第20話 美しい音色


 鉄格子で閉じ込められた冷たい部屋。

 明日も仕事が待っている。

 ネズミのジョニーとケビンとハンスとセーラが穴から顔を出し、あたしの眠るシーツの中に入ってきた。ふわふわな毛が愛おしくて、あたしは四匹を優しく撫でた。

 寝静まった牢獄。

 静かな部屋。

 ふと、隣の部屋から掠れた歌声が聴こえた。

 それは毎晩聴こえてくる歌。

 それは人魚の歌。 

 歌詞はこの部屋で覚えた。

 毎晩聴いててうんざりする。けれど歌が止むことは無い。

 悲しそうな歌声が響く。

 あたしは瞼を閉じる。

 隣人が誰であるか、あたしは知っている。

 何度か黙れと怒鳴った事がある。

 けれど、もう諦めた。あいつは歌を止めない。

 何かに取り憑かれたようにこの時間に歌う。

 気味が悪い歌姫。


「……ひっ……」


 突然、呼吸が乱れた。


「やめて……」


 麻薬の後遺症による幻覚であろう。


「……やめて……」


 今夜もうなり声が聞こえる。



(*'ω'*)



 額が冷たくなったのを感じて、意識が戻る。


(……ん)


 体のだるさを思い出して、あたしは眉間に皺を寄せ、ゆっくりと瞼を上げた。そこには氷袋を取り換えるサリアがいた。サリアがあたしを見下ろし、微笑んだ。


「おはようございます」

「……」

「起こしてしまいましたね」


 サリアがあたしの頬に触れた。


「……まだ熱い。体調はどう?」

「……」

「……お水を飲みましょうか」


 サリアがグラスに水を注いだ。


「起きれますか?」


 あたしは頷き、ぐっと体を起こして、グラスを受け取った。飲みこむと、……喉が痛い。


(……昨日より悪化してる気がする……)


「もう少しで朝食のスープが来ます。その後は薬を飲んで、安静にしていてください」


 ――今回は僕らに任せて、君は部屋で休んでると良い。


(夜のうちに調査は進んだかしら……)


 あたしが動いていたのは、リオンとクレアがいない前提だったからよ。


(いるならいいわ。後はあいつらが何とかするでしょ。この船を救いの道に導いてくれるはずよ。だから、)


「あたし、きょうは一歩もうごかない」


 息を吐く。


「ずっと寝てるわ」


 あたしが言えば、サリアがホッとした顔をした。


「やっと言うことを聞いてくれる気になりましたか?」

「きょうはだるいのよ。すごく」

「あれだけ動き回るからです」

「はあ……」

「ゆっくりお休みください。そうすればあっという間にカドリング島に着いてるはずですから」


(……だといいけどね)


 その時、ドアが叩かれた。


「はい」


 サリアが返事をしてドアを開けると、品のあるクルーがスープの乗ったカートを持ってきた。


「おはようございます。テリーお嬢様とメイド殿に朝食を」

「ありがとうございます。どうぞ」


 カートには保温容器と皿が数枚乗せられ、蓋を開ければ温かなパンと、スープとサラダが用意されていた。ここから好きなだけ皿に取って食べれるシステム。でもこれが出来るのはスイートクラス以上の客だけ。良い商売してるわね。ママ。


「一時間後に回収に参ります。ご用がなければ、これにて失礼致します」


 クルーが部屋から出ようとすると、部屋に入ってきた誰かに挨拶をされた。


「おはようございます」

「ああ、これは。おはようございます」


 クルーが出て行き、その人が歩きながらあたしにも挨拶をしてきた。


「おはよう。テリー」

「……」


 あたしはぼうっとしながら、大股で歩いてくるクロシェ先生を見た。


「……おはようございます」

「おはようございます。先生」

「おはようございます。サリアさん」


 クロシェ先生がサリアが朝食の準備をするのを見て、あたしに視線が移った。あたしはその視線で――嫌な予感を察知し、先生から目を逸らした。案の定、低い声で呼ばれる。


「テリー」

「クロシェせんせい、あさからせっきょうはやめてください。げほげほっ。きょうは体調があっかしてるんです」

「当たり前よ。あなた夜も大暴れだったそうじゃない」


(え!? 夜中抜け出したところ、見られてた!?)


「あのね、15歳以上は確かに仮成人として認められてるわ。だから結婚が出来る。でもアルコール摂取が決められてるのは……」


(……ああ、ばれてないみたい。ほっ)


 胸を撫で下ろすと、クロシェ先生に睨まれた。


「テリー?」

「……わかってます。18歳以上」

「よろしい」

「おかげで二日酔いとかぜのダブルアタックです。げほげほっ」

「あなたには宿題をもっと出すべきだったわ」

「あれいじょうだすなら、ずびっ、あたしは先生をけいべつします」

「口だけは達者なんだから」


 サリアがあたしのベッドに台を固定させ、その上にスープの皿を出した。


「さあ、お嬢様」

「ずびっ。われらが母の祈りにかんしゃして、いただきます」


 あたしはスプーンを持って、スープを口に運ぶ。……あったかい。


「さて、説教と嫌な文句はここまでよ。テリー、これが本題。無理ならいいんだけど」

「はい?」

「彼が、あなたと挨拶したいんですって」

「……こんやくしゃの?」


 見上げると、クロシェ先生が笑顔で頷いた。


「アメリアヌとメニーは昨日挨拶を済ませたんだけど、あなたはまだでしょう? 是非会ってご挨拶したいって」

「……どうせ寝てるだけです。……ネグリジェのままでもよければ」

「よかった。彼、喜ぶわ。あなたと仲良くなりたいって言ってたのよ」


(クロシェ先生を選ぶんだもの。見る目が良い男ってことは認めるわ)


 クロシェ先生があたしの頭を撫でた。


「体はどう?」

「のどとか……骨とか……痛いです」

「ま、当然でしょうね。……昨日、ドロシーを追いかけてるテリーを見かけたの」

「え?」

「昼くらいよ」

「……」

「こういう時は安静にしてなきゃ駄目でしょ。はしゃいでるとはいえ、許されないわよ」

「……きょうは安静にします」

「その方が良いわ。……みんな心配してるんだから」

「……はい」

「ん。良い子ね」


 クロシェ先生が一歩下がった。


「私も朝食を取ってくるわ」

「……よかったら、たべていかれますか?」

「ありがとう。でも大丈夫よ。彼が待ってるから」

「そうですか」

「今日はちゃんと寝てるのよ?」

「わかってます」

「それじゃ、後でね」


 クロシェ先生がふふっと笑って、ドアを閉めた。サリアが容器の中にあったパンを見て、あたしに振り向いた


「テリー、パンはどうします?」

「サリアが食べて。あたしはいらない」

「かしこまりました」

「ごちそうさま」


 野菜の多いスープを飲んだらお腹が膨れた。


「テリー、お薬を」

「はーい」


 玉の薬。


「……あたし、粉がいいのに……」

「一粒ずつ飲んでください」

「そしたら二回飲まなきゃいけないんでしょ?」

「はい」

「はあ……もうやだ……」


 飲みづらいったらありゃしない。だから嫌なのよ。喉に突っかかるこの感覚。粉だったらないのに。あーあ。本当に玉形の薬、嫌い。あたしは二回に分けて薬を飲み、息を吐いた。


「ふう」


 これだけの作業で、体力が無くなってしまう。


「ちょっと寝る……」

「お側にいるので、何かあれば呼んでください」

「ん……」


 あたしは重たい瞼を閉じた。暗くなる。どんどん、意識が遠くなる。


 どんどん、黒くなっていく。



( ˘ω˘ )



 男の死体が倒れている。あたしは近付いてみる。頭と足と骨だけが残り、まるで食べ終わった後の魚のような死体。じっと眺めていると、突然足を掴まれた。あたしは驚いて、慌てて見下ろした。


「助けて」


 ランドがあたしを見上げている。


「まだ死にたくない」


 船が揺れる。


「氷山がぶつかったぞ!」


 波が大きくなる。


「救命ボートへ!」

「助けて!」

「助けて!」

「助けて!」

「駄目だ!」

「沈むぞ!」

「船が傾いた!」

「ああ、神よ!」


 船が大きく揺れる。人々が悲鳴をあげる。


「助けてぇえええええええええええええ!!」


 悲惨な光景に、あたしは後ずさった。何かにぶつかった。ぎょっとして振り返ると、――とても醜い緑色の目が、じっとあたしを見ていた。


「っ」


 あたしの足が動かなくなるのと同時に、とても醜い顔があたしに近付いた。濁った緑色の目に吸い込まれていく。眼球の中に何か映っている。あたしの頭に入ってくる。



 ハープを演奏する、半魚人が微笑んでいる。



(*'ω'*)



 ――飛び起きた。


「……っ」


 浅い呼吸を繰り返し、汗を拭った。


(……夢?)


「テリー?」

「っ」


 声に驚いて振り返ると、ソファーに座ったサリアが本を持ちながら、きょとんとあたしを見ていた。


「……まあ、大変」

「……」

「酷い汗」


 サリアがすぐに側へ寄ってきて、桶に入れていたタオルを絞り、あたしに押し当てた。タオルはひんやりして、熱くなったあたしの熱を少しだけ緩和させる。


「怖い夢でも見ましたか?」

「……いま、なんじ?」


 時計を見る。


「あなたが寝てから、一時間ほどです」

「……はあ……」

「自律神経が乱れているうちは悪夢を見やすい」


 心臓がぶるぶる震え続ける。


「温かい紅茶でもいかがですか?」

「……」


 あたしは自問自答する。――本当に、クレアとリオンが何とかしてくれるのよね?


(現在進行形で調査が進んでる)


 結局、昨晩のは中毒者だったの? それとも海に住んでる巨大な生き物が人間を食らったとか? はは。本にありそうな物語。


(ランドの死体は、なぜあんな高い天井に設置されていたシャンデリアの上にあったのかしら?)


 そうだ。ランドが死んだ事を聞いたイザベラは、どうしているだろうか。イザベラはランドに好意を寄せているようだった。これが歴史通りの流れなのであれば――麻薬に手を染めたのは、これも一つの要因だったりとか?


(大丈夫よ)


 こんなに頭がぐるぐるして不安になるのは熱のせいだわ。中毒者だろうが、なんだろうが、リオンもいるし――結果的に、クレアもいるし。


(……はあ)


 大丈夫よ。あたしが動かなくたって今回は何とかなるわ。


(中毒者であればあたしがどうにか出来る問題でもないし)


 見張り番、双眼鏡落としてないでしょうね。

 石炭倉庫、大きな火災は起きてないでしょうね。

 レストラン、火の用心してるでしょうね。

 厨房、包丁の管理してるでしょうね。

 怪我人はいないでしょうね。

 グラスは割れた? 破片は飛び散った?

 エンジンは?

 エレベーターは故障してない?

 クルーは全員無事?

 コンサート会場の照明が落ちたりしてない?

 大きな事故はなかった?

 何もなかった?


 大丈夫、大丈夫。この船は世界一の豪華客船。ママが用意したとんでもなく豪華で贅沢で絶対に沈まない船。


(沈まない船?)


 沈んだじゃない。


(大丈夫よ)


 クレアもリオンもいる。


(大丈夫)


 乗ってない者達がこの船には乗っている。


(大丈夫だから)


 歴史は変わる。

 死は移る。生は移る。

 死ぬ運命にあった者達がこの船に乗っている。

 生きる運命にある者達もこの船に乗っている。

 命を運ぶ豪華客船。

 沈む運命にある豪華客船。

 海の上。

 逃げ場はない。


 何かがあったら、そこで運命は決まる。



( ˘ω˘ )



 クレアがいる。

 あたしに微笑んでいる。

 あたしはその笑顔に見惚れる。

 ふと、クレアの腹部が膨らんだ。

 包丁が飛び出た。

 あたしは目を丸くした。

 クレアが笑顔で血を吐いた。

 クレアの血があたしに付着した。


「テリー、愛してる」


 クレアが倒れた。血が広がる。あたしは顔を上げた。


 みんな死んでいる。

 クロシェ先生も、リトルルビィも、ニクスも、ソフィアも、アリスも、リオンも、みんな死んでいる。


(……メニーは?)


 あたしは振り返る。


(あいつはどこよ)


 あいつの死体だけない。


(クレアの死体はあるのに、メニーの死体は無い)


 どこよ。


(メニー?)


 振り返る。


 メニーが立っている。あたしに笑顔を向ける。あたしははっとした。あたしの手に包丁が掴まれている。顔を上げた。メニーが倒れた。腹部から血を出して倒れた。あたしの手が、包丁が、真っ赤に染まっている。


 みんな死んだ。

 あたしが殺した。

 あたしが何もしなかったせいで、みんな死んだ。

 もう運命は変えられない。

 船は大きく揺れた。

 あたしは悲鳴を上げた。

 船が二つに割れた。

 あたしは悲鳴を上げた。

 船が沈んでいく。

 あたしは海に投げ飛ばされた。


 しょっぱい味の水中に沈む。

 息が出来ない。

 酸素が足りない。

 でももう駄目。あたしも死ぬ。


 暗い海の中に沈んでいく。



(*'ω'*)



 ――目を開けた。


「テリー?」


 視界がサリアでいっぱいだ。


「寝てていいですよ」

「……いま、なんじ?」

「一瞬だけ眠っていただけです。そうですね。あなたが眠って一分程度でしょうか」


 サリアが紅茶をカップに注いだ。


「紅茶が出来ました」

「……ここは夢? げんじつ?」

「紅茶を飲んだらわかるかもしれませんね」


 サリアが、ベッドに固定された台にカップを乗せた。


「さあ、どうぞ」


 あたしはゆっくりと紅茶を飲んだ。……飲む感覚で目が覚める。ここは現実だ。


(体調が悪いと、悪夢を見やすい……)


 あたしはカップをソーサーの上に置いた。



( ˘ω˘ )



 紅茶が浮かび上がってランドの顔になった。


「助けて!!」



(*'ω'*)



 ――あたしは目を開けた。

 目の前には紅茶が置かれている。

 サリアが冷たいタオルであたしの汗を拭った。


「いま、なんじ?」

「テリー、お休みしましょうか」

「寝てた?」

「ほんの一瞬だけ」

「骨がいたい。ぎしぎし言うの」



( ˘ω˘ )



 ドアが開くと波が押し寄せてきた。サリアが悲鳴を上げた。波に呑み込まれてあたしも吞み込まれて溺れた。


 船が沈んだ。



(*'ω'*)



 目を開けた。

 サリアが紅茶を下げようとしていた。


「まって」


 サリアの手が止まった。


「のむ……」


 あたしは紅茶を飲んだ。頭がぼんやりする。


(眠りたくない)


 悪夢を見る。


(無理。とてもベッドにはいられない)


「……サリア、おさんぽしたいんだけど」

「今日はベッドにいるのでは?」

「夢見がわるい。げほげほっ、ベッドにいたくな……」


 吐き気。


「んっ」


 サリアが即座に空のゴミ箱をあたしに持たせた。急に胃が痙攣し、胃に入っていたスープや紅茶が吐き出された。


「ごほっ、んぐっ、げほ、げほっ!」


 サリアがあたしの背中を撫でた。


(ああ、無理。本当に死ぬ。ベッドから動けない)


 でも寝たら夢見が悪い。ゆっくり眠れない。


(ああ、気持ち悪い、骨痛い。喉が痛い。ぼんやりする。吐くものがないのに吐き気がする)


「ごほっ、ごほっ……」

「……まだ出そうですか?」

「……もうでない……けど……きもちわるい……」

「ゴミ箱、貰いますね」


 サリアがゴミ箱の袋を回収し、あたしの吐瀉物を処理する。


「サリア……外のくうき……すいたい……」

「バルコニーなら良いですよ」

「……ん……」


 サリアに支えてもらいながらバルコニーに出る。外の空気を吸うと、少しだけ気持ち悪いのが緩和される。


(はあ。全く……)


「せっかくのごうかきゃくせんなのに……あんまりだわ……」

「少ししたら休みましょう」

「サリア、ほんとうにねたくないの。なんか、怖い夢ばかり見るのよ」

「怖い夢ですか。例えば……」


 サリアに背中を押された。


「こういうのとかですか?」


 あたしはバルコニーの外に突き落とされた。



(*'ω'*)



「テリー、テリー」


 サリアの声で目を覚ます。バルコニーの前で座り込んでいた。


「ベッドに戻りましょう」


(……気持ち悪い)


 世界がぐるぐるしてる。心が乱れてる。自律神経も乱れてる。


(もう、さいってい……)


 ――どこからか、美しい音が聴こえてくる。


(ん?)


 ハープ?


「……サリア、良い音色ね」

「え?」

「げほげほっ、ハープの音」


 風が吹く。


「……この歌、なんの歌だったかしら。どこかで聴いたことある……」

「……ハープ……ですか?」

「ええ。サリア、この歌おぼえてる?」

「……?」

「……サリアもわからないことってあるのね。どこだったかしら。どこかで聴いたのよ。……げほげほっ」

「……テリー、ベッドに戻りましょう」


 バルコニーの戸をサリアが閉めた。ハープが聴こえなくなる。


「ベッドにもどったら、寝ちゃいそうなのよ」

「ええ。ゆっくりお休みください」

「なんか、こわい夢みるのよ。げほげほっ」

「私が側にいますから」

「……なんか甘いものたべたい」

「……頼みますか?」

「そうね。なんか……あー……心の癒しになるような……」

「ゼリーなどいかがですか?」

「そうね。……くだものとか……のってるやつ……」

「わかりました。頼みますね」

「……トイレ行ってくる……」


 あたしはふらふらと歩いていき、トイレに入った。


(ああ……気持ち悪い……)


 あたしは用を足して戸を開けた。サリアが受話器で注文している。


「ええ。ゼリーです。味は……薄めの方がいいかと。……ええ。……そうですね。あまり噛まなくてもいいものを……」


(……ん?)


 どこかでハープの音が聴こえる。


(廊下?)


 あたしはふらふらと歩いていく。


(外で演奏してるのかと思ってたけど、違うみたい。それにしても良い音色ね。癒されるわー)





「はい。それでお願いします」


 サリアが受話器を置いて振り返った。


「テリー」


 トイレのドアを叩いてみる。


「大丈夫ですか?」


 ……トイレから水の音しか聞こえない。戸には鍵がされてない。


「……テリー、開けますね。失礼致します」


 サリアがドアを開けた。中には誰もいない。


「……大変」


 サリアがすぐさま走り出した。


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