12

2月の中旬から笠奈のアメリカへのホームステイが決まり、その間、ミキちゃんの授業を見ることになった。笠奈が受けもっていた受験生は2月の最初に第一志望に合格した。もしその子が受験に失敗し、二次募集の学校を探さなくてはならない状況になったとしたら、笠奈はどうしたのだろう? でもそんなことは、初めから起こる可能性ゼロ、と言った雰囲気だった。世界は笠奈を中心に回り、そして笠奈は胸を張って自分の夢をひとつ叶えた。


本を貸してほしいというので、村上春樹と吉本ばななとサリンジャーを貸した。「ライ麦畑でつかまえて」だ。「ノルウェイの森」の中で主人公ワタナベが「ライ麦畑」の主人公ホールデンに喋り方が似てると言われるシーンがある。帰ってきたら、そのことについて話そうと思った。笠奈は「飛行機で読むね」と言った。代わりに私は笠奈に絵はがきをリクエストした。「わかんないけど、送れたら送るね」と笠奈は答えた。妙に優しい口振りだった。


残された私は、ミキちゃんの授業のコマ数が増えた。だが元の生徒の進路が決まったので、物理的負担はなにも変わらない。それなのに、何故か違和感のような、心に引っかかるものを感じていた。最初はそれを、笠奈が国内にいないことによる空虚感ととらえていたが、何日経ってもその感覚を拭うことができない。3回目の授業でようやく気付いた。ミキちゃんが髪を染めている。


後ろ髪を2つに分けて縛り、ハタキの先のようになっているミキちゃんの髪が、ほんの少しだけ茶色くなっていたのだ。よくよく見なければ気付かない。「蛍光灯の加減」と言えば通るくらいの色合いだ。だが、一度そうとわかってしまえば、受ける印象はまるで変わる。垢抜けた女に見えると同時に心理的距離も感じる。漢字テストを解かせている隙にまじまじと姿を見るが、他に変化はないようだ。耳にも穴は開いておらず、純真無垢なままだ。


態度も以前と変わらない。私が最初の英語の授業のとき「さて、笠奈先生よりうまく教えられるかな?」とからかってきた。

「言っとくけど文系はスパルタでいくからね」

「きゃー」

ミキちゃんのわざとらしい悲鳴に私は安堵した。ミキちゃんとの授業の時、私は意味もなく早目に来て、テキストを机の上に並べる。それから今日はどんな話をしようかとあれこれ思案する。前の男の生徒のときはなるべくギリギリにきて、塾にいる時間を極力短くしようと心がけでいた。今は授業中の無駄な時間を少しでも減らすために、前もってできることはしておこうとしている。


「気づかなかった。髪染めたんだね」

「あ」

両手で頭を覆いながらミキちゃんがこちらを見る。

「なんか急に大人になっちゃったみたい」

「よくわかりましたね、誰も気づいてないのに」

「笠奈も?」

「笠奈先生が行ってから染めたんだもん」

「あ、そうか」「怒られちゃうから?」

「うーん......そうかも」

笠奈がミキちゃんに対して親ぶって厳しくする様はなんとなく想像できた。

「あいつうるさそー(笑)」

「でもさ、わたし笠奈先生のこと好きだよ、心配して言うんだと思う」

「わかるよ、俺が夏期講習で最初にミキちゃんの授業見ることになったときも、笠奈のやつすげー言ってきたもん」

「ていうか先生、「笠奈」とか「あいつ」とか恋人みたいな言い方するね、ついに付き合ったの?」

「んなわけないから。笠奈さんとは友人関係です」

ミキちゃんはきゃっきゃとはしゃぎ、さらに私を追い込んでくる。私は休憩を中止し、棚からワークを10冊くらい取り出してきて、ミキちゃんの目の前に積み上げた。

「終わらなかったら全部宿題にするから。中学生に恋愛の話は早すぎます」

「ぎゃー」


ミキちゃんの髪について、もっと話を聞きたかったがそういう雰囲気でなくなってしまった。単純にオシャレで染めたんじゃないような気がする。以前サッカー部とつき合っていると言っていたから、その彼と何かあったのかもしれない。あるいは、自閉症の妹がらみか。しかし私の目を盗んでワークを隠そうとするミキちゃんを見ながら、やはりあれこれ詮索するべきではないと思い直した。私との時間が、気晴らしとか、そんな風になればいいと思う。



笠奈が戻ってくるまでの間に、一度高校時代の友人たちと飲みに行った。会ってみると5人中3人の就職が決まっていて、フリーターは私ともうひとりだけだった。大学を出た直後は誰も仕事がなかったので、私はなんだか置いてけぼりを食ったような気がした。アルバイトをするより、定職につくほうが余程効率良く金を稼げるとも言われた。確かにそうだ。


考えてみたらミキちゃんの授業を見るのも今だけで、笠奈が戻ったきたら全教科を笠奈が見るのかもしれない。元々笠奈の手がまわらないところに私があてられたわけで、笠奈の生徒もひとり進路が決まったのだから手は空いたのだ。


私は一度ハローワークへ行ってみることにした。地元のハローワークはあまり大きなところではなかったが、中は人でごった返していた。年寄りも若いのも、子連れの女もいた。病院の待合室のような風景だった。全員がうつむきがちなところも似ている。背もたれのない固いソファーがならんでいるのも似ている。職員は面倒くさそうに求職者の相手をしている。とりあえず登録を済ませ、割り当てられた端末で求人情報を探した。そこまでに20分くらい待たされた。私はできるだけ給料の安い、事務職を検索した。給料が安ければそのぶん仕事は楽だと思ったからである。事務ならあまり人と話さずに済むとも思った。様子見と決めて行ったので、私は何枚かの求人票を見ただけで満足して帰った。玄関の灰皿の前には、顔中シミだらけの男がタバコをくわえながら、手ぶらで駐車場へ向かう私の事を眺めていた。


私が聞かされているのは、1ヶ月は笠奈の代わりにミキちゃんを見て欲しい、というところまでで、実際笠奈がいつ帰ってくるのかは知らなかった。絵はがきも来ない。現地の生活が楽しすぎて、笠奈はこのまま帰ってこないのかもしれないとか考えた。そう思っていたら、3月最後の土曜日に笠奈から電話がかかってきて、今夜飲もうといきなり呼び出された。私は突然画面に現れた笠奈の名に状況が飲み込めず、着信拒否しそうになった。笠奈は既に一週間前に日本へ帰っていた。

「だったらその時にひと声かけてくれれば良かったのに。いきなり呼び出すなよ」

「だって色々やることあったんだもん。もし暇だったら、て感じだから、用があるならまた今度でいいよ」

もちろん私は暇を持て余していた。


笠奈は若干肌が荒れてる事を除けば、特に変化はなかった。ホームステイとは何をするのか私には想像がつかないが、笠奈はすっきりした顔をしていた。一ヶ月前の受験のストレスから完全に解放され、リフレッシュできたように見える。向こうでのエピソードをいくつか話してくれたが、私がそっち方面に興味のないせいか、話の要領すらつかめなかった。まあ、でも楽しかったらしい。


乾杯をした後に、笠奈はバッグから小さな包みを出して「お土産」と言ってくれた。開けてみると、見た事もないキャラクターのボールペンだった。白熊をモチーフにしてるようだが、目がランランとして、手足が異様に細い。笠奈のセンスを疑いたくなるくらいの安っぽいデザインだ。私が何も言えないでいると笠奈は「あんまし荷物増やせなかったからさ」と言い訳した。絵はがきのことを聞くと「売っている場所がわからなかった」とのことだった。


「久しぶりだね。髪伸びたんじゃない?」

そういえば随分髪を切りに行ってない。

「生きてるからね」

「また『ライ麦畑』みたいな喋り方してる」

「読んだんだね?」

「読んだ読んだ。向こうの人も知ってたよ」

「アメリカの小説だからね」

「まだ荷物にまぎれちゃってるから。今度返すね」

「いいよ、あげるよ」

「なんで? 意味わかんない」

「俺もわかんない」


少し別の話をしてから、再び旅の話に戻り、そうそう、と言った感じに笠奈はバッグから写真を取り出した。


空とか草とか家とかアメリカ人とか、ただの旅行風景の写真だった。特に面白くはなかったが、日本との違いに驚いて見せ、笠奈を喜ばせてあげた。笠奈の写っている写真も何枚かあり、笠奈ははっきりとわかるくらいよそゆきの笑顔を見せ、それだけはおかしかった。怒るだろうから、声に出して笑ったりはしない。もっと色んなシチュエーションの笠奈が見たくたる。


写真の中には、一緒にホームステイしたと思われる日本人が何人か登場したが、1人頻繁に出てくる女の子がいた。彼女だけのパターンもあったし、笠奈とのツーショットや、外人と写ってるのもある。誰かと聞くと「ルームメイト」と教えてくれた。真ん中で分けられた黒くてストレートの髪は、両サイドの肩にかかり、笠奈よりも雰囲気が大人っぽくて品がある。肌は浅黒く、開かれたおでこには、いくつかニキビができている。笑顔の隙間から覗く歯が白い。鼻も高い。


私が一通り写真に目を通して返すと、笠奈はその内の1枚を選んで、テーブルの真ん中に置いた。正確に言うと、サラダの大皿と私の小皿の間だ。笠奈とルームメイトの2ショットだ。

「その子、瀬田さんて言うんだけど。今ね、彼氏いないんだって。そんで、君の話したらぜひ会いたいって。なんか独特で面白そうって言ってて結構盛り上がったんだよ。良かったら今度、会ってみない?」

私はゆっくりとビールを飲みながら笠奈を見て、それから再び写真の中の瀬田さんを見てみた。さっきからよく出てきた黒髪のおでこにニキビが瀬田さんだ。かわいくないことはない。その隣に写っている笠奈の顔も見てみるが、ちょうど照明が反射し、光に塗りつぶされてしまっている。どうしてこうなった。意味がわからない。

「この人に? 会うわけないじゃん」

「なんで?」

私の言い方に、笠奈は明らかに不快そうにした。「良かったら」てというくせに「良くない」の選択肢はないのだ。笠奈はどこまでも身勝手で無神経な女なのだ。笠奈は瀬田さんの容姿を非難してると受け取ったのだろう。トレードマークのファジーネーブルを持つ手に力が入っている。

「好みじゃないってこと? でも会ってみてもいいと思う。性格もいい感じだし」

「違う違う、そういうことじゃないよ」

「どういうことよ」

「わからないの? 俺が好きなのは笠奈だから」

何当たり前のこと聞いてんの?というトーンで言ってみた。笠奈の目を見て、ゆっくりと落ち着いて伝えたつもりだが、笠奈にどう見えたかはわからない。笠奈はテーブルに肘をついた体勢で固まっている。

「ていうか。今、なんて言ったの?」

「好きだと言った。愛の告白」

笠奈が目をそらす。それが、結末を暗示しているみたいで、心臓が押しつぶされそうになる。笠奈は口が半開きになっていて、何度か瞬きをした。そして肘をついて、両手で顔を覆ってしまった。指の間から、茶色い髪の毛がはみ出ている。

「どうして」

かすれた声で笠奈がつぶやく。どうしてって、好きになるのに理由なんかない。私は律儀に答えそうになるが、口をつぐむ。私は息を潜め、髪が絡まった笠奈の指先を見つめている。爪には何も塗られていない。アメリカに行ったららマニキュアを塗るのが面倒になったのだろう。

「彼氏いるって、言ったよね?」

「うん。でも、そういうのって関係ないんじゃない?」

「そうだけど」

笠奈はため息をついた。動かしているのは口だけだ。気のせいか、さっきより鼻が赤くなっている。ひょっとして泣いているのかと思い、慎重に首を動かして、目尻を覗きこむが、泣いてはいない。

ともかく、私の言葉を受けて、笠奈はハッピーにはならなかったようだ。だんだんと、笠奈を苦しめているような気がしてくる。苦しんでいるのは何故か。おそらく、私との関係が終わるからだ。気軽に声を掛け合える飲み友達。夏になったら、また悪乗りしてお台場にドライブする。しかしそれは、友達だからできたことだったのだ。私は、笠奈のことを好きになってはいけなかったのだ。


ごめん、と言おうとしたタイミングより一瞬早く、笠奈の次の言葉が発せられる。

「私の彼氏って、誰だか知ってる?」

「知らないよ」

「君も、知ってる人だよ」

「葉村?」

「ちがうよ」

「木島?」

「馬鹿じゃないの?」


兼山さんだよ。笠奈は手を下ろし、真っ赤にした目をこちらに向けながらそう言った。そんなの最初からわかっていた。

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