に下れば部屋がある。そこ」

「見つけた」

「ぎゃあああああ!!」


 ソフィアに抱き着き、青い顔で振り返ると――リトルルビィが腕を伸ばしたままきょとんとしていた。


「テリー……?」

「ああぁぁぁあ、もう無理ぃいい……!」


 ソフィアの体にしがみつき、あたしの目から大粒の涙が落ちてくる。


「あたしもう無理ぃいいい! もう帰るぅううう!!」

「くすすすす! よしよし。恋しい君。もうひと頑張り。私もいるし、もう何も怖くないよ。ほら、アルテが待ってる」

「うるさい! お黙り! 子ども扱いしないで! ぐすっ! 怖くなんてないわよ! ばかぁ!! ……あ! 何これ! 久しぶりの人のぬくもりに、あたしの心が安らいでいくわ! すごい! 何これ!」

「うん。多分私のおっぱいの包容力がテリーを包んでいるんじゃないかな」

「すごいわ……! これがおっぱいの力なのね! あたし、今、身をもって感じてる! おっぱいがあれば何も怖くない!!」

「ほらね、リトルルビィ。女の胸はね、こうやって使うんだよ。くすすす!」

「あ? ババアの垂れる胸なんかどうだっていいんだよ」

「ば……」


 ソフィアの片目がびきぃっ! と痙攣し、リトルルビィがあたしの顔を覗き込み――眉を下げた。


「テリー、……大丈夫?」

「……そこのドアを下りた先に祭壇と魔法陣がある。ぐすっ。……ソフィアと二人なら行けるわね? 調べてクレアに伝えて」

「魔法陣?」

「メニーは図書室?」

「うん。調べたいことがあるって……すぐ戻るつもりだけど」

「ソフィア」

「行けるよ。君が離れたらね。……私は、離れなくてもいいけど?」

「アルテが待ってるんでしょ。……ぐすっ、行ってくる」


 ソフィアの胸から離れ、ゆっくりと息を吐いた。


「いい? 二人とも。この古城にいる間は、細かいことがあっても気にしちゃ駄目よ。たとえずぶ濡れになったって、びしょ濡れになったって、ポケットの中にある地図は濡れたりしないの。なぜ濡れてないのか、考えたって無駄よ。答えなんて出てこないんだから」

「よっぽどな目に遭ったんだね。恋しい君」

「テリー、本当に大丈夫? わたし、側にいようか?」

「いや、いい。ソフィアと魔法陣について調べて。大丈夫よ。あたしは……大丈夫……」


 ふらふらとドアへ向かって歩いていく。


「はあ……大丈夫よ。あたしは……大丈夫……。まだいける。あたし……まだいけるのよ……はぁ……」

「……だってさ。リトルルビィ」

「……魔法陣」


 リトルルビィとソフィアが目を合わせた。


「クレアの言ってた通りだ」

「やっぱり、殿下には敵わないね。勘が冴えてる」

「早く行こう。確認しないと」


 リトルルビィがドアを開け、ソフィアも一度恋しい君の歩いていった方を見てから――すぐに視線を戻し、歩き出した。


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