第一話 星の鳥、黒の空へ(6)
小一時間ほどで終食はお開きになり、ジークは自室へと戻る廊下を歩いていた。
廊下の窓からは、夜空の闇を潜り抜けた
夜空を覆う暗雲の澱みを除いて、まるで時が止まってしまったかのように、空はその色を微塵にも変えない。ジークはそれを疑問に思っている。
空が動かない、ということそれ自体だけではない。
なぜ世界はこんなふうになってしまったのかということを。そして、世界はこれからどこへ向かえばいいのか、そのために自分には何ができるのかということを、ジークは未来の国、世界の導き手たる立場にある者として、常日頃意識している。
窓越しにささやかな空灯の光を浴び、冷たい空気に酒気を醒まして、ジークは自室に辿り着いた。
酒がまわっていることもあってか眠気が来ている。日の動きによる時間感覚がなくなって久しくなるが、人間は時間環境については適応能力の高い種族らしい。
扉を開けて、ジークはしばし頭の機能が停止した。
(……部屋を間違えたか?)
ベッドの上に、淡い白色をした薄手のヴェールのような
酒に酔って部屋を間違えるとは不覚と思ったジークは、部屋を見回して気付く。ここは、先程自分がセリーヌと共に彼女を送り届けた部屋ではない。城の部屋は似通ったものが多いが、客室と自室の見分けくらいはつく。何より、窓からの空灯の光の影の入り方が違う。
極めつけに、壁には亡くなった母王妃の肖像画が飾られていた。王家に一つしかないそれは、自分の部屋のものだ。
すなわち――ここは紛れもなく、ジークの自室だった。
だとすると、自然、ひとつの疑問が浮かぶ。
「どうした。何か用か」
なぜ、ヒトリが自分の部屋に、しかも寝間着で控えるようにいるのか。
尋ねたジークに、ヒトリは逡巡する様子を見せた後、言いにくそうに言った。
「その…………一緒に、寝させて、くれない?」
「…………」
その言葉に、ジークはもう一度思考が止まることになった。
(幼子か、お前は)
そんな思いが頭を過ぎったが、口にはしなかった。
「不安か」
ジークの言葉に、ヒトリは小さく頷いた。
「うん……それに、何だか体の奥が疼くの」
「疼く?」
「うん。ずっと前からあった感覚。わたしの中にいる何かが動いてるみたいで、気持ち悪い」
でもね、とヒトリは言う。
「あなたのそばにいる時は、その感じがないの。わたしの中のそれが眠るみたいに動きを止めるみたい。あなたのそばにいた方が、安心なんだ」
そう言って縋るような眼差しを向けてくるヒトリに、ジークは真顔で言った。
「それでは、お前はそのために毎晩俺と寝床を共にしなければならないことになりはしないか」
「それは……迷惑なようなら、仕方ないけど……」
ヒトリはそう言って、目を伏せた。その目はどこか怯えているようだった。
ヒトリの懇願に、ジークはわずかに思案した。
家族も住まいも全てを失い、異国の王城に客としてかくまわれ――今日、彼女が経験していることは、受け止めるにはあまりに身に重いだろう。
一人が怖いというのなら、付き添ってやることに何の不義理もない。
まして、今彼女が頼れるのは自分だけなのだ。
ジークは無造作にベッドに向かい、靴と上着を脱いで軽装になると、敷いてある掛け毛布を剥いで横になった。そして首を倒して顔を向け、ヒトリに声をかける。
「入れ。狭いが許せよ」
「……うん。ありがとう」
ヒトリはしばしその場で硬直した後、頬を染めながらベッドに歩み寄り、ジークの左隣に恐る恐る寄り添うように横になる。ベッドに収まったことを確かめて、ジークは毛布を彼女ごと覆うように被せた。
空灯の明かりが窓から差し込む静かな夜の中、ジークは自分にぴったりと身を寄せるヒトリの体温と鼓動を体で感じていた。彼女の言っていた通り、ヒトリの体は心持ち温度が高く、冷たい常夜にはありがたい。彼女の体を内側から打つ鼓動がやけに強く感じられた。
「ごめんね、急に……迷惑だったかな」
毛布の中、申し訳なさそうに言うヒトリに、ジークは率直に答える。
「俺自身としては別に構わないが、城の人間の見ようによっては要らぬ誤解を生じさせかねんから気をつけた方がいい」
「そ……そう? やっぱり……」
「これでも王子だからな。連れ込んだ若い娘と寝ていたなどという噂が流れれば、信用にも関わりかねんだろう。俺の周りには理解のある者が多いと信じたいがな」
「だよね……」
申し訳なさそうに言うヒトリを救い上げるように、ジークは言った。
「だが、今お前が頼れるのが俺しかいないのも事実だ。何かあれば言え。可能な限り、望みに応えよう。お前の意志を最優先するとも言ったしな」
「ジーク……」
自分を気遣うジークの言葉に、ヒトリは微かに瞳を緩め、頬を染めていた。
そうしてしばらく二人は無言のまま、互いの体温を分かち合うように、ぴったりと身を寄り添わせていた。
女と二人で寝床に入るなど、母に抱かれていた頃と、幼い頃セリーヌと以来だ。たまに今でもセリーヌが悪戯に下着姿で寝床に入り込んでいることもあるが、そういう場合はちゃんとつまみ出している。
「ねえ、ジーク」
そんな中、ふと声をかけてきたヒトリに、ジークは天井を見つめたまま応える。
「何だ」
「ちゃんと言ってなかった気がして……ありがとう。助けてくれて」
ヒトリのその言葉に、ジークは王子としての自負を感じながら答えた。
「礼の気持ちは受け取る。だが俺にしてみれば、政治的判断からの行動だ」
「理由なんて、どうでもいいの。あなたが助けてくれなかったら、わたしはきっと行き倒れてた。今、わたしが生きているのは、きっとあなたのおかげ」
ヒトリの声からは、緊張が抜けてきていた。毛布の温もりに気が緩んでいるのかもしれない。それはジークも同じだった。
「確かに、理由はどうでもいいな。お前を助けることになったのは成り行きだ。だが、お前は今俺にとって守るべき存在だ。守るといった以上、責任は取る」
自分に言い聞かせるようなその言葉は、ごまかしではない、彼の本心だった。
「俺はお前を守る。それが、俺自身の責任だ」
ジークの言葉に、ヒトリはそれを心の奥に沁みこませるように口を噤んだ後、
「ありがとう、ジーク」
熱と安心で緩やかに解れた声で言った。その潤んだような声色に、ジークは自らも心が柔らかくなるのを感じた。
そうしてそのまま静かに心を交わし、体温を分け合いながら、いつのまにか、ヒトリは安らかな寝息を立てていた。彼女の安らぎが得られたことを見届け、ジークもゆっくりと眠りへと落ちていった。
夜衣越しに触れ合う彼女の肌の温もりに、今は亡き、遠い日の母親のそれを思い出して、微かに胸の奥が疼くのを感じていた。
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