第23話 続く廊下
マチェットが廊下の掃除を進めていく。あたしはそれを眺める。
(慣れた手付きね。研修所でやってたのかしら。ふーん。クルーは大変ね)
マチェットが道具をカートに入れて、歩き出す。
(あ、移動だわ)
あたしもふらふらついていくと――ふと、マチェットの足が止まった。振り返ってマチェットを見ると、インカムで何かやり取りをしている。
「……横から失礼致します。マチェットです。そちら、今から向かうところでした」
『そうか。では……頼めるか』
「承知致しました」
(ん?)
「なにかあった?」
「掃除をする予定だったレストランの冷蔵庫が開かないとの連絡がきました。ついでに見てほしいと」
「あら、たいへん。げほげほっ。おきゃくさまで混まないうちにいきましょう」
「……」
マチェットが眉をひそめた。
「まだついてくるつもりですか?」
「なによ。邪魔してないし、別にいいじゃない」
「一時間は経ってます。そろそろいいかと」
「まだ気分転換したりないの」
「レストランです。衛生上とても気を遣わなくてはいけません。風邪を引かれているあなたを連れていくことは出来ません」
「マスクしてるから大丈夫よ」
マチェットが暗い目をしてアルコールをあたしに発射させた。
「ぎゃひっ!」
「そろそろ歩く病原菌だと自覚してください」
「だいじょうぶよ! ちょっとくらいなら!」
「従業員に風邪が移ったり、乗客に風邪が移る可能性が考えられます。何かあったらどのように責任を取るおつもりですか?」
「……ただ、ついていくだけよ。いいでしょ?」
「……」
「わかった。アルコールかけまくっていいから。げほげほっ」
「……」
「それにね、あたし、ほら、しゃちょーの娘だから、げほげほっ、もし、レストラン内でトラブルでもあったなら、ママに報告しなきゃ。でしょ?」
「そのトラブルを解決しに行くんです」
「解決できなかったときはあたしのでばんってことよ。おわかり? げほげほっ!」
「……唾から菌が飛び散る事があります。極力喋らないようにお願いします」
「わかった。いきましょう、げっほげほ!」
「はあ……」
諦めて溜め息を吐いたマチェットが大きな掃除用カートを押しながら、あたしは隣でふらふら歩きながら、連絡のあったレストランへと向かった。
辿り着いたレストランを見て、その華やかさに思わずあたしの足が止まる。
(……キラキラしてる……)
看板には、ゴージャスなレストランと書かれている。マチェットがレストラン担当のクルーに声をかけた。
「ああ、ご苦労様! 待っていたよ! ……そちらの方は?」
「社長の娘様です。……開かなくなった冷蔵庫の他、トラブルが無いか確認したいとのことです」
「おお、それはそれは。ご令嬢様。わざわざありがとうございます。わたくしめがご案内いたします! どうぞ!」
荷物になる掃除用カートは店内の端に置き、厨房へと入る。あたしの目がちらっと時計に向けられた。10時45分。両開きのドアを開け、開かなくなった冷蔵庫が置かれた倉庫に入る。
「さっきは開いたんだけど突然開かなくなって困ってたんだ。頼むよ」
「承知致しました」
ドアが閉められる。
マチェットがまず、冷蔵庫を素手で開けようとしてみる。しかし、やはり開かない。何かが突っかかっているようだ。ベルトのポーチから工具を出し、ドアそのものを外そうと作業を始めた。
(……寒い)
冷蔵庫もあるせいか、倉庫の温度を下げているらしい。あたしは鼻水をすすった。マチェットの作業を見るのに飽きて、倉庫内を眺め始める。
(……ふーん)
ドアの向こうでは沢山のコックが料理をしている。しかも、この部屋の隣にはまた別の倉庫がある。そしてその隣にも、また別の倉庫が存在する。
(食品管理に衛生管理。徹底してるわね。流石だわ)
ちらっとふり向くと、マチェットが苦戦している。
「ぐすっ、マチェット、どう?」
「……時間がかかりそうです」
「寒いから出ていい?」
「構いません」
「はやくしてね。店のなかでまっててあげるわ。げほげほっ」
「……」
(はあ。寒い寒い。温かい紅茶でも頼もうかしら。はー。寒い寒い)
あたしは倉庫のドアを開けた。
(‘ω’ っ )3
赤い絨毯が敷かれた廊下が続いている。
あたしはきょとんとした。
(ん?)
後ろを見ると、冷蔵庫の前でマチェットが苦戦している。
(あれ?)
あたしはもう一度振り向いた。赤い絨毯が敷かれた廊下が続いている。厨房は存在しない。
「マチェット」
「はい」
「ちゅうぼうが消えたわ」
「……」
マチェットがあたしに振り向いた。あたしは廊下に指を差した。マチェットが瞬きした。そこには、ただ廊下が続いている。
「……マニュアルを失礼」
マチェットが冷蔵庫から手を離し、ジャケットの内ポケットからマニュアルを取り出し、開いてみる。しかし、倉庫の仕組みまでは書いてなかった。マチェットは表情を変えることなく、マニュアルをしまった。
「変なボタンを押しませんでしたか?」
「あたしを物がわからないこどもだと思ってない? げほげほっ、なにもさわってないわよ」
「……」
「ちゅうぼうが廊下になる仕組みなんてきいた?」
「いいえ」
「へやが動くような音もしなかったし、げほげほっ、さっきまではまちがいなくちゅうぼうだったわ」
しかし、そこには赤い絨毯が敷かれた廊下が続いている。
「マチェット、冷蔵庫は開いた?」
「いいえ」
その瞬間、倉庫の照明が消えた。一気に室内が暗くなる。あたしとマチェットが目を合わせた。
「……先にランプをもって来たほうがよさそう」
「……そのようですね」
「げほげほっ。出ましょう。ここ、さむくていや」
あたしとマチェットが廊下に出た。しかし、何度見てもいた場所には倉庫があり、ここは廊下である。
「マチェット、ここどこかわかる?」
「……マニュアルを失礼」
ジャケットの内ポケットからマニュアルを出した。地図の載ったページを開いてみる。しかし、この真っ直ぐな廊下の場所は見当たらない。マチェットは表情を変えることなく、マニュアルをしまった。
「わかりません」
「インカムでだれかにきけない?」
「……インカム失礼致します。マチェ……」
マチェットがきょとんとした。
「……?」
マチェットがボタンを押した。
「……」
マチェットがインカムの機械をベルトのポケットから出した。あたしは嫌な予感がして眉をひそめる。
「どうかした?」
「電池切れのようです」
「……電池持ってないの?」
「はい」
「……今度から予備の分を持つようにして」
「申し訳ございません」
(使えないわね……)
あたしはぐるりと廊下を見た。
「むこうに曲がり角があるわ。まずは歩きましょう。ランプはどうせ備品庫でしょ?」
「仰る通りです」
「ひろい船だもの。げほげほっ。こんな場所もあるのよ。どこかに地図もかざってるだろうし、階数も書いてあるはずよ。ずびっ。いきましょ」
「……あなたも来るのですか?」
「ろうかでまってろっての? げほげほっ。あたし風邪ひいてるのよ。たおれたらどうするの?」
「……」
「ほら、歩く歩く。サボりなんて許さないわよ」
「……かしこまりました」
あたしとマチェットが赤い絨毯の廊下を歩き出す。奥まで行くと曲がり角があり、曲がって進む。また曲がり角があり、曲がると、しばらく行って曲がって行って曲がるを繰り返す。目が回ってきそうだ。そのまま歩き続けると、古びたドアがある廊下に出た。
(ん。何あれ)
あたしはドアを見つめる。マチェットが通り過ぎる。あたしもマチェットの後ろをついていく。角を曲がる。古びたドアがある廊下に出た。
(あ、同じドアがあるわ)
あたしはドアを見つめる。マチェットが通り過ぎる。あたしもマチェットの後ろをついていく。角を曲がる。古びたドアがある廊下に出た。
(あら、また同じのだ)
あたしはドアを見つめる。マチェットが通り過ぎる。あたしもマチェットの後ろをついていく。角を曲がる。古びたドアがある廊下に出た。
「……」
あたしは歩き続けるマチェットを引っ張った。
「マチェット」
「はい」
「あたしたち、さっきから同じ廊下に来てない?」
「……」
「このドア、何回も見てるわ」
ドアに指を差す。
「どこかのアトラクションのなかかもしれないわよ。迷路みたいな場所、あったかしら?」
「存じ上げません。マチェットはアトラクション担当のクルーではございませんので」
「あのへやになにかあるかも。げほげほっ。あけてみて」
「かしこまりました」
マチェットがドアをゆっくりと開けてみた。鍵はかかってないようだ。中は暗く、ぼろぼろで、ただ広さだけはある物置のような部屋だった。
(何のための部屋?)
風邪を引いててもわかる。カビ臭い。
(気味が悪い場所ね)
マチェットが中に入り、室内を見回した。あたしも中に入ってみる。
「げほげほっ。ほこりくさい。マチェット、なにかある? スタッフルームにつながるドアとか、別の部屋につながるドアとか」
「いいえ。特に何もないようです」
「んん……」
目を凝らしてみるが、暗くてよく見えない。
(でも、何もないなら、しょうがない)
「……進んでみる? ずびっ。部屋を見たら、廊下がくるってまわって、べつの道がひらかれるーなんて仕掛けかもしれないし。……くしゅん!」
「……。さようですね」
「げほげほっ」
マチェットが先に廊下に出た。あたしも廊下に戻ろうとして――ふと、マチェットが部屋のドアに振り返った。
「ん?」
(ん?)
あたしもきょとんとしてドアを見た。その直後、ドアがぱたんと閉まった。部屋に明かりがなくなる。
「……」
あたしは数歩歩き、ドアを叩いた。
「マチェット、あけて」
「開きません」
「げほげほっ。冗談やめて」
「開きません」
少し下の方からドアノブが動く音が聞こえる。
「あなた、からかってる?」
「あなたが扉を押さえているのでは?」
「そんなわけないでしょ」
がちゃがちゃ。
「……え? ほんとうにあかないの?」
「変なところを触ってませんか?」
「たたいただけで、今はなにもさわってないわ」
がちゃがちゃがちゃ。
「……あなた押してない? 引いてみたらあくかも」
がちゃがちゃがちゃがちゃ。
「……げほげほっ。工具でなんとかできない?」
がちゃがちゃがちゃがちゃがちゃ。
「……ねえ、うそでしょ?」
「……」
ドアノブから音が消えた。
「開けられそうなものを持ってきます」
「待って!!!!!!!」
あたしは真っ青になってドアに貼りついた。
「マチェット! げほげほっ! あたし! げっほげほ! 暗くてじめじめしたところ駄目なの!! しかも!! げほげほ!! ここ、ちょっと湿っぽいの!!!」
「見つけたら戻ります。それまでここで待機を」
「待って! マチェット、げほげほ! そうだわ! 冷静になって! げほげほ! いっしょに考えましょう! なにか、まだやれることがあるわ! ね!?」
「……」
「え? マチェット?」
「……」
「げほげほ! マチェット!!!!????」
「曲がり角の先に別の道がありました。行って何かないか確認してきます」
「いい!! ここにいて!! 置いていかないで!! げほげほ!!」
「すぐ戻ります。お待ちください」
「まって!! マチェット!! いや!!」
「……すぐ戻ります」
「ねえ、あなた男でしょ? がーんとかいって、ドアをぶち破ったり」
「出来ません」
「男なら!」
「出来ません」
「蹴ったり、力づくで!」
「そんな筋肉は持ち合わせていません」
「使えないわね!!!!!!」
「何か持ってきます。なので、お待ちを」
「……もどってくるんでしょうね?」
「……」
不安になって訊くと、マチェットがドアの下の隙間から何かを投げてきた。……腕時計だ。
「五分以内に戻ります」
「五分すぎたら?」
「クルーは時間を守ります。五分以内に一度戻って進捗をお伝えします」
「……ずびっ。わかった」
「それと」
マチェットがもう一つ何か投げてきた。……マッチだ。
「床に落とさないようにお気をつけください」
「……ぐすっ、……ありがとう」
「では、行って参ります」
マチェットの足音が遠くなっていく。あたしは一人残される。
(嘘でしょ。最悪……。暗い……。じめじめしてる……。しかも、ちょっと湿っぽい……)
あたしは手をぱんぱん叩いた。
「げほっ、ドロシー!」
来ない。
(……役立たずが……)
窓もない。明かりもない。あたしは辺りを見回してみた。ああ、やっぱりやめておこう。お化けが出そう。
(……いや、お化けはいないはず……。だって、出来立ての船だもの)
もう一度辺りを見回す。目が慣れても暗くて何も見えない。
(……そうだ。ランプがどこかについてるはず。電源のスイッチがあるはずだわ)
あたしはドア付近の壁に手を這わせた。しかし、何もない。あら、普通ここら辺にあるはずなのに。いてっ。なんか踏んだ。でも暗くて何も見えない。あ、なんか蹴った。なになに? 暗くて何も見えない。マッチを使おうかしら。あたしはドアの下の隙間から漏れる明かりを頼りにマッチをつけてみた。火が灯る。
(ああ、明かりだわ。……火って……こんなに温かいのね……)
あたしは目を瞑った。
(ああ、温かい。家のベッドを思い出すわ。もう一度家に帰りたい)
火が消えた。
(あ、消えた)
あたしはもう一本マッチをつけた。火が灯る。
(ああ、温かい。十二月に食べた七面鳥を思い出すわ。……あ、なんか吐き気がしてきた。今、食事はいらない……)
火が消えた。
(あ、消えた)
あたしはもう一本マッチをつけた。火が灯る。
(ああ、温かい。ばあばを思い出すわ。あまり覚えてないけど、ばあばの腕はとても温かかった気がする)
――テリー。
(優しい声だった気がする)
あたしは目を閉じた。
――テリー、忘れちゃ駄目よ。私たち一族が、この島に守られていること。
――私たちは、この島が無ければ生きていけない。
――この島から離れてごらん。
たちまちみんな、衰弱して、死んでしまうよ。
火が消えた。
(……そういえば、ばあばは島の話が好きだったわね)
あの島は呪われた島と言われているけど、ベックス家にとっては命の源だっけ?
(そりゃ、稼ぎが入るんだもの。命の源よね)
あたしは腕時計を見た。
(これ、針動いてる? 全然針の音がしない。これも電池切れてるんじゃないの? というか、壊れてるんじゃない? これ)
マチェットは五分以内に戻ってくるって言ってたけど、本当に戻ってくるのかしら。
(ドロシーは来ないし、暗いし、じめじめしてるし、しかも、ちょっと湿っぽいし……)
もう一本マッチに火をつけ、辺りを見回してみる。
(何か、明かりになるものないかしら)
男の死体が置かれていた。
「……」
途端に、体が硬直したのがわかった。
「……」
あたしは動けない。目の前に、死体がある。
「……」
あたしは息を止めた。
「……」
火が消えた。
「っ」
腰が抜けて、その場に座りこんだ。
(ま、マッチ……)
手が震える。
(マッチ、マッチ……!)
マッチの箱を握り、ドアの前に逃げていく。
(ひ、ひい……!)
あたしはドアに貼りついた。
「ドロシー!」
叫ぶ。
「ドロシー!」
来ない。
「ま、マチェット、早く!」
来ない。
「ドロシー!!」
来ない。
「早く、ここから出して! げほげほっ! だれか! だれか!!」
誰も来ない。
「たすけて! たすけて!!」
ドアを乱暴に叩いた。
「早く! げほげほっ! 早く来て!!」
体がぶるぶる震え、あたしはドアの前から動けなくなってしまった。うずくまって、小さくなって、頭の中で考える。
(大丈夫。大丈夫。あたし、冷静に。暗くてよく見えなかったのが不幸中の幸いよ。マチェットはちゃんと戻ってくる。それまで耐えるのよ)
かたんと音が鳴った。
「ひいっ!」
あたしは身を縮こませた。
(寿命が縮む!!)
ああ、こんな事なら気絶したい。意識が朦朧として、もう駄目って気絶するの。その方がなんか良い気がする。よし、ここであたしは気絶する事にしましょう! いける! だってあたし、体調が悪いんだもん! いけるわ! よし! ……。……。
(死体が目の前にあるのに、こんな薄暗いじめじめした所で寝ろっていうの? ふざけんじゃないわよ!)
ああ、もう嫌! あたし死んじゃう!! もうやだ! 家に帰りたい! ドロシーは役立たずだし、マチェットは戻ってこないし、あたし、世界一可哀想!! ……待って? これは、……手汗!? あたし、汗かいてる! 汗が出ると、匂いが出るでしょ! あたし、今、香水持ってないのよ!? あれ、あたし、今日お風呂入ったっけ!? あーーーー! もうやだ! あたし帰りたい!!
(……匂い?)
はっとした。
(匂いがしない)
死体であれば、鼻がひん曲がるような悪臭が漂うはずだ。昨夜もそうだった。
(鼻が詰まってるから? いや、でも昨夜の二体の死体からは匂いを感じたわ)
あたしはもう一度マッチに火をつけて、勇気をもって男の死体に振り返ってみた。そして、見たくないけど、じっと観察してみて――気付いた。
(……待って。これ、死体じゃない)
死体の形をしたマネキンだ。
「けっ!!」
あたしはマネキンを蹴った。
「おどろかしやがって! げほげほっ! さいてい!」
ここ、アトラクションエリアにあるお化け屋敷なんだわ! きっとそうなんだわ!
(クソが! 気味の悪いもの置きやがって!)
マッチの火が消えないうちに部屋の中を見てみる。そしたら、なんてこと、こんな所に使えそうなランプが置いてあるじゃない!
(いけるかしら)
ランプの扉を開けてマッチで火を灯してみる。あ、使えた。部屋がほんの少し明るくなる。マッチの火を消して、ランプの明かりで部屋を見回せば、マネキンの横に長方形の大きな箱が置かれているのが見えた。
(何これ。これも置き物?)
蓋を開けてみると、紙が一枚入っていた。
(ん? 何これ)
拾って見てみる。
(……)
楽譜だ。
(なんで楽譜なんか入ってるの? しかも、一枚だけ)
手書きで書かれた楽譜を眺めていると――突然、ランプがばちばちと点滅を始め、あたしは振り向いた。
(ひっ! 今度は何!?)
ランプが消えた。
「うわ、ちょっ……。さいあく……。つかえな……」
ランプは消えてしまった。
「さいてい……げほげほっ」
咳き込んだ瞬間、ドアが強く叩かれた。
「ひゃっ!」
あたしは驚いて、箱の中に尻もちをついた。
「あだっ!」
ドアが叩かれる。
「マチェット! 叩く前に、声を出しなさいよ! 声を!」
ドアが叩かれる。
「……マチェット?」
ドアが叩かれる。
「……」
ドアが叩かれる。
「……。……」
――何か、違和感を感じる。
(なんだか……)
あの時を思い出す。
六年前、誘拐されるはずだったあの部屋で、キッドと階段を駆け下りてくる中毒者を待っていた、あの僅かな時間を。
「……。……。……」
なんだか、なんとなく、すごく嫌な予感がして――あたしはゆっくりと腰を下ろし――カサ、と紙の音が鳴り――慌てて楽譜を折ってポーチバッグに詰めてから――箱の蓋を閉めた。視界が真っ暗になる。
「……。……。……。……」
静かに呼吸をすると、部屋のドアが叩かれた。
どん! 叩かれた。
どん!! 叩かれた。
どん!!! 叩かれた。
どん!!!!
どん!
どん!!
どん!! どん!!
どんどん!!
どんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどんどん!!!
「げほげほっ」
はっとして、口を押さえ、じっとした瞬間に――ドアが破壊された音が響いた。
どおおおおおおおおん!!
「……」
あたしは瞬きをしながら、じっとする。
ぺちゃりと、何かが聞こえた。
ずるずると、何かを引きずる音が聞こえた。
あたしの耳に入ってくる。
何かが部屋を歩いている音が聞こえる。
それはマチェットじゃない気がした。
「……」
何かを引きずらせている。
「……」
濡れた何かの音が聞こえる。
「……」
何かが棚の方へ歩いた。
何かが移動した。
何かがマネキンを見つけた。
突然、叫んだ。
きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!
あたしは動かず、じっとする。
きゃあああああああ!! ぎゃあああああああ!! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!
箱の横に置かれたマネキンに、何かが食らいついた音が聞こえた。
箱が揺れる。濡れた音が聞こえる。ガタガタと揺れる度に、あたしの体がガタガタと震えた。何かが箱を叩いた。音が振動する。あたしは咳をしたくなった。あたしは必死にこらえた。咳を出したい。駄目、出そう。出したらまずい気がする。でも、駄目。出そう。げほっ。
「っ」
その瞬間、何かが息を吸い、叫ぶのをやめた。あたしはサッと血の気が引いて、黙った。
「……」
何かが箱に近づいた。
「……」
あたしの側に、何かがいる。
「……」
通り過ぎた。
「……」
あたしの足が微かに動いた。
――きい。
「っ」
あたしは息を呑んだ。何かが振り返った。ずるずると何かを引きずらせ、また叫んだ。
きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!
そして、また何かに噛みつき、咀嚼する音を響かせた。
きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!
叫び、またずるずると何かを引きずらせた。気配はどんどん遠くなっていく。音がどんどん遠くなっていく。
音が、消えた。
「……」
あたしは心臓を押さえ、喉の奥が苦しくなって、咳を出した。
「げほっ、げほっ」
苦しい。
「げほっ、げほげほっ」
その瞬間、大きな足音が聞こえた。
「っ!」
乱暴に箱の蓋が開けられた。
――殺される!
体をぎゅっと小さくすると、肩を叩かれた。
「遅くなりました」
――あたしはそっと瞼を上げた。その先には――ランプを持ったマチェットが不愛想な顔で、あたしを見下ろしていた。
「……ここで何を?」
「……」
「……」
「……」
「……いつまでそこに入っているつもりですか?」
マチェットが手を差し出した。
「行きましょう」
「……げほげほっ、あの、マチェット」
あたしはマチェットの手を掴み、重たい腰をぐっと上げた。
「確認したいんだけど……」
「はい」
「ドアを開けたのは……あなた?」
「いいえ。壊されてました」
顔を向ければ、開かなかったドアが破壊され、部屋の中に廊下からの灯りが届いていた。箱の横を見ると、粉々に砕かれたマネキンの破片が散らばっている。マネキンは、頭と足を残し、あとは空っぽになっていた。
「……」
「探しましたが、備品庫がどこにありませんでしたので、一度戻ってきました。そしたらあの通り」
「……」
「誰か来られました?」
「……ここ、気味が悪い。げほっげほっ。はやく出ましょう」
あたしは箱から出た。
「マチェット、他にへやはあった?」
「いいえ。廊下が続いていて、扉が見当たりません」
「……同じろうか?」
「マチェットは全ての廊下が同じように見えます」
「……一度もどってみない?」
マチェットと暗い部屋から出る。
「ほんとうに気味が悪いのよ。げほっ。一回そうこに入って、ドアを同じようにあけてみたら、ちゅうぼうにもどったりしないかしら」
「……」
「ためしてないでしょ?」
「……かしこまりました。戻りましょう」
「げほげほっ」
(アトラクションにしては、凝りすぎてない?)
この胸騒ぎは何?
(さっきの、なんだったの?)
「いきましょう」
「はい」
あたしとマチェットが来た道を戻っていく。赤色の絨毯が延々と続いている。扉はない。綺麗な絵画が飾られている。あたしとマチェットの足が動いていく。いつまでも倉庫に辿り着かない。
(まだ?)
廊下を進む。
(ここどこ?)
地図にない場所。
(寒気がする)
足を動かす。
(怖い)
倉庫に辿り着けない。
「……マチェット、げほっ、さっきからずっと歩いてるわよね?」
「……」
「……一本道よね?」
「……」
マチェットの足が止まった。
「マチェット?」
「もう一度、確認します。マニュアルをしつれ……」
「はぁっ!」
マチェットが内ポケットに手をやろうとした瞬間、角からふくよかな男が現れた。クルーではなく、乗客だ。あたしとマチェットがちらっと見た瞬間、目が合った男が必死に叫んだ。
「た、助けてくれ!」
あたしとマチェットがきょとんとする。
「追われてるんだ! すぐそこまで来ていて!」
男が横に振り向いて、顔を青くさせた。
「ひ、ひい! やめろ! 来るな! 化け物!」
男が走り出した。
「助けてぇ!」
男の横から、影が現れた。
「ひゃあ!」
男の足が掴まれて、男が床に転んだ。
「た、た……助けて!」
あたし達に手を伸ばす。マチェットが眉をひそめた。
「たすけ……」
それが男の尻に噛みついた。
「ぎゃああああああ!」
尻の皮膚が噛み千切られる。
「たすけ、助けて!」
男が曲がり角の奥に引きずられた。
「嫌だ! やめろ!」
引きずられていく。
「嫌だああああああああああああああああああ」
向こうから咀嚼する音と、男の悲鳴が聞こえる。悲鳴はどんどん小さくなっていき、やがて……聞こえなくなる。咀嚼音だけ。何かを、噛み千切り、食べる音だけ。音が響く中、マチェットがあたしの肩を掴み、ゆっくりと足を後ろに引いた。
「……」
食べる音がしている間に、ゆっくりとゆっくりと後ろに下がる。
「……」
一緒に、足を揃えて、ゆっくりと、確実に後ろに下がる。
「……」
廊下を、ゆっくり、ゆっくり下がる。
「……」
曲がり角が来ない。
(何かいる)
前に見える曲がり角に、
(何かいる)
後ろに、曲がり角の壁があるはずなのに、
(いつまで経っても、後ろに下がり続ける)
赤い絨毯に血が広がる。
(ここはどこ?)
何かいる。
(ここ、どこなの?)
ハープの音が聴こえた。
「っ」
あたしとマチェットが目を丸くして振り返った。真っ直ぐ行った先に、ハープが置かれていた。
(あ)
その後ろには、倉庫のドアがある。
「マチェ……」
「っ」
マチェットが即座にあたしの口を手で塞いだ。しかし、何かがはっと息を呑む音が聞こえた瞬間、廊下を轟く叫び声が曲がり角から発せられた。
きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!
「っ」
マチェットが息を呑み、すぐにあたしの手首を掴み、全力で走り出した。
きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!
後ろから何かが近付いてくるのを感じる。
きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!
ずるずると引きずっている音が聞こえる。
きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!
ハープが綺麗に鳴り響く。
きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!
マチェットが足を速めた。
きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!
あたしの肩を抱き、共に真っ暗な倉庫に飛びこんだ。
ハープが鳴り響く。
両扉が硬く閉じられた。
(*'ω'*)
「「……」」
マチェットが呼吸を乱しながらゆっくりと上体を起こした。あたしもむくりと起き上がる。
「「……」」
何かが違う。
倉庫の照明がついている。
腕時計の針が動いている。10時50分。
マチェットのインカムが光った。電池が満タンである。
それと、――変な臭いがする。
倉庫の両扉が開いた。
「っ!」
びくっ! とお互い身を縮こませてドアを開けた人物を見上げると、――さっきのレストラン担当のクルーがいた。
「どうだ? 開いたか?」
黙りこんで小さくなるあたし達を見て、クルーがきょとんとした。
「……お二人共、ここで何を?」
あたしとマチェットが顔を見合わせた。クルーが冷蔵庫を見る。
「まあ、いいや。それで、作業はどうだ? 冷蔵庫は……」
クルーが言葉を言い終える前に、勝手に冷蔵庫のドアが開いた。
「おお! 助かるよ! さっきはぜんぜん開かなくて困ってたんだ」
クルーが冷蔵庫の前に歩き、――すぐに顔色を変えた。
「ひっ!!」
クルーが腰を抜かして、悲鳴を上げた。
「うわあああ!!」
声を聞いたコックが厨房から歩いてきて、倉庫に顔を覗かせた。
「うるさいぞ。どうした?」
「人が!」
クルーが叫んだ。
「人が入ってる!!」
頭と骨と足を残し、あとは全て食い千切られた男が、冷蔵庫の中で保管されていた。
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