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年が明けて塾内の受験ムードが高まり、兼山の態度もぴりぴりしてくる。ここで結果を出せるかどうか、彼にとって正念場なのだろう。わかりやすすぎる。二階堂が成績表を机に広げた兼山に怒鳴られる場面があったが、それすらも我々に対するデモンストレーションに見えた。それなりに迫力はあるが、やはり子供が駄々をこねているようにしか見えない。


笠奈の生徒にも受験生がいるため、切羽詰まった雰囲気が出ている。少しやつれたように見える。夏頃はきれいに染まっていた茶髪は、今は根元が黒く、毛先に向かってほとんど金に脱色され、痛んでいる。冬になって伸びた髪がコートにぶつかるせいだ。笠奈は真っ白なダッフルコートを着て、紫色のマフラーを巻いている。


笠奈とは年が明けてから飲みに行ってはいない。最後に会ったのは、クリスマスの3日前の土曜日だった。恋人の存在が明らかになった後も、笠奈は何事もなかったように私を誘った。私も何も言わなかった。私たちは最初からただの飲み友達だった。クリスマスについて議論する余地は全くない。


たまたま入ったいつもと違うキッチンバーは、暖色系の照明が弱くて薄暗く、変にムードがあってそれが私を参らせた。周りには何組かの男女がいて、今年のクリスマスは平日の真ん中だから、今日に振り替えて愛を深めているのかもしれない。ここで適度に酔っ払った後は、ホテルに流れてお互いの体を心ゆくまで貪り合うのだろう。


笠奈はクリスマスは家族と過ごすらしい。「どこでデートするの?」と聞いてみると、その日は母親の仕事が遅くなるために、代わりに夕飯を作らなければならないとのことだった。家には父親と、弟とおじいちゃんがいた。でもそれは、クリスマスイブのことで、だったらクリスマス当日という代替日というか本命日があるわけだから、じゃあそっちは?としつこく聞くと「まあ仕事なんじゃない?」と他人事みたいに答えた。


「そういえばこの前借りた本、返すね」

そう言って笠奈は小さな紙袋を渡してきた。中には文庫本が2冊入っている。村上春樹の「ノルウェイの森」の上下巻である。以前私が小説を読むと話したときに、貸してくれと頼んできた物だった。私は貸すときは何も考えずに本だけを渡したが、紙袋に入れられるとプレゼントみたいな感じがする。

「どうだった?」

「ノルウェイの話かと思ったらそうじゃなかった」

「最後まで読めた?」

「読めたよ、お母さんも読めた」

「お母さん? お母さんにも読ませたの?」

「うん」

「じゃあ面白かったの?」

「面白いというか。でもこの主人公、君にそっくりだね」

「うそだよ、俺はこんなに気障じゃない」

「うん、そうなんだけど、なんか、似てる」

「お母さんも似てるって?」

「お母さんは君のこと知らないよ(笑)」

私も笑った。

「お母さんはね『この主人公は誠実だ』て言ってた」

「すなわち、俺も誠実ってことだね」

「それはどうだろう」

笠奈は半笑いで目をそらした。

「なんで? こんな誠実な男、他にいないでしょ?」

「はいはい、そうでした」

笠奈の前では否定したが、それでも小説の登場人物に似てると言われるのは悪くない気がした。自分の好きな小説なら尚更である。「ノルウェイの森」は大学時代にいちばんよく読んだ小説である。鞄に入れ、授業の合間に適当なページを開いて読んでいた。


私はビールのおかわりを注文した。笠奈の催眠術にかかって以来、お酒の飲み方を注意し、しばらくビール以外を飲まないようにしている。笠奈は相変わらず脈絡のない飲み方で今日は焼酎を飲んでいる。全く酔わない女である。何かの拍子に笠奈が笑うと、夢のことを思い出す。笠奈が狂ったように笑いながら、私をしきりに挑発してきた。何から逃げているのかと聞いてきた。笠奈の手がテーブルに当たったりすると、反射的に体が硬くなる。いつのまにか夢に入り込んだのかと警戒する。


実際の笠奈の笑い方は、夢で見たものとは違って、それ程派手ではない。笑い声が大きくなると、口元に手をやる。癖なのだろう。それに伴って顔はうつむき、下がった前髪が目を覆い、抗うように真っ黒なまつ毛が際立つ。まつ毛だけが何にも染まっていない、笠奈そのものの色だなあなんて思う。笠奈の頬が下がり、口元が元のポジションおさまると同時に、笠奈はこちらに目を向ける。私は笑顔を注視していたわけだから、当たり前のようにまともに目が合う。すると「なに見てんだよ」とか言って、丸めた紙ナプキンを投げつけてくる。



受験が目前に迫ったということで、私のメインの生徒も多少の緊張を見せていたが、1月後半の推薦入試で、あっさりと合格を決めてしまった。推薦入試には筆記はなく、内申点と面接で合否が決まるので、私としては肩すかしをくった気がした。もちろん内申点は普段の成績で決まるのだから、塾で教える行為全てが無駄とはならないのだが。兼山は、完全に私達の事を野放しにしていたくせに、自分の子どもが合格したかのように笑顔満面で喜んでいた。兼山の後ろの壁にはどこから見つけてきたのか、特大の御守りが2つ下がっている。私は意味もなく「兼山さんでも神頼みですか」とつっかかりたくなる。


1月の授業はあと1回残っていたが、もうすることもないので席に着くなり「そういえば、お前って彼女いるんだっけ?」と聞いてみた。生徒は「いるよ」と答えた。2年の終わり頃から付き合っているそうだ。その辺りの説明をする時に、躊躇する様子はまるでない。のろけているという感じもなく、淡々と私の質問に答えていく。写真とかとかないの?と聞くとポケットから携帯電話を取り出し、電池カバーを外して、裏側に貼ってあるプリクラを見せてくれた。ショートカットで少しぽっちゃりしていて、あとはシールが小さくてよくわからなかった。

「かわいいじゃん」

「普通かな」

「高校は?」と聞くと、別々の学校へ進学するらしい。彼女の方は隣町の女子高を志望している。「一緒の所行かないんだ?」と聞くと、本人もどうしてこんなことになったのか事態が飲み込めないような顔をして「行かないんだよね」と答えた。

「だからさ、今度の卒業旅行が最後なんだよね」

「どこ行くの?」

「お台場。ディズニーランドのほうが100倍いい」

「卒業旅行なんて、どこ行こうが一緒だよ。行き帰りのバスを楽しむんだから」

「俺も夏に行ったよ。そういえば」と私は付け加えた。

「ジョイポリスとか楽しいの?」

「夜中だったから、どこもやってなかった」と答えると「なんで夜中にあんな所行くんだよ」大声で笑われた。私は、指を口に持って行き静かにするように注意すると「勢いだよ」と言って笑った。そして「昼間なら楽しいって、誰かが言ってたよ」と付け加えた。


その話で、授業の時間がほとんど終わり、あとは放置して、先に報告書でも書いてしまおうかと思っているところで「てか先生は?」と聞かれた。私は「好きな人ならいるよ」と答えた。

片想いなんだけどさ、そろそろ告ろうかと思って。そう言うと「じゃあがんばんなよ。俺応援してるから」と生徒は笑顔で言った。左手で机の上の携帯電話を押さえていた。

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