第二話 常夜の国(6)

 昼刻――天刻十二時。

 暗い闇に覆われた王城領内に、一日の半分が経過したことを知らせる鐘が鳴り響く。

「せっかくの賓客、それもお前の客だ。もてなしてやれよ。あの子もきっと喜ぶぜ」

 ヒトリは、ヴェルクスの提案で、ジークの中食・昼餐に招かれた。

 畏まらなくていいとは言ったが、ヒトリはこれが遠慮もせずにとにかくよく食べる。よほど飢えていたかのような思いを抱かせるほどに、しかし決して下品ではない女性としての最低限の品位は守りながら、ヒトリは黙々と宮廷料理を口に運んでいた。

 給仕たちが奇異の目を向ける中、グランヴァールはその様を感慨深げに見る。

「お前の元いた住まいでは、食事は十分にあったのか」

「はむ、んむ……全然。こんなおいしいもの、食べたことないです」

 そう言うヒトリの声は、美味なるものを前にしていながら、悲しげなものだった。

 グランヴァールは、夜麦のパンを皿に置き、ふむ、と小さく唸る。

「やはり、世界にはまだまだ行き届いていない場所が多くあるらしい。俺もまだ至らぬな」

 言って、何かを飲み下すように闇葡萄酒を呷った。

「ヒトリ。お前、歳は幾つだ」

 ワイングラスを置くと、グランヴァールはヒトリに訊ねた。せっかくの機会に、彼女のことを知ろうという魂胆らしい。

「あむ、うむ……十九です」

「ほう、そうか。ジークと同じ年か……なるほど」

 グランヴァールが思惑ありげに喜色さえ浮かべて言う。ジークはそれを訝しんだ。

「それがどうかしたのですか、父上」

「俺がシェネリスと婚約したのはいつ頃だったかを思い出していた」

 グランヴァールの言葉に、ヴェルクスは興味を表情に滾らせ、ヒトリがきょとんとした顔をする。ジークは父王の意図がわかってわずかに渋い顔になった。

「俺が婚姻の儀を挙げたのは、今から二十二年前だったか。まだシェネリスも存命で、ジークが生まれる前だった」

 黒の王は、遠い昔を懐かしむように語り始める。

「シェネリスは光も闇もよく映える白い肌をしていた。だが、あまり体の強い女ではなくてな。星震の際の病はあれの気力を蝕んでしまった。だがあれは……闇の中でも最後まで光続けていた、美しい女だった」

「シェネリス……?」

「グランヴァール陛下の王妃様だよ。ジークの母上様で、セリーヌの母親の旧友でもあられた方だ。三年前に亡くなられてしまったんだけどな」

 ヒトリにヴェルクスが説明する傍ら、グランヴァールの語りは続く。

「シェネリスは白夜の国の人間だった。あの頃は丁度私が即位したばかりの頃で、白夜の国と新たな関係を築く風潮が築かれつつあった頃だった。俺とあれとの婚約は、二国の新しい時代の始まりと呼ばれて、両国中に祝福された。俺もシェネリスも、幸せだった」

 グランヴァールはそこまで話して、一旦言葉を切った。言葉に漂っていた控えめな喜色は朧に薄れ、その眼は失くしたものを見るように暗く沈んだ色をしていた。

「ジークの命と引き換えにシェネリスが亡くなったのと第二星災が重なったのは、不運だった。あの日以来、我々は向こうに再び罪人のように見られ始めたからな。あいつも、ジークも、何も悪くなかったというのに」

 グランヴァールは胸に満ちた暗い思いを飲み下すように、闇葡萄の黒ワインを静かに呷った。

「俺は今でもシェネリスを愛しているし、あの時の我々の間にあった二国の絆を今も憶えている。だからこそ、俺はこの無益な戦争を終わらせ、再び二国の友和を取り戻したい。そのためには、この世界の現状を元に戻さないことには、話が進まないのだ」

 そこまで言って、グランヴァールはヒトリに目を向けた。

「故に、ヒトリ。お前がここに舞い込んできてくれたことを、俺は僥倖だと思っている。お前とその内にある『星の鳥』の力は、俺の悲願を叶えるための大きな鍵だ。お前の力を借りる分、お前のことは国賓として丁重に扱うことを改めて約束しよう。何かあればジークや周りの者に言い付けるがいい。この国も豊かではない状況だが、可能な限りお前に不自由はさせん」

「そ、そんな丁寧に……その、ありがとう、ございます……」

 ヒトリは恐縮しながら答えると、ちらとジークに戸惑うような視線を投げてきた。

 話を聞く限り、黒の国の民ではないヒトリはグランヴァールの顔を見るのは今日が初めてだろう。それを含めなくても、グランヴァールは相当な強面だ。近づくことすらも憚らせるその厳格な王のこの上ない親身な態度に、まだ不慣れなヒトリが戸惑うのは無理もないと言えた。

 ジークはその心中を察して頷きを返してみせる。そんな二人の間を見たグランヴァールが、ヒトリを気遣うように言葉をかけた。

「どうした?」

「いえ、その……ジークと王様って、本当にそっくりだなって思って」

 ヒトリの言葉にグランヴァールは、む、と唸り、ジークは何となくばつの悪い気分になった。そこをヴェルクスが間に入って話を拾う。

「王様。どうやらジークはもうだいぶ彼女に手を回しているようです。先を越されましたね」

「ほう……俺の知らぬ間に随分と立派になったものだな、ジーク」

 ヴェルクスの言葉にグランヴァールは悪乗りを見せて低い声で笑ってみせる。ジークはさすがに頭が重くなった。

「ヴェルクス……それに父上も、変に話を曲げて解釈するのはやめてください。俺はともかく、ヒトリは昨日この国に逃げ込んできたばかりです。まだそんな話は刺激が強すぎる」

「え?」

 ヒトリを庇うようなジークの言葉に、ヒトリは何か引っかかるものを感じた。

 そして、それに思い当たった時、ヒトリの顔が赤くなった。

 対し、ヴェルクスはなおも彼の手口で話を掘ろうとする。

「そりゃ失敬。まあ、そうだな。ヒトリちゃんにはまだこんな話はちと早いか。お前がこの話を悪く思っちゃいないってのは取っといて、な」

「ヴェルクス、そろそろ口を慎め。怒るぞ」

 口の達者なヴェルクスを黙らせ、ジークは再び食事に向かおうとする。

「そうだな。異国間の婚姻ということについてなら、俺にも理解がある。だから心配することはないぞ、ジーク。お前の婚礼式は、俺が責任を持って面倒を見てやる」

「父上まで……」

 そこにグランヴァールまで出張られては、ジークも頭を抱えるほかなかった。

 彼らの話が何を意味しているかを悟ってしまったヒトリは、その後の中食の時間、終始顔を熱くして縮こまってしまっていた。


「まったく……ヴェルクスはともかく、父上の冗談好きにも困ったものだ」

 中食を終え、ジークは自室に戻るべく王城の廊下を歩きながら、そんな愚痴を零していた。

 少し後ろに、遠慮がちな足取りでヒトリがついて来ている。先程からどうも様子がおかしい。

「ヒトリ」

「ひゃえっ⁉ あ、な、何、ジーク?」

 ジークは、何やら挙動のおかしいヒトリを見咎め、済まなさそうに言った。

「不躾な話をすまなかった。ヴェルクスはああいうノリの男だが、まさか父上まで奴の軽口に乗ってくるとは思わなかった」

「あ、う、ううん。それはいいの。気に、しないで」

 ヒトリはまるで誤解を拭うように言うと、心を温めるように言った。

「ジークのお父さんって、面白い人なんだね。見かけは……ちょっと、怖いけど」

「そうか。今度父上にそう言ってやるといい。きっと大層可笑しがるだろう」

 ジークは答え、二人はしばらく無言で早くもなく足を進める。

 二人の間に含意を含んだ沈黙が満ちる中、空灯の微かな明かりの差し込む廊下を歩いていく。

 しばし歩いた所で、ふいにヒトリが口を開いた。

「ねえ、ジーク」

「何だ」

「その……何で、ここの人達って、みんなわたしを……わたし達をそういうふうに見るの?」

 ためらいがちなヒトリの言葉に、ジークは即座に意味を取れずに問い返す。

「そういうふう?」

「だ、だから、その……わたしとジークが、その……け、結婚する、みたいな……」

 ジークの何とも朴念仁な問い返しに返したヒトリは、言葉に窮して俯いていた。

 ヒトリの言葉の言う所を理解したジークは、小さく息を吐くと淡々と話す。

「前にも言ったが、俺はこの国の王子だ。王位継承権を持っている以上、世継ぎの問題は遠からず出てくるものだろう。冗談交じりとはいえ、あながち的外れな話というわけでもない」

「そ……そういうものなの?」

「俺としても、いずれ対面しなければならない問題であることはわかっている。故にその話自体を一笑に伏すようなことはしない」

 そこまで言って、だが、とジークは言葉の色を憤然としたようなものに変える。

「だからといって、奴らの調子を真に受けることはない。おおかた、王子が外に出て見知らぬ女を抱えて帰ってきたという色付きの話が面白いだけなのだろう。単なる市井の井戸端で交わす噂程度の話だ。お前が気にすることはない」

「あ、う、うん……」

 平然とヒトリの悶々を言葉に帰すジークに、ヒトリは何か、釈然としない思いを胸に抱えた。

(それは、そうなんだろうけど……わたしが気になってるのは、たぶん、そういうことじゃなくて……わたしが聞きたいのは――)

 知らず、ヒトリの口から、どこから飛び出してきたかもわからない言葉が出ていた。

「ジークは、その……いいの?」

「何がだ?」

「その……もし、結婚相手が……わたしでも」

 あまりに意外な話の運びに、ジークは微かな驚きに目を瞠る思いをした。直後、ヒトリがまるで自分の言ったことを自分で張り倒すような勢いで弁明する。

「あ、い、いや、その、全然、まだ、その、全然、その、そういうつもりじゃないんだよ? ただ、あの人達がさんざんそういう話ばっかりしてたから、もしそういう話があったら、どう思うのかなって、ちょっと聞いてみたかっただけ、だから……」

 動転しながら弁解するヒトリが息切れした頃、ジークは、ふむ、と考え込むようにしてヒトリの全身を吟味するように見渡すと、変わらない調子で言った。

「そうだな。悪くはないように思う」

「えっ?」

 ヒトリがその言葉の意味を理解するのに、かなりの時間の空隙があった。

 その意味が浸透し、ヒトリの全身が病的な熱に痺れるように侵される。

 それを全く意に介さず、ジークはけろっと言った。

「何だ。あくまでも仮の話だろう」

「な、あ……そ、そうだけど! それでも……」

 あまりに意外な答えに動転するヒトリに、ジークはやはり変わらない調子で言った。

「実際、俺はお前に悪意を感じないし、一緒にいる感じもそこまで悪くない。今はまだお前の背景にあるものをほとんど知らないが、それは今後知っていけばいいことだしな」

 そう言ってヒトリを見るジークの瞳は、呆れるほどに冷静で、迷いがなかった。

「お前とは、共に行動するのにも悪くない相手だと感じてはいる。故に、将来的に一切を共にする相手としても、今の印象では悪くないということだが。何か不満か?」

「…………」

 あまりにも朴念仁なジークの感想に、ヒトリは気の利いた感想を返すのに時間がかかった。

「ジーク、将来きっとお嫁さんになってくれそうな人を困らせるかも」

「何故だ」

「そんな冷静にそんなこと言われたら……どうすればいいか、わからないよ」

「それはお前の話だろう、ヒトリ。なぜそれが俺の将来の妃のことに言えるんだ」

「そうだね……ごめんね、ジーク。自分から言っておいて何だけど、もうこの話終わりにしてもいいかな」

「そうか……わかった。あまり気に病むな」

 ジークは全く態度を変えることなく話を終え、再び歩き出した。

 ヒトリは疲れ切ったようにぐったりとうなだれながら、後に続いた。

(変わってるっていうか、普通じゃない人……でも……)

 呆れ返るような思いの裏で、ヒトリはジークへの関心を自覚し始めていた。

 ただの朴念仁ではない、その人間を支える柱である無骨な誠実さを、ヒトリはここまでの短い時間の中で感じ取り始めていた。

 そして、彼が口にした、自分への印象。

 ――悪くないと思う。将来の妃としても。

(そんなこと言われたら……普通の人だって困るでしょ……もう……)

 ましてや、命を救われた相手、それも一国の誇り高く誠実な王子などとなれば。

 ヒトリは、胸の内に湧き上がる熱いものをどうにかしようと、心中で激しく身悶えていた。


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