13

「もう出ようか」

そう切り出したのは笠奈の方で、その時はお互い無言のまま10分は過ぎていた。途中で笠奈がトイレに立ったところでビールに口をつけたが、すっかりぬるくなっていた。店内にはジャズが小さな音で流れている。そこは以前笠奈に催眠術をかけられた店だった。あれからまだ半年も経っていないのに、何年も前の出来事に感じる。


笠奈と兼山の関係については今までも何度か疑っていたから、今更聞いても意外な感じはなかった。しかしショックではある。私は兼山に抱かれる笠奈の姿を想像した。それは現実にあった出来事だった。私がミキちゃんの授業を見ることも、彼らがベッドの中で決めたのかもしれない。


車で来ていたので、帰りは弁当屋の駐車場まで笠奈を送った。ドアを閉めたり鍵を回してエンジンをかける音が、いつもより車内によく響いた。とっくに営業を終えた弁当屋は、当然ながら照明が消え、街灯が店の屋根を照らしている。屋根と言っても看板を兼ねた布製のテントで、春風に吹かれはたはたと揺れている。酔いも完全に覚めた。


私は「それじゃあ」と声をかけたが、笠奈はいつになっても車を降りようとしない。私は振られた男の権利として、黙って椅子にもたれているのに、ちっとも察しようとしない。ここまで空気を読まない女だっただろうか? 


私は改めて「じゃあね」と声をかけた。若干語尾を強め、苛立ちを伝えてみた。笠奈は「うん」と返事はしたが、微動だにしない。目線はカーステレオのあたりに固定されている。青い液晶には、現在時刻が表示されている。10時25分。


「私さ、最低だよね」

笠奈が前を見たままつぶやいた。そんなことないよ、とでも答えればいいのだろうか。私は笠奈を混乱させ、傷つけてしまったのだろうか。だからと言って私はやはり笠奈に同情する気にはなれない。今更不倫の言い訳なんか聞きたくもない。笠奈が最低なのは疑いようがない。「最低」と宣言することが最低だ。

「兼山のことが、好きなんでしょ?」

「うーん。好きじゃないと、思う」

「じゃあ、なんで付き合ってんの?」

「なんかさ、ベンツに乗ってみたかったんだよね」

何の冗談かと思ったが、笠奈の表情は笑っていない。兼山のベンツの銀色が頭の中で光を放つ。いつも塾の隣の月極駐車場に停められている。駐車場は地面は砂利で、走り出す度に砂埃が立つ。車の助手席には頭のおかしなな女が乗っていて、シートの座り心地や内装の高級感、後部座席に備え付けられた救急箱なんかにため息をついている。やってらんないよ。

「お前さ、頭おかしいんじゃねーの」

思い切り憎しみを込めたつもりなのに、何故か語尾で笑ってしまった。あまりにくだらな過ぎるのがいけないのだ。

「だって、乗りたかったんだからしかたないじゃん」

「だったらディーラーでもなんでも行けばいいじゃんかよ」

「やだよ。行ったって場違いなだけだもん」

「じゃあ『乗せてください』って頼むとかさ」

「そうしたら食事とか誘われちゃったんでしょ?」

「断るとかできるでしょ? なんなの? 本当意味不明」

「食事くらいいいかなって思うじゃない? しょうがないじゃん」

「どんだけ無防備なんだよ、もういいよ、さっきの告白は取り消し、もう忘れて」

取り消し、忘れて、と言いながら私はうっかり泣きそうになった。私は笠奈のことがどうしようもなく好きだった。笠奈じゃなきゃダメなのだ。笠奈といるときがいちばん楽しい。軽はずみな言動や妙に上から目線なところも、すべて愛おしい。私は笠奈のことをすべて受け入れ、すべてを理解したいと思った。だからたとえ不倫をしようが、最終的には許したいと思ってしまう。


「喉乾いた。アイス食べたい」

掛け合いが一段落したところで、笠奈が言い出した。私はアイスなんて全く食べたくなかったが、そこから5分くらい車を走らせてセブンイレブンへ行き、笠奈が食べている姿を黙って眺めるのも馬鹿馬鹿しいので自分の分も購入し、結局笠奈の分まで払ってしまった。ハーゲンダッツの、それもクリスピーの高いやつだった。笠奈は店員の前なのに大はしゃぎで私に礼を言い、そういえばさっきまで酒を飲んでいて、この女は酔っているんだと思った。目の前の店員は、私たちの事を恋人同士だと思って見ているに違いない。


「あのさ、ちょっとだけ待ってもらっていい? ちゃんとはっきりさせてから、返事するから」

アイスを食べ終わったところで、笠奈が言った。先に食べ終わった私は、駐車場の車止めに腰掛けていたので、自然と笠奈を見上げる体勢になった。笠奈は私の肩に手をかけ、照れくさそうにしていた。

「わかった。待つよ」

「ありがとう。あと、告白してくれて、ありがとう」



3日後の夜中に笠奈から電話があり、私も君の事好きみたいと言われた。とりあえず布団を蹴飛ばしてベッドから降りた私は、電灯の紐を引っ張って明かりをつけ、その紐にしがみついたままかろうじて返事をした。笠奈はそんな私に構う事なく、とりあえず兼山さんと別れるから、そうしたら付き合ってほしいと言われた。笠奈の声は、落ち着き払っていて、そのせいで保険の手続きの説明でも受けているようだった。私はかすれた声で「わかった」と答えた。寝起きだったからそんな声になったのだが、完全に覚醒していてもまともな声が出せたかはわからなかった。

「寝てた?」

最後になって笠奈はようやく聞いてきた。改めて時計を見ると、3時10分前だった。

「寝てたろ、どう考えても」

「ごめんね、でも、すぐ伝えたかったから」

こんな時間になった理由についてあれこれ考えが浮かんだが、深くは考えないでおくことにした。



とりあえずミキちゃんには報告しておこうと、4月の最初の授業で話をした。笠奈が文系科目へ復帰し、ミキちゃんは既に笠奈の授業を一度受けている。私は引き続き理系科目を受け持つことになった。兼山の部分だけは”今の彼氏”と置き換えて、あとはほぼ起こったことをそのまま伝えた。兼山と笠奈の関係をミキちゃんに伝えるのは、兼山だけでなく、笠奈にとっても致命的だ。


「やったじゃん」

ミキちゃんはいつもの黄色いシャーペンを握りしめながら大喜びしてくれた。この、思い切りタメ口な感じが我が事のように感じてくれてるみたいで、私の心も弾む。

「まあ彼氏とうまく別れられたらだけどね」

「そんなの関係ないよ」

「確かに関係ないけど」

「いいないいな。あと、ハーゲンダッツもいいなー」

休憩が一瞬で終わり、私は図形問題のレクチャーを始めるが、少しでも言い淀むとすぐに「今笠奈先生のこと考えてたでしょ?」とからかわれる。そんなわけねーだろ、と否定はするが、そんな風にムキに否定するとますます怪しいよな、と私の方が思ってしまう。私は浮かれているのかもしれない。結局ミキちゃんにからかわれてまともな授業ができず、私は宿題の量をいつもより増やして仕返しをしてやることにした。当然ミキちゃんは泣き顔を見せるが「だってミキちゃんの成績下がったら笠奈に怒られるし」と言うと渋々納得した。


玄関に出た所で兼山の「さようなら!」が聞こえたが、私は振り向きもせずにすぐにドアを開け、ミキちゃんを外に出した。悪い大人を目にさせてはいけない。表に出ると、隣の薬品工場の桜が満開になっていた。そこを笠奈と歩いたら気分がいいだろうと思った。それは今なら簡単に叶うことだった。笠奈の姿はない。アメリカに行く前は笠奈と2人でミキちゃんの送り出しをやっていたのに、今日は出てくる気配もなかった。単に忘れているだけか。ミキちゃんも全く気にする様子もなく、しきりに笠奈とのデートはどこへ行くべきかについて私に提案してくる。ディズニーランドとか。ミキちゃんには桜の存在も目に入っていないようだ。


ミキちゃんのテンションが下がりそうもないので、私は帰り道を途中まで送ることにした。家までは歩いて30分以上かかると言うので、途中ののコンビニまでということにした。そこまでミキちゃんは自転車を押して帰る。


私の予想通り、夜桜の下を歩くのは気分が良かった。ミキちゃんには悪いが、ここを笠奈と冗談を言い合いながら歩けばもっと楽しいだろうと思った。話に夢中になるミキちゃんは、桜について全く触れない。やはり、まだまだ若いというか幼いと思ってしまう。グレーのコートは少しサイズが大きく、また季節ともミスマッチだ。


「ていうか、そっちはどうなんだよ?デートとかどこ行くの?」

すっかり調子づいた私は、会話の合間を狙って聞いてみた。私絡みの話はいい加減飽きてきたところだ。

「あー、別れちゃったよ、けっこう前だけど」

ミキちゃんは前を見たまま答えた。「けっこう前」のせいか、気まずそうな感じはない。

「まじで? いつ?」

「だから、けっこう前。三学期始まってすぐ」

「なんでまた」

ミキちゃんが吹き出す。

「ていうか先生テンション下がり過ぎ。ほら笠奈先生の顔思い浮かべて」

そのうちに予定のコンビニに到着し、私はミキちゃんにホットミルクティーを買う。ミキちゃんは外のポストの前で待っている。ハーゲンダッツを買おうとしたら「寒い」と断られてしまった。

「妹の話したんだ、その人に」

ミルクティーを渡すとミキちゃんは話し出した。

「そしたら嫌な顔されちゃって。なんか一気に冷めちゃって。家に帰って『別れて』てメールした」

ミキちゃんは笑い話をするみたいに言った。当然ながら私の頭は一気に沸騰し、そんな男別れて大正解とか最低すぎるだろそいつとか、そういう男ばかりじゃないから気にしないでとか、そういうセリフが同時進行でポコポコ出てくる。私をもう2~3人増やして一気にまくし立てたい気分になる。


だが、ミキちゃんはそうなることはわかっていて、だからぎりぎりになって切り出したのだ。すぐに「それじゃあ先生、また来週もお願いします。紅茶もごちそうさまです」と頭を下げた。大げさ過ぎる頭の下げ方に、さすがの私もなんとなく察して、うん、気をつけて、と手を上げた。

「先生と桜の下でお散歩デートしたこと、笠奈先生に言ったら怒られちゃうかな? 今日のことは黙っていようね」

去り際にそんな事を言ったミキちゃんはいつもの感じで、私も「何言ってんだよ」とすぐに返したが、既にミキちゃんは自転車を漕ぎ出していて、私の言葉は届かなかった。


大きな風が吹いて桜の花びらが何枚か散った。

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