序章 夜明け前
序章 Side:Sieg 夜明け前の別れ
時の止まった暗く澱む空に淡い
黒の王・グランヴァールは、黙し、死の床に就いている最愛の人の傍に立っていた。鋭気を宿した瞳は悲哀の色に陰り、王たる厳格なその表情には表し難い憂いが滲んでいた。
彼の目の前には、夜闇の中に艶を帯びて輝く真珠のように美しい女性が白く細い肢体に薄い掛衣を被せられ、ベッドに横たわっている。夜闇の中にあってなお煌めきを放つ純白の肌と白銀の髪、水晶のような透き通った銀色の瞳。微塵も動くことすら叶わず力なく横たわるその姿は、まるで今にもかき消えてしまいそうな白い幻影のようだった。
彼女――黒の王妃・シェネリスは、今にもそのか細い命の灯火を吹き消されようとしている。それまでは白い珠のように美しかった肌も、生気の抜けかけている今では痛々しい青白い色に映った。
息子は侍女や近臣共々、部屋の外で待たせてある。最後に二人きりの時間が欲しい、と言い出したのはシェネリスだったが、それはグランヴァールが言い出せないことを代弁したものだった。彼にとってこれが、彼女と二人だけでいられる、最後の時だった。
「綺麗な夜ね」
窓の外、淡い光を滲ませる深青の夜空に目を向け、シェネリスは微かな声で呟いた。彼女の言う通り、今夜は暗い空の澱みが薄く、まるで彼女の死に際を飾るように穏やかだった。それを聞いたグランヴァールが言った。
「こんな、明けない夜でも、美しいと思うか」
「そう……最期だから、かしらね。目に映るもの、みんな綺麗に見えるの。あなたのその気難しそうな顔も、いまはとても、優しそうで」
シェネリスは、ふふ、と微笑む。その、死の淵にあってなお夜の闇に光る彼女の微笑みに、グランヴァールの目が滲み、丈夫な胸の内がじくりと痛んだ。
「シェネリス……なぜ、お前が死ななければならないんだ」
運命に抗うかのように口にしたグランヴァールに、シェネリスはまた弱く笑った。
「時が巡ってきたということでしょう。ならば、受け容れるしかないのではないかしら。時運の巡りには誰も抗えない。むしろ、時が止まってしまったこの星で、来るべき時を迎えられるのは、幸せなことかもしれないわ」
「恐れないのか」
問うように零したグランヴァールに、シェネリスは困ったような笑みを浮かべた。
「意地悪なことを言わないで。そんなこと、あなたならわかっているでしょう。恐れなど、今はもういらないわ。いま、最期の時に愛するあなたが傍にいてくれる、それだけでいいの。この先のことは、もういらない。最期にあなたがそばにいてくれて、私は幸せよ」
言って、シェネリスは力なく垂れた青白く細い腕をそっと上げた。その白く小さな手を、グランヴァールは硝子を取るかのように、そっと取り、静かに握り締めた。シェネリスが嬉しそうに笑み、力のない手をぎゅっと握り返してくる。消えゆく命を想いに燃やす切なさに、グランヴァールの胸が激しく震えた。
「ありがとう、グラン。愛しているわ。どうか、いつまでも私の愛した気高いあなたであって」
「シェネリス……」
胸の底から湧き上がる炎のような感情が、全身に熱い血潮のように駆け巡っていく。グランヴァールはシェネリスの瞳を見つめ、シェネリスは瞳を潤ませながら小さく頷いた。
淡い灯影の光の下、黒を纏った影が、白い床に横たわる彼女を抱き起こし、唇を重ねた。
純色の愛の潤う刹那の永遠のような時間が過ぎた後、空灯に照らされた二つの影はそっと唇を離した。灯影に照らされたシェネリスの表情は、全てを満たされた静かな喜びに染まっていた。
「ねえ、あなた……ジーク達を呼んで。もう、あまり時間もないみたいだから」
全てを悟ったグランヴァールも頷きを返し、扉の外にいる息子達に呼びかける。
「ジーク、入れ」
その言葉に、ややの間があった後、ゆっくりと扉が開き、その後ろから黒い貴族の装束を身に着けた少年が姿を現した。気丈に見せようとしているその表情は、かえってその奥にあるどうしようもない揺れを隠せずにいた。彼の後ろに続いて、侍女服に身を包んだ小柄な少女と、黒の軍服を身に着けた青年が入ってきた。
少年――黒の王子・ジークは、グランヴァールの元まで歩いていくことができずに、部屋の中ほどで足を止めた。グランヴァールの厳かな視線がいつもと違う憂いに満ちていることに、そして、目の前で母の命が消えようとしているということに、ただならない緊張を隠すことができずにいた。
彼のその緊張を感じ取ったシェネリスは、それをほぐすように優しい声で呼びかけた。
「ジーク、もっとこっちへいらっしゃい。怖がらなくていいから」
「はい」
恐縮するように返し、ジークはゆっくりと足を進め、付き人達と共に、グランヴァールの隣、床に伏せるシェネリスの前まで辿り着き、母の光の消えそうな瞳を切望するように見つめた。その瞳に映る彼の耐え難いほどの揺れを見たシェネリスは、母としての言葉を口にした。
「その瞳……グランにそっくりね。不器用だけれど、真っ直ぐで、迷いがなくて。大切だと決めたことは、何が何でも守ろうとする、優しくて、強い瞳。グランとの間にあなたを産めたこと、こんなに立派に育ってくれたこと……私は、誇りに思うわ」
「母上……」
シェネリスのその言葉に、ジークの心の底に溜まっていた暗い思いが、海底の火山のように熱を帯びて、胸の奥から言葉となってせり上がってきた。
「俺はまだ、立派でも何でもありません。俺はまだ、何一つ、父上にも、臣下にも、国民のためにも、何一つ成せていない。母上を救うこともできない……何の力も持たない、未熟者です」
それは、ジークにとって、血を吐くような想いだった。もしも自分に力があったなら、何かを変えることができたのだろうか。あるいはそれでも母の死を止めることはできなかったのか。止め処ない自戒の思いが渦を巻いて、ジークの胸を痛みに染めていく。
ジークのその内心の懊悩を拭うように、シェネリスは優しく笑った。
「それでもよ。私とグランの間にあなたが生まれてくれて、こうして私が死んだ後も生き続けてくれる……それだけで、私はいつまででも幸せでいられる気がするの。あなたが生きていてくれるなら、私はこうして、笑って最期を迎えることができる。それだけでいいのよ」
「母上……」
悲痛な悔しさに苛まれるジークに、シェネリスは病床からそっと手を伸ばした。ジークが導かれるようにその手を取ると、シェネリスは穏やかに笑みながら、彼にその心を伝え遺すように言った。
「あなたは、私とグランの子。彼の血を継いだあなたならきっと、あなたが目指す姿にあなたを導くことができるはずよ。どうか、あなたが何かを願うのなら、そのことを忘れないで。あなたは強い子。どうか、あなたの望む未来を導けることを、私は願っているわ」
シェネリスはそう言って、彼の未来を祝福するように微笑んだ。胸に沁み込む水のような想いに、ジークの胸が滲むように痛んだ。
「セリーヌ、ヴェルクス。今までありがとう。これからも、この子をよろしくね」
「はい……お任せください!」
「お任せを」
シェネリスの言葉に、近衛の二人――侍女のセリーヌはぐすりと涙ぐみながら、軍服の青年ヴェルクスはいつもならぬ厳粛な言葉で、それぞれに、決意と覚悟を持って返事をした。それに満足げに笑むと、シェネリスは再び顔を傾けて、ジークの目を見た。
彼女の瞳から微かに光が薄れたのを見たその時――時が近いことを、ふいにジークは悟った。そして、迫り来る時の残酷な歩みを前に、言葉を出せない自分を責めた。
それを悟ったシェネリスは、ジークの頬に手を触れさせながら、最後の言葉を紡ぐ。
「強く生きて、ジーク。あなたは私と彼の子。どうか勇敢に、この世界を導いて。あなたなら、きっとできるわ。私の願いは、あなたに託すから」
「……はい」
ジークは、頬に当てられたシェネリスの冷たくなっていく手を自分の手で包み込み、胸を打ち震わせながら、彼女の託してくれた最後の言葉を、噛み締めるように聞いていた。
シェネリスはくすりと弱く微笑むと、ふと何かを気にしたかのように、首を傾けて、微かな空灯の明かりが差し込む窓の方を見た。窓の外には、もう永いこと変わらない静かな夜闇が、淡い空灯の明かりと混ざり合って、静寂を満たしている。
光の差し込む窓を眺めながら、消え行く忘我のように、シェネリスは呟いた。
「ねえ、あなた……もしも、この夜がまた明けたなら……………………」
か細く詠うような声は、夜の静寂に微かに溶けるように消えた。自らの頬にある彼女の手が、冷たく、力を失ったのを、ジークは感じ取った。
グランヴァールが跪き、セリーヌはジークの傍に寄り、ヴェルクスは事後処理を手伝うべく、グランヴァールの王としての言葉を待つ。
徐々に人々が動き出す中、ジークは、力を失った母の手を眺めながら、彼女のくれた言葉を思い返していた。
ねえ、あなた……もしも、この夜がまた明けたなら…………――――
母が最期に口にした、願いのようなその言葉を、ジークは忘れることができなかった。
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