第1章(上) 黒の王国編

第一話 星の鳥、黒の空へ(1)

 闇に覆われた空に滲む淡い空灯エオリスの光が朧に照らす、暗く揺蕩う夜空の下。

 黒の王子・ジークは、王宮のテラスから、空を覆う夜空の帳を見つめていた。

 時刻は天刻十二時に近い。かつての世界の時間制で言うならば昼時である。

 であるにもかかわらず、空は澱みのような闇に覆われている。

 長い、長すぎる夜だった。

 彼の世界には、陽の光は注がない。そこは正真正銘の常夜の世界。

 あの地平線に光が昇り、この空を照らす時は、もう二百年もの昔から訪れない。

 ジークは黒い暗幕に覆われたような空を、強い眼差しでじっと見つめていた。

 そこには闇しかない。そこに晴れやかな光が訪れる光景を、彼は知らない。

 しかし、無言の空を射る彼の黒い瞳は、強い意志の、或いは希望の光を宿していた。

 その暗闇の先にある光が、この空に『夜明け』をもたらす、その時を見ているように。

 あるいは、光が訪れることを信じるように。

 空を覆う闇を見上げるその瞳に映るのは、その向こうにあるはずの光だった。

 

   ●

 

 星の核から、その力の権化である《鳥》が逃げ出した。

 永い夜に閉ざされたこの世界――惑星メルティジオルには、そんな伝説がある。

「星の鳥の喪失」と呼ばれるその伝説は、ただの伝説ではない。《星災せいさい》と後に名付けられた歴史的事実として、何らかの原因で二百年ほど前から惑星メルティジオルの空は明暗の境界を失い、時を止めた空に覆われた《明けない夜》に閉ざされてしまった。

 それまで空を覆っていた天陽の変転が失われたことで、人々の生活は変化を余儀なくされ、変化した星の環境は長い時間を経て生物や自然物にも影響を与えていった。

 そしてその運命的な分断は、世界の在り方をも変えることになった。

 薄明の土地に暗闇の夜は来ず、薄暮の土地に白明の朝は来ない。終わりなく空を覆う薄闇と薄明の中、それまで続いていた生活の前提が失われたことに、二百年前の人々は困惑した。

 そして、このことは領土問題にも大きく影響した。

 惑星の仕組みにより地勢の価値が大きく変化した中、安定した国営基盤を確保するためには、なるべく広範囲の資産となる地域を手中に収める必要があった。星軸の両極に位置する二国が明夜と暗夜の境界線を境に周囲の国や地域を吸収し、世界勢力は二分されることになった。

 二つの夜を戴く領域――白夜の王国と、黒夜の王国。

 星が動きを止め、夜明けが失われてから、世界は光と闇の領土を巡る争いを始めた。

 たった一つの前提が失われたことが、そこに住まう全ての生命と、人間の世界を、その全ての在り方を変えてしまったのである。


   ●


「…………」

 二百年前から変わらない、闇の雲霞の渦巻く空を、ジークは見つめていた。

 天空に滲む空灯は朧な影となって、空を覆う薄闇の向こうから、淡くささやかな冷たい光を常闇の世界に降り注がせている。陽光の絶えた世界に光の温もりは絶えて久しく、虫の声一つ聞こえない静寂の中に時折冷たい風が吹き抜ける。

 ジークは、何を言葉にするでもなく、誰に心をぶつけるでもなく、ただただ厳しい目をして深く静かな闇の渦巻く空を睨みつけるようにじっと見つめていた。

 彼のその厳しい視線は、生まれつきのもの、というだけではない。

 対岸の白夜の国との状況が思わしくないことへの苛立ち、でもない。

 彼の空を見つめる視線は、その闇のさらに向こうを見据えようとしていた。

 黒の王城に生まれ育った彼は、夜明けの光を見たことがない。現在十九歳になるジークが生まれる遥か昔から、すでに彼の国は闇の中に取り残されてしまっていた。彼が知る夜明けの光は、せいぜいが書物に語られる程度のもので、その光景を目にしたことはまだなかった。

 そして、だからこそ――ジークは夜明けに憧れた。

 この夜の闇が、光に塗り替えられていく光景を――救いにも似たその想像を、希求していた。

 この闇の世界の子供達は自分のように、陽の光を、その温もりを知らない。ジークは、かつて失われたことを忘れ去っているそんな世界の在り方がどうしようもなく歯痒かった。

 この王国に陽光が差さなくなって久しく、人々はその生活をもはや当然と思っているとしても――いや、だからこそ、そんな美しいものが忘れ去られてしまうのが、ジークは悔しかった。

 夜明けを、見てみたい。

 この世界の人々にも、夜明けの希望を知らせたい。

 それが彼の、闇の世界の王族の人間として、そして憧れる少年としての願いだった。

 この空に光が戻ることを、夜明けが訪れることを、彼は強く願っていた。

 そして同時に、ただ願うだけでは、その願いは叶わない――世界は変えられないということを知るがゆえに、もどかしいのである。

(気が、乱れているな)

 ジークはやがて、自分がそんなどうしようもない思いに熱くなっていることに気付いた。

 そして、目を閉じて小さく頭を振り、頭を冷やそうと空灯の滲む冷たい空に背を向けた。


「あれ? ジーク様?」

 自室から廊下に出たジークに呼びかける声があった。

 ジークは声のした方を向いて、ばつの悪そうな顔になった。

 彼の専属メイド、セリーヌが丁度、彼に言付けを持ってきたところだった。

 ジークより僅かに背の低い体は、大人の豊かな部分と子供のような可愛らしさを両方備えている。小柄な体を包むメイドドレスのミニスカートからは、滑らかな白いタイツに包まれたしなやかな美脚が覗く。ぱっちりとした瞳は豊かな情感を宿す紺青を湛え、ヘッドドレスを着けたミドルショートの黒髪の途中から、小さく尖った耳がぴょこんと突き出している。

 まずい時に遭った、とジークは苦い顔になった。

「こんな時間にどちらへ? もうすぐ中食のお時間ですよ」

 セリーヌは侍女の常として、主であるジークに訊ねる。

 中食というのは一日の中間の食事という意味である。太陽の出没で時間を計れなくなったこの世界において、かつての朝昼夕夜という時間区分はほとんど意味を成さなくなっていた。人は皆闇の中で起き、生き、眠る。今ではそれがこの闇の世界での普通の生活だった。

「散歩に出てくる。すぐ戻る」

「えー、また夜遊びですかぁ?」

 あからさまな表情で抗議を示すセリーヌに、ジークは苦い顔をした。

「すぐ戻ると言っているだろう。それにまだ終夜の時間じゃないだろうが」

「あら、夜の世界のお遊びは夜遊びです。何が違うんですか?」

 そして、腰に手を当ててたしなめるように言う。面倒なことになったと思ったジークはセリーヌから目を逸らして、がしがしと雑に頭を掻いた。

 が、セリーヌは侍女らしく姿勢を正すと、

「でも、ジーク様のお願いなら無下にはできません。今はまだ厨房が準備中ですから、ちょっとくらいなら大丈夫ですよ」

 今度はジークを助けるようにそう言う。そして「でも」と続け、

「お食事までには帰ってきてくださいね。私はこれでもジーク様の身の回りのお世話を任されている身なんですから、何かあれば監督不行届きで私の責任になるんですよ?」

 あくまで笑顔で注意を促した。その言葉にジークはぎこちない表情になった。

 昔からこうだ。からかうような道化じみた態度をとることもあれば、すぐに真面目な話へと態度を切り替えることもある。昔からセリーヌには世話になっているが、こういう態度のせいでいまいちつかみにくい。

 乳母の娘であり、幼い頃から最も身近な女性であった彼女には、昔からこの調子でよくからかわれてきた。あの頃は他に女性を知らなかったが故に、今にして思えば不覚にも心を動かされかけた記憶も胸にはあるが、自身の自覚もできた今ではもうそんなことはない。

 彼女は自分の専属の侍女であり、信頼のおける臣下であり、そして家族同然の身近な姉のような存在である。侍女としての分別と体裁を弁え、職務は忠実にこなしつつ、こんな風に一個人としての度量もあり、親しげな話も気兼ねなくできる存在として、ジークは彼女を心の底で信頼していた。

 まあ本人に直接そんな話をすれば、手玉に取られるネタを与えることになるので言わないが。

「わかってる。少し頭を冷やしてくるだけだ」

「ご機嫌が悪いのですか? 私が介抱して差し上げましょうか?」

「いい。食事までには戻る」

 ジークはぶっきらぼうにそう言って、セリーヌに背を向け廊下を歩き出した。

 後に残されたセリーヌは、廊下の奥にその背中が消えるまで見送った後、

「……ふぅ。ジーク様も悩めるお年頃なのね」

 ひとりそう呟いて、弟の成長を見守る姉のように、うふふ、と小さく笑った。


 上層にある自室を出た後、ジークは少しばかり急ぎ足で居城――ヴァイル黒夜城を出て、城下へと続く石畳の夜道を歩いていた。

 この城の名は、今から二百年前、この星が陽転を止め、二国の争いが始まってしばらくした当時からそう呼ばれるようになったらしい。ジークが生まれた頃には当然そう呼ばれるようになっており、それ以前のこの国や世界のことをジークは書物の他ではあまり詳しくは知らない。

(かつては、こちらの世界にも陽の光が差していたはずなんだ)

 静寂の満ちる夜道を歩きながら、ジークはもう何度目かもわからないその思惟に耽る。彼にとって陽の光とは、手の届かない夢想のような憧れであると同時に、一人の人間としての人生を懸ける悲願でもあった。

 この惑星の全ての人と同様、彼もまた伝説に聞く《太陽》というものの存在を実際にその目で見、その体で体感して知ったことがない。だからこそ、今はまだ方策もわからないが、それを見てみたいと願うことは年若き少年の心理として自然なことであった。

 城門を出たところで、ふと空を見上げる。今日の夜空は澱みも少なく、常に澱んだ闇の広がる黒夜の国の空においては、こんな夜空は良い天気にあたる。

 ここにないものは光だけ。だがそれはあまりにも大きい。

 いつか必ず、この空に光を――夜明けを。

 それは常夜の世界の人民として、それ以上に民を導く王族として、さらには一人の少年の願いとして、ジークの心に強く刻まれた思いだった。

 視線を天頂から下ろしていく。黒夜城は高台に聳える重厚な城であり、城下に続く道からは町の景色が一望できる。町には今日も、松明と光石による明かりがぽつぽつと灯っていた。

 人は完全な暗闇の中では何も見えない。たとえわずかでも光がなければ人は生きられない。光源となるのは、炎の他に、国の鉱山から産出されるそれらの自然発光する鉱物だけだった。人々はわずかな明かりに頼って細々と暮らしている。光と熱のないところに活力は生まれない。

(それもこれも、光がないからだ)

 ジークはそう思っていた。現実問題、我々には時間が限られている。

 薪木も光石もその産出量が有限であるなら、いずれその産出は尽きると言われている。そうなればこの世界は貴重な光源を失い、より一層の暗闇に迷うことになるだろう。それがいつのことになるかはまだわからないが、このまま光を失えばこの常夜の世界は永い暗闇に迷うことになる。その前にこの国を永らえさせる方策を見出さなければ、この国はいずれ闇の中に沈む。

 光と熱を失うということは、方途と活力を失い路頭に迷うということと同じ意味を持つ。この国を守り導く王族として、それを易々と見過ごすわけにはいかない。この常夜の世界に光をもたらすこと、或いは光まで導くことが、自分の果たすべき責務だとジークは考えていた。

 そんないつものもの思いの堂々巡りに陥りそうになっている自分を感じて、ジークは頭を振った。頭を冷やしに来たはずなのに、全く思考が楽になっていない。気付けばいつもこうして大きな事ばかり考えて頭を重くしていることが最近は多い。重責ある立場にありながら、人間としての柔軟な思考を持っている父や親友、国臣のことが羨ましかった。

 頭を軽くすることもできないまま、ジークは途方に暮れた目で空を見上げた。と、

「…………ん?」

 ジークは、空を見上げる視線の先に、何かが映っているのを見た。

 遠くの上空に、何かが――光るものが、飛んでいる?

 ジークは目をこすって、もう一度遠くの上空を凝視した。そして、確かに見た。

 闇に染まった空を飛行するそれは、眩い彩光を放つ、巨大な鳥のようだった。

 ジークは目を瞠った。この世界には多くの霊獣が存在するが、あれ程大きく、しかも強い光を放つ霊鳥は見たこともない。まさか伝説に聴く類のものだろうか。

 驚きはそれだけではない。この常闇に閉ざされた世界には、そもそもあのような強い光を放つ類の生物は生態系的にも存在しにくいのである。あれ程の光を放つ生物がこの領域に紛れ込んできたこと、それ自体が既に異常なことと言えた。

 だが、異常はそれだけに止まらなかった。

 ジークはその光る鳥の方角を凝視していて、気付いた。

 その鳥を追いかけるように飛んでいる、別の存在を。

 それは、白かった。

「‼」

 ジークはそれを視認し、驚愕した。

 それは、闇夜の中にありながらもその色を汚されることのない、白銀の鱗を纏った二騎の白竜。しかも、その側面に白王の国の紋章を付けている。つまり、敵国――白夜の国の飛竜騎兵だった。

(飛竜騎兵だと……なぜ、こんな突然に……?)

 ジークは突如訪れた異常事態にうろたえたが、すぐに冷静に状況を把握した。

 いくら両国が長い対立状態にあるからとはいえ、単機で奇襲をかけて戦況を変えられると思うほど状況は性急ではない。とするとあの飛竜は何か奇襲とは別の目的でわざわざ突然単機で敵国に、それも王都近辺まで突入するという危険を冒していると考えられる。

 敵本拠地への突入。それはほとんど国家戦略にも影響するほどの事態ともなりうる。そうさせるだけの何かが――、

(あの鳥に、あるというのか……?)

 ジークは上空を舞う光る鳥を見つめながら驚愕した。そして、再び気付いた。

 光の鳥が、少しずつその高度を下げていることに。ここからでは詳しいことはわからないが、このままでは墜落するだろう。

(くっ……!)

 ジークは振り返り、王城に向かって全速力で駆け戻った。

 もし自分の推測が正しければ、あの鳥は何か、この世界の――黒王国と白王国の争いの戦況を動かす重大な存在である可能性がある。そしてそれがこの状況で相手の手に落ちてしまえば、自分達は大きなカードを敵に握られてしまう。

 王城が事態を把握しているかはわからない。気付いた自分だけでも、何とかしてあの鳥を確保しなければ。

 世界が動き出すような、根拠のない不穏な予感に急かされて、ジークは走った。

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