第33話 三羽のカラスは合唱する
壁一面が硝子張りになり、そこから外の景色がよく見える。あたしはデッキが見える通路の端に立った。昼間の空には雲が重なり合って白く見える。今日は曇りらしい。雨が降りそう。日傘を持った人々が並んで立ち、優雅に海を見つめる時間を過ごす。寒いのだろう。白い息が吐き出される。恋人同士は寄り添い合い、ぬくもりを分け合う。仲良しな恋人同士を見て思う。くたばればいいのに。幸せそうな顔しやがって。
隣を見ても、あたしにはクレアではなく、イザベラしかいない。
(クレアとの未来のためよ。こいつと中毒者の関連性を調べなくちゃ)
「海の上って飽きると思ったけど、なかな楽しいものね。波が動いてるのをぼうっとしながら見ちゃうわ」
イザベラがぼうっと海を見る。一方、あたしはイザベラの足の爪から膝太もも尻腰お腹に胸首頭の天辺まで観察する。
(鱗は……どこにもなさそう……)
「……悪いわね。テリー」
「え? 何が?」
「……散々振り回しちゃって」
「振り回してなんかないわ」
あたしは笑顔で答える。
「あたし、本当にイザベラと仲良く話したかったの」
「アタシの近くにいても良いことはないわ。現に……人が殺されてる」
「……犯人、心当たりないの?」
「さあね。ジョエルが生きてたら彼だと思ったかもしれないけど、彼も殺された。となると……マーロン……ではなかった。……やっぱり顔の知らないストーカーかしら」
イザベラが景色を眺める。
「ねえ、テリー、次は誰だと思う?」
「……誰も襲われてほしくないわ。死んでもほしくない。この船で奇妙な殺人事件が起きたなんて話が表に出回ったら、期待の船から不安の船に早変わり。うちの評判もガタ落ちよ」
「ふふっ。アタシも自分のことでなければ、船で殺人事件だなんて小説みたいでかっこいいって思ったけれど、……駄目ね。自分に被害が来ないのに、周りにばかり起きるのは、本当に、……心が抉られる」
イザベラが胸を押さえた。
「メグが死んだ日を思い出すわ」
「……メグ?」
「……ハロウィン祭で亡くなった子よ」
白人の女の子。
「音楽学校ってね、自分達の価値観が頑なに決まってる人達が集まるのよ。みんな若いし、やる気に満ちてる。黒人と白人で対立してたわ。白人の奴らは、アタシ達を奴隷族って呼んでた。でも、メグは違った。メグは肌の色なんて関係なく、仲良くなりたい人とつるんだ。アタシとランドは、メグが大好きになった。ずっと三人でいたわ。メグといたら、肌の色を気にしてた自分が馬鹿馬鹿しくなった。それくらい強烈だったの。メグはアタシの価値観を変えた。三人でスターになりましょうって、酔っ払いながら夢を語ってた日々だった。……でも」
イザベラが枯れた笑いを零した。
「すごいわよね。二人ともいなくなって」
残されたイザベラ。
「アタシ一人だけになった」
「……」
「テリー。……用心してね」
あたしの手をそっと握りしめる。
「命の恩人までいなくなったら、アタシ、今度こそ駄目になるわ」
(芝居か?)
中毒者はその体と心を中毒に侵される。我を見失う。
(だけど)
イザベラが呪いの飴を舐めてる様子はない。
(工場の中でも、あいつがそれっぽい飴を舐めてるところなんて見たことない)
思い出せ。
頭の中であたしは思い出を引っ張り出す。二度と開きたくなかったアルバムを思い出すの。大丈夫。あたしなら思い出せる。工場時代は死ぬ前で一番新しい記憶。
思い出せ。
イザベラのしていたこと。豚のようにデブになったイザベラがやっていたこと。人を殴り、貶めて、裏切って、恐れられ、過去の自分の歌を看守に聞かせてやって、牢屋に戻り、静かになり、
歌うのよ。
「……」
「……? テリー?」
……あの歌、なんだっけ。
「テリー、どうかした? 大丈夫?」
思いだせ。あの歌、あの歌よ。散々うるさいと思っていたあの歌。あの歌に何か手掛かりがあるかもしれない。大丈夫。あたしなら思い出せる。思い出せ。あの忌々しい歌を。この女が夜な夜な歌っていたあの気味が悪い歌を。
――楽譜――。
「……テリー!」
イザベラが声を上げて、あたしははっとした。
「鼻血が出てる!」
「……え……」
「大丈夫? ああ、そこのクルーさん! 冷やすものを持ってきてちょうだい!」
あたしの手に血が滴ったのが視野に入った。イザベラがあたしを椅子に座らせ、顔を覗き込む。
「ああ、テリー、無茶しないで。本当は風邪治ってないの?」
血が滴る。
イザベラに殴られた日。イザベラを殴った日。
血が滴る。
口の皮が切れて、血が止まらなくて、手当してもらって、部屋に戻された。ベッドで丸まってたら、ネズミ達が寄ってきた。思い出せ。歌が聴こえたはずだ。忌々しくて、あたしは怒鳴った。黙れ! でもあいつは止めなかった。歌い続けた。
血が滴る。
思い出せ。あの歌を。
――楽譜だ――。
……そうだわ。楽譜を見せないと。
あたしの手がおもむろにポーチバッグに伸びた。チャックを開けて、イザベラの前で楽譜を広げてみせた。
「ん、何それ」
「知ってるでしょ?」
「え?」
「これ、知ってるでしょ?」
イザベラがきょとんとして楽譜を受け取った。彼女が楽譜を眺めていると――変な気配を感じて――あたしは窓に振り向いた。
「……まあ、霧が出始めてる」
「テリー?」
「あたし、ちょっと様子を見てくる。ここにいて」
「ちょっ……テリー、大丈夫なの!?」
あたしはイザベラを無視して、デッキに出た。
外に出た途端、急に冷たい空気に包まれる。クルーが各階のデッキに出て、大きな声を出した。
「霧が出て危ないので、中にお入りください!」
デッキから人々が船の中に戻っていく。しかし、あたしは構わず辺りを見回す。濃い霧が視界を遮る。これでは、見張り番に渡した双眼鏡も、役に立たないだろう。案の定、上方が騒いでいるようだった。
「報告! 何も見えません!」
「辺り一面、霧でいっぱいです!」
「しかも寒い!」
「ぶぁっくしゅん!」
あたしの足が動く。霧が船を包む。白い息すら霧が呑み込んでいく。あたしは左右に首を動かした。――そこか? あたしはその方向に歩いた。――変な気配がする。それはとても禍々しいものだ。首を動かした。何もいない。笑い声が聞こえた気がした。振り返った。何もいない。振り返った。馬鹿にしたような笑い声がした気がした。足を止めて、じっとしてみた。すると、
耳に優しい声。
「愛しい人は見つかったかえ? ジャック」
その声に、振り返った――。
――マチェットが立っていた。
「……マチェット……?」
ひんやり。
「……うわ、何、ここ」
ぶるる!
「は!? どこ、ここ!?」
「デッキです」
「はっくしゅん!」
「霧が出て来たので、中に入ってください」
「え? 何? なんであたしここにいるわけ? イザベラは?」
「今マチェットの目の前にはあなたしか見えません」
「ちょっと待って! ……霧が出てるわ」
「ええ。ですので……」
あたしは足を動かした。
「中に戻ってください」
(霧、……霧が出てる)
霧で回りが見えなくなる。だけど船の速度は落ちないまま進んでいき、やがて氷山に――。
(くそ。気候までも歴史通りってこと? 冗談じゃないわよ。見張りは大丈夫かしら? クレアに連絡して手を回してもらって……)
カー。
「……?」
あたしは手擦りを見上げた。
手擦りの上に、三羽のカラスが立っていた。あたしはぱちぱちと目を瞬かせて三羽のカラスを見つめた。その後ろをマチェットが追ってくる。
「中へ戻ってください」
「マチェット、見て。……カラスがいるわ」
「……」
カモメではなく、カラスがいる。カー。
「なんでここにカラスがいるわけ?」
「飛んできてしまったか、あるいはどなかのペットでは?」
「ここまで飛んでくるなんてあり得ないわ。もうだいぶ海の真ん中を進んでるだろうし。……ええ。誰かのペットかしらね」
カー。一羽が鳴いた。
「そんな事よりも早く中へお戻りください。あなただけ例外扱いは出来ません」
「ちょっと待って。マチェット」
あたしは手擦りへゆっくり近づいた。
カー。二羽目が鳴いた。
「足に何か付けてるみたい」
あたしは三羽のカラスの前に立った。
カー。三羽目が鳴いた。
「ほら。これ、何かしら」
「どなたかのペットであれば、印代わりにつけたものかと」
「だからって、足にこんなの巻きつける?」
手紙みたい。
三羽のカラスが合唱を始めた。
「このカラス達、保護した方がいいんじゃない?」
「マチェットは鳥が触れません」
「……アレルギー?」
「苦手です」
「あなたね、だったら、網か何か持ってきなさいよ」
「先に誘導が優先です。中へお戻りください」
合唱していたカラス達が膨らんだ。あら、まるで歌うハトみたい。……ところで、
「ねえ、マチェット、カラスって」
風船のように膨らんでいき、
「膨らむっけ?」
破裂した。
あたしとマチェットに、黒い毛と、内臓と、血と、肉片がかかり、その部分の床と手擦りにも、黒い毛と、内臓と、血と、肉片が残った。あたしの足元に落ちたカラスの頭が鳴いた。
「カー!」
あたしはぎょっとして一歩下がった。
「カー!」
もう一度鳴いて、動かなくなる。手擦りを見上げると、三羽の足だけが残っていた。
「……」
あたしは何かが巻き付けられている足に手を伸ばし、開いてみた。中には、赤黒くなりすぎて、紫に見える色の文字でこう書かれていた。
――力は泡となって消えていく。
(っ)
あたしが文書を確認すると、文字がどんどん紙に吸い取られていくように消えてしまった。紙が白紙になる。
「……」
あたしはゆっくりと息を吐き、髪についたカラスの肉片を取って、地面に投げた。
「最悪」
「……」
「シャワーに入ってくるわ。……あなたも一回入った方がいいわよ」
「……そうします」
「そこの片付けお願いね」
「マチェットは鳥が触れません」
「アレルギーじゃないんでしょ」
「嫌いです」
「これも仕事よ、切り替えて」
あたしは白紙になった紙を折りたたんだ。
(気味が悪い……。後でクレアに見てもらおう)
ポーチバッグを開けて……あたしはきょとんとした。
(あれ)
あの双子から貰ったハンカチとお守りがなくなってる。
(やだ。どこかで落とした? ちょっと、子供から貰ったものを失くすなんて、印象悪くなるじゃない)
あたしはポーチバッグに紙をしまい、船の中に戻った。あたしの姿を見た人々が眉をひそめて手で口元を隠す。
(はあ。最悪。早くシャワーに……)
「テリー!」
(ん?)
あ、イザベラが走ってくる! あたしはほっとして、イザベラに歩み寄った。
「イザベラ、どこに……」
「やだ、それどうしたの!? 血まみれじゃない!」
「ああ、なんか外にいた鳥が破裂したの」
「破裂した? 何それ。そんなことあるの?」
「気圧かしらね」
「体調は大丈夫?」
「ええ。でもシャワーに行きたいわ」
「目をつけてた大浴場があるの。そこに行ってみない?」
「ええ。行く」
「着替えも用意しなくちゃね。……ところで、テリー?」
イザベラが手に持ってた紙をあたしに見せた。
「これ、どこで拾ったの?」
「え?」
あたしはその紙を見る。楽譜だ。……ああ、マチェットと異空間に迷い込んだ時にポーチバッグに入れてたやつか。
(……?)
三枚もあったっけ?
「ねえ、教えて。船の中で見つけたの?」
「……どこだったかしら」
(なんて言って誤魔化そう……)
「どこかのゴミ箱だったかも」
あ、ひらめいた。あたしはにっこり笑顔になった。
「ほら、イザベラが音楽について困ってたでしょう? 何か参考にならないかと思って拾ったのよ」
「……そうなの」
「捨てられてたって事は著作権とかきっと大丈夫だと思うの。どうかしら」
「そこは安心していいわ」
イザベラが言った。
「これ、アタシが捨てた楽譜だもの」
あたしとイザベラが顔を見合わせた。
霧が船を包む。
マチェットが血だらけになった制服を見下ろした。そして、地面と、手擦りを見た。そこにはカラスの残骸が残っている。マチェットがそれを見つめる。
ずっと見つめる。
波が揺れる。
海は広がる。
船は進む。
尾びれが揺れる。
魔法使いは笑っている。
ハープが鳴る。
人魚が息をひそめている。
霧は、いつまでも続く。
第八章:泡沫のセイレーン(前編) END
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