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二学期になって、最初の授業の終わりに兼山に声をかけられ、ミキちゃんのことを受け持つことになった。数学と理科。
「お前どちらかと言えば、理系だよな?」
と、一応は疑問系の体裁で聞くが、こちらの意見を聞くつもりがないのは明らかだ。新たにもう1日バイトが増えてしまった。笠奈が二学期から、新しく入った生徒を担当することになり、手が回らなくなったとのことだった。
「本当は男の講師が女の子を見るのはあんまりよくないんだよね」
とため息まじりに兼山がひとりごちる。私の責任とでも言いたいのだろうか。思わず「それなら俺じゃなくていいです」とつっかかりたくなる。背が低く、ぽっちゃりしていて童顔。明るい水色のストライプのワイシャツを胸元で開け、中で金のネックレスが光っている。肉厚の手。フライパンで焼くなら、わざわざ油を敷く必要はなさそうだ。右手の小指、左手の中指と薬指に指輪をはめている。どれも大げさなデザインで、指がより短く見える。薬指、てことは結婚をしているのだ。こんな男でも結婚ができるのは不思議だ。私にはわからない良さというか、魅力があるんだろうか。金とか。金に釣られて好きでもない男と一緒になる女は、愚かなのだろうか。
話の途中で笠菜が奥から出てきた。もちろん笠奈は、私のために出てきたわけではなく、授業の終わった生徒を見送るために出てきたのだ。兼山のデスクは、出入り口のそばにある。生徒がドアを開けたタイミングで、兼山は「さようなら」と声を張る。兼山は大声を出すと声が裏返る。笠奈もお姉さんみたいな顔をして「今度は宿題忘れないでね」なんて声をかける。自分なんか、禁煙もまともにできないくせに。そういえば笠奈を見るのは、あのお台場の夜以来だ。笠奈にあげる予定だった牛乳は捨ててしまったし、予備で買ったお茶も、結局は自分で飲んだ。長電話の後、笠奈は明らかに疲れた表情をして、帰り道は静かだった。
「ミキちゃんの話してたのかな?」
笠奈は私と兼山の顔を交互に見て聞いてきた。口ぶりから私に聞いてきたのかと思い、返事をしようとすると、兼山が先にそう、と答えた。
「あとはミキちゃん側に伝えるだけ。本人には、お前から先に言っておいて」
「はーい」と笠奈が軽い調子で答える。何故こんなにフレンドリーなのか。兼山は、女講師に対しては冗談も言うが、それでも講師の方からタメ口をきく者はいない。もしかしたら、お台場での電話の相手は兼山で、2人は不倫関係にあるのかもな、と私は勘ぐる。勝手に兼山に怒りを覚える。
「じゃあ、来週の水曜日から、お願いします」
そう言って、笠奈は深々と頭を下げた。仕事のことだから、ちゃんと礼儀を踏まえたのだろう。もちろんそのような笠奈の態度に、私が傷つかないはずがない。
ミキちゃんとの授業は夏期講習と全く同じ雰囲気で始まり、授業での再会を、ミキちゃんは手を叩いて喜んでくれた。夏休みは黒い髪を下ろしていたが、今は赤いゴムでまとめ、少し幼い感じがする。夏休みの宿題はちゃんとやった? と聞くと、理科と漢字のワークがまだらしい。「笠奈先生には言わないでね」と小声でお願いしてくる。夏期講習が終わった後のマクドナルドで、笠奈にミキちゃんはあなたのこと好きかもしれない、と言ってきたのを思い出す。笠奈はお台場の道中で「私はミキちゃんの好きな人だって知ってるんだからね」と騒いでいた。
笠奈は責任感からか、授業が終わり、ミキちゃんを送り出す時には必ずついてくる。笠奈の方が早く授業が終わるから、タイミングとしてはちょうどいいのである。それでも1時間近く待たなければならない。
ミキちゃんを送り出すのはすぐに終わるから、その後少し2人で話をすることになる。建物に戻れば兼山がいるので、私はその場で話したいと思う。まだ、9月の前半で、そこら中で虫が鳴いている。汗をかくほどではないが、中と比べれば明らかに不快な状況だが、時には30分近く喋ってしまうこともある。ミキちゃんの話題が多いが、夏期講習の時のように監督ぶって進捗具合を報告させるわけではない。それどころか逆に、自分の授業の時にミキちゃんと喋ったことや、そこから発展して彼女のキャラや、家庭のことを教えてくれた。ミキちゃんは3人兄弟の真ん中で、上には高校生の兄、下は幼稚園に通う妹がいる。妹は自閉症で、滅多に笑わない。そのせいで母親はノイローゼになり、最近抗鬱剤を飲むようになった。それ以前に両親はバツイチ同士の再婚で、兄と父親とは血のつながりがない。妹は再婚してからの子だ。ちょうど思春期だし、父親とも距離ができて戸惑っている。
翌日私は早速図書館へ行って自閉症についての本を調べるが、学術的な話ばかりで全く役に立ちそうもなかった。何かしらミキちゃんのためにできることはないかと思ったが、そんなことより普段通りに接して授業の間は家族のことを忘れさせてあげるのがベストだと思った。
しかしある時、ミキちゃんの方から「先生、自閉症って知ってますか?」と聞いてきた。ミキちゃんの方を見るとまともに目が合った。真剣な表情になると、一気に大人っぽくなる。黄色いシャーペンの真ん中を大事そうに両手でつまんでいる。
「聞いたことはあるよ」
「うちの妹、幼稚園行ってるんだけど、自閉症なんだ」
「そうなの?」
「全然笑わないし、話しかけても全然反応ないし。ちっともかわいくない。幼稚園でもいじめられてるみたい」
「本当に?」
「うん、なんか蹴飛ばされたりするんだって。先生も、可愛くないからほっといてるみたい」
「可愛くないって......」
正直なんと答えていいのかわからない。反射的に母親と血のつながりがない上に、その母親が抗うつ剤を飲んでいる、という笠奈の話を思い出した。
「あ、こんな暗い話してごめんなさい。ていうか、もう休憩時間過ぎちゃったよね?」
私が曖昧な態度をとったせいで、結局ミキちゃんの方から話は切り上げられてしまった。時計を見ると確かに10分が過ぎている。塾内で休憩については、特に明確な決まりはなく、各講師の裁量に任せられている。私は90分の授業の中で、休憩を2回とることにしている。何分たったら、と細かく決めているわけではなく、その時のムードで決めている。なので、緊張感がほしいときはわざと短めにするし、お喋りが盛り上がれば平気で10分を超過する。どちらにせよ生徒の方から休憩を終わらせようと言ってくる事はまずない。
「俺じゃ何の役には立たないけれど、もし話したいって思ったらいつでも言ってね。別に休憩のときとかじゃなくていいよ。ミキちゃんが抱えてることって勉強よりもずっと大事なことだと思うから」
授業を早めに切り上げて、私はそう伝えた。私はミキちゃんに向けて座り直し、顔を見ながら言ったがミキちゃんは前を見たままシャーペンをいじっていた。2つ結びの髪が頬に垂れて表情は見えなかったが、しっかり聞いているのはわかった。
「ミキちゃん、絶対にひとりで抱え込まずに、誰かに話してね。学校の先生でも、笠奈先生でも誰でもいいよ。あと、俺に話してくれてありがとう」
ミキちゃんはそのまま立ち上がってお辞儀をすると、早足で教室を後にした。
「あれ? ミキちゃん帰っちゃったの?」
いつものように玄関に姿が見えないので、笠奈が私の席を覗いてきた。私は笠奈を自分の隣に座らせると、腕組みをしながら今日の出来事について話した
「ミキちゃんはさ、君のことが好きなんだから、どんどん話聞いてあげた方がいいと思うよ」
「そうなんだけどさ」
私はアドバイスなんかより、自分の無力さに対して同情が欲しかった。私のさっきの言葉はミキちゃんにとっては何の救いにもならない。笠奈は何もわかっていない。アドバイスも大ざっぱすぎる。
「ていうか、今度の土曜って暇? 飲みに行こうよ。作戦会議!」
私の暗い顔を覗き込みながら笠奈はそう言ってきた。ミキちゃんと同じように前髪が頬に垂れ下がっている。笠奈の誘いは嬉しかったが、それでも私は罪悪感を抱かずにはいられなかった。
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