第二話 常夜の国(5)
オリエストが提案してきた物の用意には少し時間がかかると言われ、後日また訪問することを確認して、ジーク達は書庫を後にした。
「はあ、まったく……疲れました。ホントあの人は手に負えません」
「でも……そんなに怖い人じゃなかったよ」
書庫を出るなり疲れ切ったため息を吐くセリーヌ。それを気遣うようにヒトリが言葉をかけるが、セリーヌは甘いとばかりにたしなめるような口調で返す。
「騙されてはいけませんヒトリ様。私から言いたくないですけど、今日はまだ軽い方でした。ヒトリ様がジーク様のものだと言っておいたので、あの人も気を遣ったのかもしれないですね」
「え……そうなの?」
驚きを見せるヒトリに、ヴェルクスも割って入る。
「そうだとしたら、ジークは面目躍如だな」
「あの人が勧めるお茶は絶対飲んじゃダメですよ。怪しい薬入ってますから」
「飲んだ奴を軽い催眠状態にしちまうってひどい趣味の悪さだ。あとはあいつの玩具にされちまうから、たしかに気をつけた方がいい。君みたいに若くて可愛い女の子は特にだな」
「ねえ、ヴェルクスくぅん。私って若くて可愛い女の子に入ります?」
「当たり前だろ。あんまり気にしすぎてると小皺が増えるよ。せっかくの可愛い顔が台無しだ」
「構うな、ヴェルクス。いつものことだ。セリーヌもわざわざ問うまでもないことをいちいち迫るな。心の不安は体にも出るというぞ」
「むぅ~ん……ジーク様まで冷たぁい……けど優しい♡」
時刻は天刻十時を回ったあたりである。
ジークは書庫を出て、兵舎の方に向かっていた。ヴェルクスとは目指す場所が同じであり、ヒトリとセリーヌもそれについて来ている。
日課の、戦闘術の訓練である。
兵舎区域は王城の敷地の中、本城の外に出て少し歩いた所にある。王城軍の兵士達がここで生活し、有事の際には王の命に従い、――大抵は王城とその領内を守るために――出陣する。ちなみに、彼らは主に王城の外の侵攻や事件に対応する部隊であり、王城内の警備にはまた別の部隊――近衛部隊が配備されている。かつてセリーヌが所属していたというのも、この城内警備を担当する部隊であった。
ジークは毎日この時間帯に、鍛練と視察を兼ねてこの兵舎を訪れる。
そこにヴェルクスが同行する時は、大抵その後の展開は決まっていた。
兵舎の訓練場に顔を出すと、訓練の指揮を取っていた将校がジークの来訪に気付いて、訓練を一旦停止する。隊列が彼に向き直り、敬礼をする。
「構うな、続けていてくれ」
ジークは儀礼的な敬礼を受けながらいつものように返すと、待機中の別隊の司令官に声をかける。同じく敬礼を解かせ、ジークはいつもの要請を口にした。
「鍛錬の場所を借りたい。空いているか?」
「ええ、ございます。現在第一訓練場が使用中、第二、第三は使用されておりません」
司令官はそう答えると、控えめにした好奇の目でジーク達を見た。
「ジーク様のお相手は、やはりヴェルクスですか?」
「ああ。そのつもりだ」
「そのつもりで俺はここまで来たぜ。後ろのお嬢さん方にいいトコ見せる機会でもあるしな」
ジークの返答を、ヴェルクスが受けて膨らます。その言葉に、訓練待ちの兵たちが好奇に目を光らせる。
「ジーク様、聞きましたぜ。山奥で娘を拾ってこられたとか」
兵士の無遠慮な物言いに、ジークは眉をしかめる。
「どこでそれを聞いた。外の者には話していないはずだが」
「俺らみたいな下々の間じゃ、噂が広まるのは早いんですよ」
ジークに答え、兵士達は無遠慮な目でヒトリを吟味し始める。
「それで、後ろにおられる娘さんがその人ですかい?」
「ずいぶん色のある肌してんなあ。光の方の生まれなのか」
「黄昏の地平育ちか。こりゃ意外な所から箱さんがやってきたもんだなぁ」
「セリーヌも油断してっと、ジーク様を取られちまうぞぉ」
「え……あ、あの、えっと……?」
興味の色を露わに奇異の言葉を浴びせかけられ、まだ夜の国の人間――それも男――に慣れていないヒトリは委縮してしまう。それを見かねて、セリーヌが兵達を一喝した。
「あなた達。このお方は国賓であるうえジーク様の女ですよ。国と王子様の女に手を出そうなんて、ずいぶん豪胆になったものですね。彼女に色目をかけるなら、まずは王城のメイドでも口説けるようになってからになさい。ジーク様の女に手を出すような輩は、このわたしが責め倒してやりますからね!」
「おぉ、怖い」「はいはい」「自分がジーク様の女だからって」「ジーク様も花持ちだなぁ」
セリーヌの威勢に、茶化しに興じていた兵たちは態度を収め引き下がった。
ジークはセリーヌに内心感謝し、ヒトリをなだめると司令官に向き直る。
苦い笑いを浮かべていた司令官は、ジークに向き直ると言いにくそうに言った。
「よろしければ、お二人の手合わせを見学させていただいてもよろしいでしょうか。我々はまだ待機中ですし、兵たちがこの様子では収まりがつかなさそうなので」
「相変わらず物好きだな。いいか、ヴェルクス?」
「俺は異存はないぜ。お前の判断に任せるよ」
ジークはヴェルクスの了解を取ると、次にセリーヌの方を見た。セリーヌは了解を得ているような笑みを浮かべて、彼の言いたいことを理解する。それをジークも見取って、言った。
「セリーヌ。俺達の試合の間ヒトリを頼む。何か、昨日のようなことがあればすぐに俺を呼べ」
「かしこまりました。この身と女の忠誠にかけて、ヒトリ様には余計な虫はつかせませんから」
セリーヌは気合十分に了承し、ジークは少々やれやれと思いつつも彼女に任せることにした。
「審判は私、ヴェルデンが務めさせていただきます」
「よろしく頼む」
そして、審判役の将校と言葉を交わし、訓練用の武器を受け取りながら、最後にヒトリの方を見る。
ヒトリは、これから何が起こるのかわからないらしく、戸惑いを瞳に浮かべていた。
ジークは、彼女の不安を和らげるように、小さく笑んでみせる。
「ヒトリ、セリーヌと一緒に見ているだけでいい。何も危険なことはないから、心配するな」
そう言い置き、ジークはヴェルクスと訓練場の中央に向かった。
二人は十フォンテほどの距離を置いて向かい合い、鉄製の訓練刀を構える。
「セリーヌさん……二人は、何を?」
「模擬戦です。お二人の立ち合いは白熱ですよぉ。訓練の名物です」
セリーヌがそう話し、視線を中央に立つ二人に戻した。
鋭気を宿した静かな視線が、二人の間に交わされる。
「それでは――双方、構え!」
審判役の将校の声に、二人は静かに体勢と気勢を整える。
幾度となく、心を乗せた刃の応酬を交わした仲。その実力も、お互い十分に理解している。一寸の油断も慢心もなく、相手に応えるため手合わせの場としての誠心誠意の全力を尽くす。
双方既に、心構えは万端だった。
息詰まる緊張感に、場の空気が時を止めた。
「――始め!」
審判の合図が轟くやいなや、二人はほとんど同時に、同じ速度で踏み込んでいた。
始まりの交錯は、たったの一秒にも満たない時間。
ジークの細身の剣が鈍色の影となって空を走る。横薙ぎに相手の首元を狙った神速の一閃をヴェルクスは踏み込みにわずかに制動をかけることで速度を殺しわずかに体を後ろにそらすことで、前髪の先を掠めるほどの距離でそれをやり過ごした。
剣を振り抜いた形のジークに、ヴェルクスは再び足に力を込めて踏み込みの勢いを取り戻し、がら空きに見える胴に空を穿つほどの鋭い突きを繰り出す。しかしジークもそんな隙は見せない。振り抜いた腕は発条のように途端に懐に戻され、ヴェルクスの刺突を叩き落とす。
ヴェルクスは刺突の勢いのままジークの脇を素早くすり抜けていく。二人はそのまますぐに距離を取り直し、互いに再び残心のごとく向かい合い直した。
初手の攻撃が交わされ、二人は研ぎ澄まされた神経で次の動きを窺う。
光の速さすらも生ぬるいほどの交錯に、見ていた面々は息を呑んでいた。
「いつも見てますけど、相変わらず二人とも速いですねえ。でも、まだまだこれからです」
セリーヌが、ヒトリの隣で呟くように口にしていた。
ヒトリは、神速の交差に、完全に心を奪われていた。
それは、闇の中に光すら思わせる威圧で走る、黒い稲妻。
「やあッ!」
仕掛けたのはジークだった。気勢の一致に合わせ、再び光速もかくやの踏み込みと突きを繰り出す。
ヴェルクスが今度は剣を突きの軌道上に紙一重で合わせ、針のような刺突の軌道を逸らした。先程自分がやられたことを、ほぼ同じ形で返している。
ジークも、初動の攻撃で仕留められるとは思っていない。勝負は次だった。
突きが躱されると読んでいたジークは、突貫の勢いで繰り出した腕を素早く引いた。だがヴェルクスもそこまで読み通していたようで、防御に回した剣をそのままの流れで素早く前のジークに繰り出す。超至近距離からの素早い一撃。回避に移る時間はないに等しい。
だから、ジークは剣による対処を捨てる。
上から振り下ろすヴェルクスの腕の隙間に飛び込み、至近距離から繰り出したのは、残った踏み込みの力を乗せた左の膝蹴り。
ヴェルクスの腹部を強かに打ち、だが彼もまた体勢を崩すこともなく、踏ん張った足で衝撃を殺しながら体勢を整える。
一瞬でも判断とタイミングがずれていれば、腕を斬り落とされていたかもしれない。
その刹那に、己の活を見出す。ジークはそういう勝負勘を身に着けている。
――やるな。ジーク。
薄く笑みを浮かべたヴェルクスの目は、そうジークに語りかけていた。
白熱する交錯に、観衆の間に熱を帯びた吐息が漏れる。
「きゃー! ジーク様ぁー! ステキぃー!」
セリーヌが、闘技場もかくやといった熱い声援をジークに惜しげもなく送る。
相変わらず超速の交錯に心を奪われていたヒトリは、そこでふと我に返った。
「あの、セリーヌさん。この試合って、どうやったら終わるんですか?」
「え? ああ、そうですねえ。時間経過か一方の降伏宣言、戦闘不能と判断された場合、あとは当人たちの判断で終わる場合もありますね」
「当人たちの、判断?」
ええ、とセリーヌは目を光らせてヒトリに力説する。
「あの二人ほどの手練れとなると、勝負が決する瞬間っていうのが感覚的にわかるようになってるんです。そういう瞬間が来た時、あの二人はどちらからともなく同時に戦闘を終えるんですよ――」
言っている間に、三度目の交錯。
ジークが再度、神速の踏み込みをかける。しかし、三度も連続で同じ手は使わない。
前方に突進していたジークの姿が、ヴェルクスに迫る距離になって突然、幽霊のように掻き消えた。
「⁉」
ヒトリは、目を疑った。だが次の瞬間にはさらなる驚きに見舞われる。
ジークが、宙に――ヴェルクスの頭上に舞っていた。高い跳躍から、落下の勢いでヴェルクスの頭上に襲いかかる。その切っ先が黒い光を灯し、重力が落下を彗星のように鋭くする。
だがヴェルクスはそこまでも読んでいた。上空に視線を上げ、凄まじい勢いで落下してくるジークの剣閃を、身をゆらりとわずかにずらすだけで躱してみせる。
落下突きが逸れた瞬間、ヴェルクスは落下してきたジークの体を横薙ぎに断ち切った。
「――あ……ッ……!」
ヒトリが心臓を衝かれたように息を呑む。
切り払われたジークの体が、再び影のように消えた。
直後、ヴェルクスは電気に撃たれたように何かに反応し、背後に剣を素早く向けた。
その場所にあったジークの影が空気のように切り裂かれ――、
いつの間にかヴェルクスの背後に現れていたジークが、その剣を振りかぶっていた。
「――――」「…………」
背後を取られたヴェルクスと、背後でとどめの一撃に入ることのできたジークは、その状況のまま動きを止め、やがて徐々に緊張を解いていく。
その状況ですでに二人の間で勝敗は決し、言葉を交わさない了解が生まれていた。
「――――ぁ」
あまりの速さの展開に、ヒトリは息をするのも忘れていたほどだった。
ヴェルクスが、審判に視線を送る。
――今日は、俺の負けだ。
その視線の意図を読み取った審判は、律として声を発した。
「勝負あり! 勝者、ジークヴァルツ・ヴァイルベルト!」
審判の高らかな決着宣言に、観衆の兵達がどっと沸いた。
「影分身を三体に、上空からの重力加速の強襲か。今日はずいぶん気合が入ってたじゃないか、ジーク。毎度のこととはいえ、下手したら死んでたな」
「真剣なのは毎度のことだ。そっちこそ、今日はどうしてか加減してくれたろう、ヴェルクス。撹乱をかけた末の俺の最後の一撃も、お前の本気なら十分に対応に間に合ったはずだ」
武具を片付けてもらいながら、ジークはヴェルクスと感想を交わしていた。
「まあ、あくまで模擬戦だからな。お前と殺し合うのが目的じゃあない。お互いの実力が十分に引き出せて力加減の確認と腕慣らしになればそれでいい。俺はそのつもりだぜ。違うか?」
「違いない。おかげで今日も体が動かせた。手合わせ感謝する、ヴェルクス」
「そんな畏まんなよ。俺だって楽しかったぜ。それに」
ヴェルクスはそこで意味ありげに言葉を切り、視線をジークの後方へ向けた。
ジークがそちらを向くと、セリーヌとヒトリが近寄って来るところだった。彼女達の後方には観衆と化した訓練兵達が固まっている。
「いい物見世の舞台にもなったみたいだしな。今日はお前の勝ちさ。そういうことにしときな」
「こちらは物見世をやっているつもりではなかったんだがな」
ジークは少々呆れを混ぜながらも、親友にして師匠であるヴェルクスの心遣いに感謝した。
――ヴェルクスは、本当の本気を出せば、俺に勝てた。
そこまでしなかったのは、彼が言う通り訓練だからというのもあるのだろう。だが、彼の言葉には明らかにそれ以上の思惑が含まれていた。
例えば――ヒトリに初戦としていいところを見せる、とか。
――まったく……お調子者が。
呆れながらも悪くない心持ちで、ジークはヒトリとセリーヌに向き直った。
「お疲れさまでした、ジーク様。さすがです。訓練とはいえ、ヴェルクス君の裏を取るなんて、このお城では王様と私の他にはジーク様しかできません。惚れ惚れしちゃいました。ヒトリ様なんて、すっかりジーク様の神速の剣技に見惚れちゃってましたよ。さすがは私のジーク様♡」
「君にそう言われると、俺の立場が微妙になるんだがなぁ、セリーヌ……」
ヴェルクスが微妙な表情になる。ジークはヒトリを見た。
「ヒトリ、」
何か声をかけようとした直後、ヒトリはジークの胸に縋り付いた。
「ヒトリ……」
「……怖かった。訓練だっていっても、あんなの、ちょっと間違えば死んじゃってた。いつもあんな戦いをしているの?」
恐れに微かに声を震わせていたヒトリに、ジークは言った。
「俺とヴェルクスは刹那の勘を持っている。こんな訓練で間違っても命を奪わないよう加減はできる。……それに、実際の戦場ではあんなものではない。あれ以上の動きで、敵を――」
ジークの言葉を、ヴェルクスが肩に手を置き、セリーヌが唇に指を立て、視線で遮った。
ジークはそれで状況を判断する。
――怖かった。
(そうか……配慮が甘かったようだ)
ジークは自らの失策を悟り、慰めるようにヒトリの頭に手を置いた。
「すまなかった、ヒトリ。戦場から逃げてきたばかりのお前にいきなりあんな戦いを見せたのは、衝撃が強すぎたようだ。怖がらせてすまなかった」
ヒトリはジークの胸の中で、小さくこくりと頷いた。そして、
「ジーク――」
何か言葉を継ぐように小さく呼びかけた。何かと思ってジークは耳を傾ける。
ヒトリは、泣きそうな声で言った。
「……おなか、空いた」
直後、ヒトリの可愛いお腹が、きゅう、と悲しげな音を立てた。
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