ポリグラフ・トイズラブ

早稲田暴力会

「お願い。あの子が嘘つきなんかじゃないって証明して」

 夕日の差す教室。窓の外には風にざわめく木々と、オレンジ色に染め上げられたせいで空と見分けのつかなくなった入道雲があった。いくつ、どんな割合で色を重ねれば、この散らばってしまいそうな橙色が描けるだろうか。

 机に寄りかかったまま、俺はゆっくりと視線をずらす。同じサイズの机と椅子が整然と並ぶハコ。ゆるりとそれらを横切って、ちょうど後ろ側の入口近くに立つ女子を見た。夏用の学生服、紺色のスカートに白いブラウス。その色合いさえ、全部夕日のせいかもしれなかった。

「舞は、盗みなんかしてないって……無実なのは本当だって、証明して」

 俺は探偵ではなく、彼女のクラスメイトに過ぎない。だからすぐさま、嫌だとか義理がないとか、そうやって突っぱねても問題ない。むしろ素直に言うことを聞くほうがおかしい、高校生にもなって探偵ごっこなんて恥ずかしい……はずだった。ただ一つの要因を除いて。

 今まさに依頼者として佇む女子の言葉が、本当に心の底からの嘆願だと分かってしまうことさえなければ。


 生まれつき人間の嘘を見抜いてしまう体質が、今までとは違うパターンで、俺の日常を引っ掻き回そうとしていた。



 その日、確かに俺はうかつだったかもしれない。

 教室に入る時から注意散漫だったし、常に眠気が意識のどこかを圧迫していた。

 開けっ放しのドアから教室に入り、自分の席に座る。肩にかけていた通学カバンを床に下ろした際、わき腹をつつかれた。

「おはよ、榊原」

 振り向けば、いかにもな陽キャの笑顔があった。ハンドボール部の山内。昨年から同じクラスで、なんだかんだよくつるんでいる相手だ。俺の斜め後ろの席に座ったまま、腕を伸ばしている。

「はよ」

 誰とでも分け隔てなく接する山内は、いまいち協調性のないうちのクラスでは貴重な存在だった。お調子者、という言葉がふさわしいだろうか。

 そしてそれ以上に、人助けの好きなやつだった。多くのクラスメイトに、親身になって悩みや問題解決の手助けをしていた。

「昨日のM1見た? 今年差がつきすぎじゃね?」

「見たよ。優勝は間違いなくぶっちぎりだけど、他がひどかったな」

 席に座らず、机に腰を預けて山内に向き直る。周囲にいる生徒が、そこはかとなく身体を起き上がらせるのが視界に入った。話に混ざろうとする前準備だ。いつでも、身体を俺と山内に向けられるようにしている。

「やっぱ最近のより少し前のがいいな。今は愛くるしいなあお前はーみたいなフレーズがねえし」

「それな。俺M1終わった後、ネットでトータルテンボスのペットショップのコント見たもん」

「お前どんだけ好きなんだよ」

 事実、そうしたくなるぐらいには虚無感に苛まれたのだ。山内は手を叩いて笑っている。

「でもほら、イケメンコンビみたいな煽りだったとこ、少し榊原の推しと似てたくね?」

「あー、チュートか……いや似てねえだろ。でもあの組、冷蔵庫のネタだけはめっちゃ好きだったわ」

「冷蔵庫わかるわー。あそこ床バンバン叩いて笑っちゃったし」

 山内の言葉を聞いて、俺は相好を崩す。

 こうして共通の話題で会話することは、連帯意識につながる。それは教室という共同体の中でもう一つ小さい枠で、残念なことに、連帯できる相手の数は限られている。だからこそ、今近くの席の連中は隙を窺っているのだ。

 そして連帯意識を育む上で必要なのは――必要というよりどうしても発生してしまうのが――嘘だ。

 今の会話の中で、俺は三度反応した。俺がというより、正確には、俺に宿る超感覚のような何かが、だ。

 一つ目は山内の『少し前のがいい』。これは真っ赤な嘘だ。別段、何か視覚的に、あるいは聴覚的に通常と異なって感じるわけではない。ただ頭の中で、これは嘘だなという警鐘が鳴るのだ。

 最初は信用していなかったが、長年付き合っていれば、この警鐘の信ぴょう性だって想像がつく。恐らく、百パーセント、あるいはそれに近い精度を誇っている。中学の修学旅行の夜、男子部屋で好きな人の話になった時、半々程度で警鐘が反応した。後でそれぞれ二人になった時に聞いてみれば、やはり反応した相手はその時嘘をついたと言い、反応しなかった相手は、そこからガチの恋愛相談が始まった。

 もちろん完璧な検証とは言えないものの、俺はこの超感覚のことを、大体合っている、と認識している。肉声でなくても発動するこれは、テレビに出るタレントの嘘すら暴く。それに照らし合わせれば、山内の嘘が俺の望むにせよ望まないにせよあぶりだされる。

 二つ目の嘘は、山内の『冷蔵庫のネタ面白かったよね』だ。全然面白くなかったんだと思う。

 そして三つ目は俺の、『冷蔵庫のネタは好きだった』だ。全然面白くなかったんだ。

 この超感覚は自分自身の嘘にすら反応する。だから、こうして日常を送るだけで絶対にその存在を露わにする。嘘を交えずに誰かと話をするなんて、できっこない。いや話だけならできるんだろうが、そう。うまくやっていく上では、必要なはずだ。

 山内だって嘘をついている。嘘をつくからこそ、うまくやれている。

「え、俺も昨日M1見たんだけどさ、優勝は実際面白かったくない?」

 山内の前の席に座っていた、前髪が目にかかり始めている野暮ったい男子が身体をこちらに向けた。

 こいつ、M1見たところから嘘なのかよ。それはあきらめろよ。どうせさっきまでスマホでM1の感想調べてて、誤魔化せそうだと判断してから入ってきたんだろう。

 でも彼は山内に、親から寄せられる受験へのプレッシャーの問題を解決してもらったという過去があった。それは噂にもなっていた。山内は根本的に、彼につきっきりで勉強を教えて、両親が求めるレベルまで彼の学力を上げるという、普通はやらない方法で問題を解決した、そういうつながりがあるから、話しかけたいという気持ちは分かる。恩がある、なついている。

 一から十まで嘘な発言を皮切りに、他の生徒らも話に入ってくる。あるいは言葉を発さずとも、周囲に集まってくる。言葉が増えれば、母数が増える。母数が増えれば、その中に含まれる嘘の数も増える。嘘の数が増えれば、俺の頭の中で警鐘が鳴り響く回数も増える。最悪の論理だ。

「おーみんな見てた? やっぱM1は見逃せねえよな」

 嬉しそうな山内の言葉。『M1は見逃せない』が嘘だ。山内は嘘の傾向からして、テレビ番組を他人と話を合わせるために見ている。まあ、俺だってそうだけど。

 こうして誰かの嘘をずっと突きつけられていると、一体全体俺は何にこの力を使えばいいのかと思う。表情の動き。声のトーン。心拍数。脳波、血圧……嘘を見抜くために人間が判断材料とする多くは不確実でその効果を絶対視することはできない。だから本来、他人の嘘を百パーセント見抜くことなんてできっこない。できないはずのことが、俺は生まれつき、できる。人間の嘘を脳が勝手に読み解き、俺の意識へと伝達する。超能力なのか、それとも脳が異常発達しているのか。調べようとも思わないこの特殊な能力。それこそ警察か、探偵か、そのあたりに必要なスキルなんじゃないだろうか。

「あーでもほら、なんかさ、空き巣の漫才あったじゃん。俺あれちょっと見てて笑えなかったなー」

 最初に話に入ってきた男子が、真っ赤な嘘をつく。見てなかったから当然だ。そういう内容があったと、ネットで調べただけなのだろう。そしてこれはウケると確信して、今言い放った。

 空き巣――俺は一瞬だけ、教室を見渡した。眼鏡をかけたショートカットの女子生徒が、手に持っていた文庫本と顔の距離を近づけた。それは身をかがめて、今にも飛びだそうとする姿勢にも見えた。

「おい、お前、今のマジおもんねーよ」

 山内が真顔であっけらかんという。薄っぺらい言葉は、逆に解釈の余地をはらんでいて、発言の主は委縮したように「悪い」と下手な作り笑いを浮かべた。山内の言葉は嘘偽りない本心で、俺はこいつのそういうところが好きでつるんでいた。

 山内はすぐに、フォローするかのように、その男子に身体を向けて談笑する。けれど場の空気はそう簡単には変わらない。

 空き巣。窃盗。すぐに連想できる。それはこの教室において、ここ最近トレンドの言葉だった。表立って言わない、けれどクラスのメンバー同士や、他のクラスの人間と話す時に、よく話題に上がる言葉。裏ランキングと言っていい。もう裏サイトなんてくだらないものは存在しない世代だが、そういった掲示板がなくとも悪意は簡単に伝播する。

 今週発生した盗難事件。

 このクラスに在籍する松井英里奈という帰宅部の女子生徒の体操服が消えた。

 当然大問題になっている。立派な窃盗だし、盗んだ相手が男子だったりしたら、それはもう大騒ぎになるだろう。

 俺は立ったまま、名前も覚えていない生徒たちの真ん中から、窓際の席に座る松井を見た。長い黒髪を二つに束ねて、肩から胸にかけて下ろしていた。男子から人気のある女子で、それは愛想がよくて、リアクションが大げさだからで、最後に、顔が整っていて制服越しに胸のふくらみがわかるぐらいに発育しているからだった。どうしても、どうしても、俺はそうして彼女にこびへつらうこと自体が男子の中でブームというか当然の事項のようになっているのが気持ち悪くて、その一連の流れやそれにかかわる人間全員に対して苦手意識を持っている。軽蔑している。はずみで、彼女自身もかなり苦手だった。プリントを渡した時なんかに大げさに感謝されると直視できなかった。俺もその構造の中に組み込まれようとしているのかあるいは傍から見たらもう組み込まれているのかと考えるだけで悲しくなった。

 松井は窓の外をぼうっと見ていた。

 松井の体操服を盗んだと噂になっている生徒は、彼女の二つ前の席に座っている。

 文芸部に所属する、平坂舞。地味な女子だった。ショートカットで眼鏡をかけて、とにかく自分を目立たせないよう努力している印象だった。とても盗みをするような人には思えない。けれど噂は既に半ば事実として流布されている。誰が言いだしたのかもわからない。『こういう噂を聞いた』というだけでは、俺の超感覚は噂自体の真偽を確かめられない。

「でも、ロッカーの鍵とか新しくなったのはよかったよねー」

「鍵あるだけで安心だわ、盗られるかもって怖かったし」

「誰がお前のロッカーあさるんだよ」

 気づけばお笑い番組の話から、周囲が盗難騒ぎの話にシフトしつつある。

 山内を見た。一言も発することなく、笑みを浮かべていた。きっと俺も同じような表情だと思った。

 俺の真後ろ、山内の隣の席に座る女子が確かに平坂を一瞥した。

「別に、あんだけいろんな人にこび売ってたら、松井相手に勘違いするやついてもおかしくはないんじゃない? ……まーでも本当に犯人だったら、男じゃなくて女の体操服盗るオンナってことだよね」

 露骨だった。教室の温度が一つ上がる。笑い声になりかけの相槌が打たれる。良心と空気が、各々の中でせめぎ合っているのが感じ取れる。俺の後ろの席の女子。名前は何だったか……若松。確か若松だ。吹奏楽部で、フルートを担当してる女子だ。こないだの定期演奏会で、ソロパートを担当していた。音楽室は校舎四階の外側へせりだすような形のバルコニーがあって、彼女はよくそこを独占して練習していた。バルコニーの女王とかいうあだ名もあったような気がする。もしくは四階の女王。

 そしてバルコニーの女王は、明らかに、平坂を害そうとしていた。

 俺はずっと平坂を見ていた。何も言わず文庫本を見つめる彼女を、見ていた。ページはしばらくめくられていない。

「別にわかんないじゃん。噂は噂だし。……なあ、平坂さん」

 ギョッとした――山内の言葉。馬鹿か、お前。何言ってんだ。

 突然名を呼ばれて、平坂の肩が跳ねた。文庫本を保持している手が固まっている。恐る恐る、こちらに振り向く。一番最初に視線が交わったのは俺だった。

 とび色の瞳。

 撃ち抜かれて、動けなくなる。

「やったの? やってないでしょ?」

「……やって、ないよ」

 意図は。山内の意図は。わかった。あまりに強引だと思った。山内はそれを聞いて、ほら、だからもういいじゃんとまとめに入った。ただいたずらに、平坂に精神的な負担を強いるだけだと思った。でも多分、この場でこれ以上悪感情をぶつけられないようにするためには、こうして手早く済ませたほうがいいかもしれないなと思った。平坂がしばらくキョドってから、本に視線を戻す。俺はずっとそれを見ていた。

 周囲の生徒らは山内がもうこの話を続けるつもりがないことを察して、あいまいな笑みを浮かべる。それに逆らおうとしているのは、若松だけだった。一度掴んだイニシアティブを手放したくないのだろうか。なおも平坂が犯人であるという噂に乗っかって、その論調を続けようとする。

「いや犯人はみんなそう言うじゃん。大体さ、あの子って」

「ありゃやってないな」

 言葉が勝手に転がり出た。

 震えもせず、驚くほど教室に通る声だった。聞き慣れた、それでいて、初めて聞くような力強さを持った声だった。

 弾かれたように平坂が、そして視界の隅で松井が、こちらに振り向いた。

 その場にいる全員が俺を見ている。俺はそういう立場じゃない。だからこんな風にして場を貫くような言葉を発するのは俺のキャラじゃない。

 けれど。

 けれども。

『……やって、ないよ』

わかった。わかってしまった。ああ畜生聞くんじゃなかった。

 真実だ――クソ、真実じゃないか!

 やってない。それが本当なら。畜生、灰色でいてほしかった。この盗難騒ぎに関する噂の流布は、まるで嘘八百のでたらめが彼女を傷つけているということになる。

「え? なんで?」

 若松の声に若干のとげを感じた。慌てて、両手を挙げる。

「全然。直感だって」

 はは、と笑った。乾いた声だった。それだけだった。それ以上は根拠がない。ただ俺が、俺だけが、彼女の真実を知った。証明のしようもない。

 若松が何か食い下がろうと口を開いた瞬間に、山内がインターセプトした。直感も馬鹿にできねえよな、こないだチャリ乗ってたんだけど、なんか止まんなきゃって思って止まったら野良猫が飛びだしてきてさ――嘘、百パーセントの嘘だった。それをみんなで聞きながら、俺はずるずると座り込むようにして、自分の、椅子に腰かける。

 教室の照明が机に照り返す。唇をかんだ。そして俺は、その時やっと、自分が信じられないほど強く拳を握りこんでいたことに気づいた。



 授業には、結局集中できなかった。

 頭のどこかで――もし平坂の潔白を証明するなら、と考えていた。現実的なプランを組み、それに必要なコストを計算した。リターンを度外視している自分に無性に腹が立った。ほとんど妄想だ。その妄想において、俺は、俺自身をヒロイックな存在に仕立て上げてそれに酔う自分の存在を嫌でも自覚した。最低最悪の一言に尽きる、劣悪な精神だと思った。

 放課後になって、みんなが部活に行く、あるいは帰宅する。人間が動けば空気が動く。空気の動きは流れになる。俺はいつも流れに逆らわず、なるべく楽をしていたのに、その日は席からこれっぽっちも動けなかった。

「榊原、帰んねーの?」

 びくりと震えた。山内の声だった。振り向けば、訝し気な視線を向けられている。慌てて口を開く。

「ああ、なんか、今日親が帰り遅くてさ、ほら、俺真面目だから自学自習するカンジで。文武両道を地でいくためにもな」

「お前帰宅部だろ」

 想像通りに会話のテンポを作り上げられて、安堵した。自身の発言に鳴り響く警鐘は無視した。

「部活終わってもまだ残ってたら、一緒帰ろうぜ。向かいのスーパー、三日間ぐらいアイス安売りしてるらしい」

「やば、絶対行くわ」

 互いにそう言って、また明日なと言って、それから山内はしばらく黙った。

「……山内?」

「…………今朝のあれ、どうしたらいいと思う?」

 最初に、教室を見渡した。他に生徒はいなかった。

「あれって、その、平坂のことだよな」

「ああ。俺、結構マジで、信じてはいないし」

 声のトーンだけは冗談話をする時と同じだった。警鐘は響かない。

「だからさ、榊原が、やってないだろって言った時……安心したよ。お前も平坂を信じてるんだって。まあ、俺らそんな仲良しなわけじゃないけどな、あの子と」

 返しようのない言葉に、視線をそらす。

 俺とお前は、違う。

 お前のそれは、もっと違う。まぶしい。違う。クソ。俺は勝手に答えを見ただけなんだお前に見たいに他人を信じられるわけじゃない。

 こいつにだって事情があるのだろう。

 何か、他人を信じることに理由を持たない背景があるのだろう。

 俺はそれを知らない。だから山内のように、ただ他人を信じる、信じられる存在のことを理解できない。

「部活、遅れるぞ」

「あ、ああ。マジじゃんやっべ。じゃ、先帰るカンジなら連絡くれよ」

 教室の時計を見てから、山内は慌てて出ていった。

 背中を見送って、それから席を立つ。無人の教室。受験を来年に控えていて、真面目に勉強したいなら自習室に行く。わざわざ教室に残る生徒はあんまりいない。

 歩こうとして、うまく進めなくて、結局今朝のように自分の机に腰かけた。それから、窓側を見た。四角に区切られた夕日が教室に差し込んでいた。教室という巨大な本に差されたしおりのようだった。

 分かっている。本当は、こんな力何の役にも立たないってこと、わかってる。そりゃ便利ではあるがそれは誰かの役に立てるってことじゃない。本当に必要とされて、本当に善いのは、裏表を確認することなく信じてやれることなのだ。そうでありたいと願う。そうであれたならと願っていた。無理だ。信じる前に全てを見透かす人間には、もう、信じる信じないということがない。冷たい事実と虚偽が横たわっているだけだ。

 窓の外を見た。橙色、一色の世界。これは間違った色彩なのだ。俺の目の前には多種多様な嘘が積み上げられている。善意の嘘、悪意の嘘、その程度も違う。グロテスクにカラフルな、その欺瞞が、俺の世界を構成する。

 けれどみんなは、白黒をつける、信じるか信じないかを選ぶ二択なんだから、その二色で世界が構成されている。そのモノトーンの世界に、ずっと憧れている。いやもっと言えば、白か黒かを決める時に迷うことなく白を選べる人間に。

「信じたかったよ、俺だって……」

 独り言ちた。それから、夢想する。何の根拠もなく平坂の無実を信じられる自分。それはどれだけ尊い行いなのだろうか。

『安心したよ。お前も平坂を信じてるんだって』

 声は鼓膜にこびりついている。かぶりを振った。最悪の気分だった。俺はお前とは違う。違うんだよ山内。俺はお前みたいになれない。俺も、本当に、平坂を信じられていたら……それなら、どれだけよかったんだろう。お前はどうして信じられるんだ。畜生。

 うつむいて、奥歯をかみしめた。

 もう無理だって、ああなろうとしてもなれないってわかってるのに、それでも俺は山内とつるんでしまう。彼のすぐそばにいれば、いつか俺も……夢物語だ。夢と現の区別がつかない、阿呆だ。

 幻滅を繰り返しているうちに、影と陽の角度が変わっていく。俺はのそりと顔を上げた。時計を見れば、少し時間がたっていた。どうしようか、どうすればいいんだろう。

 不意に、視界の隅に影が見えた。思わずそちらを見た。

 松井英里奈がいた。

 彼女は後ろのドア近くに立って、じっと俺を見ていた。

 しばらくの沈黙を挟んでから、なんとか、干上がった声を出した。

「忘れ物、とか?」

「ううん、違うよ」

 カバンを肩にかけているということは、帰ろうとしてから戻ってきたはずだ。忘れ物、じゃないらしい。言葉に嘘はない。

「私、やっぱり、榊原君の力を借りたいと思った」

「……はい?」

「舞の、平坂舞の無実。今朝言ってたよね、やってないって。信じてくれてるんだよね、舞のこと」

「え、いや、それは」

 俺が弁解する余地もない。彼女はカバンを床に落として、俺に強い視線を向けた。

 その視線の先には揺るがない何かがあった。

「お願い。あの子が嘘つきなんかじゃないって証明して」



 松井は間近で見れば、本当に顔の整った女子だった。緻密だと思った。設計段階から、何かが他の人間と違う。多分、設計のギャラが違ったんだ。

 今、二人きりの教室で、彼女はいつにない真剣な表情で若松の席に座っている。俺は自分の椅子にまたがって、真後ろの彼女と相対している。

「……で、何。松井は、誰がやったのか知ってるのか」

「ううん、知らない」

 首を横に振られる。素朴なリアクションだった。嘘ではないので、本当に知らないようだ。

「じゃあなんで、平坂がやってないって言えるんだよ」

「舞は絶対にしない」

 断固たる声色。嘘でもない。

 思わず、眉を寄せる。

「松井って、何、平坂と知り合いなのか?」

「……幼馴染だよ」

 初耳だった。何より、それらしいやり取りは一度も。会話をしたことすら見たことはない。俺の訝し気な様子に感づいて、彼女は髪を弄りながら言葉を続ける。

「小学校の時、六年間クラスが同じでね。でも少ししか話してなくて、だけど、人となりみたいなのは分かってるつもり」

「あー……なるほどな。月日だけは無駄に重ねてるけど親密さにつながるわけじゃなかったってパターンか。結局、意識的に話しかけたりしないと、あんま仲良くなれなかったりするしな」」

「そう、そうなの。だから、もっと仲いいカンジ出しておけば、こんなことならなかったのかもな、って」

 珍しい自虐的な笑みに、瞠目する。警鐘は鳴らない。

「いやそんな、それで松井を責めるのは、無理があるだろ」

 本心だった。松井は少しはにかむ。表情に反応することはないが、超感覚なしでも、無理した笑みだというのは分かった。

「……だったら、とにかく、舞がやったみたいな噂を根絶できたらなって」

「根絶ってお前」

 物騒な物言いだった。

「どうすればいいかな」

「んー、一番は真犯人をとっちめることだけど……まず、平坂自身、結構弱気だしな」

 今朝こそ、山内の問いに答えてはいた。けれど俺は彼女自身の意思表明をあの場で初めて聞いたのだ。彼女と少し交流のあったクラスメイトも、噂のせいで遠巻きになっている。あの環境で、味方なしに自分の潔白を叫ぶのは厳しいだろう。

「だよね。舞、今全然味方いないし……私も、舞じゃないと思うって言っても、みんな『気を遣わなくてもいいよ』とかって。別に気を遣ってるわけじゃないしっ」

「お前、普段の言動がアレだからだろ、それ」

「アレって何」

 心外ですと言わんばかりに松井はまなじりを釣り上げる。

 ああでも、そうか、俺は確かに彼女のことは苦手だったが、彼女の感情表現に対しては、警鐘が鳴ったことなどないのだ。

 思いだして、なんだか後ろめたくなった。俺はただ思った通りの行動をしているだけの彼女を、一方的に苦手に思っていたのだ。その心を誤魔化すように声を張り上げる。

「見え方だよな。本心からでも、他人からすれば嘘っぽく、演技っぽく見えることはあるし」

「……演技じゃない、って、思うの?」

「演技じゃないだろ……あ」

 まずい。気が抜けていた。

 見れば松井はぽかんとしている。そりゃ、そうだ。なんで俺が彼女の心理に精通しているんだ、怖すぎるだろ。

「あはは。今、結構うれしかったかも」

 警鐘は鳴らない。鳴ってほしかった。

「でも、とにかく、私からじゃフォローするのに限界があるっぽい。だって私、被害者なワケだし。なんとなくみんな、私と舞、どっちもから距離を置いておけば、安全圏だって思ってる感じがする」

「そりゃそうだろうな。徹底的に第三者であれば、それだけで箔がつくだろ。自分は冷静な観察者なので、ああ、そう。自分の意見は、偏見じゃありません、ってな、はは」

 言葉に詰まった。松井が俺を不思議そうに見ている。詰まった理由は明白だった。

「……要するに、俺だよ。俺も同じだし。そういうポジション、安全だって、思ってたし、今でも思ってるよ」

 幻滅を通り越して、怒りを覚えるような言葉だった。

 真偽があいまいなままであってほしかった。それならば、何を言っても罪には問われないから。『いやあ、まさかあんな真相があったなんて思いませんでしたよ』って、名探偵が謎を解いた後に感想を漏らすモブになれるから。それは決して、誰にも咎められることはないという特権を持っているから。

 反吐が出る。どうあがいたって、超えられないボーダーラインがある。それは自分の社会的な地位とか、自尊心とかを保持してくれる、セーフティラインだ。でもその線を越えなければ見えないものもある。きっと見えるものは美しくて、でも対価を見た時に、足踏みして、踏みださない。手の中にあるものに固執する。

 最悪だ。俺は、一体こんなザマで、どうして山内をうらやむことができるんだろう。

 土俵にすら上がっていない。上がる度胸がない。

 松井はしばらく沈黙してから、そっと、机の上にだれた。至近距離に彼女の顔が落ちてくる。

「でも榊原君は、あの時声を上げてくれたよ」

「…………」

 違う――

「あの時、私ね。嬉しかったんだ。みんながみんな、舞を疑ってるわけじゃないって。山内君もそうだったけど、結構事態収拾のためかな? って思っちゃって。でも榊原君は、本心が思わず出ちゃったってカンジだったよね」

 違う、違う、違う――

「だから榊原君のこと、頼りたいって思った。帰りながら、どうしよう、どうしようって思って……もし君がまだ教室にいたら、頼ろうって思った。もちろん、絶対何とかして! とかじゃないんだけど。でもさ」

 違うんだ、ごめんなさい。俺は、そんな、頼られるような人間じゃなくて。

 ズルをしていて。間違った方法を取っていて。決して、君たちのように信じられたわけじゃなくて――

「榊原君みたいな人がいるってだけで、私は救われた。あと、舞も、救いになってると思う」

 これ以上なく、静かな空間が起き上がった。

 警鐘は、影もない。彼女は本心から言ってくれていた。

 救いになった。でも何かができるわけじゃない。能動的ではなく、ただ知覚した情報をロボットのように真と偽の箱に割り振るだけの、くだらない機能。

 窓の外を見た。木々が揺れている。夕暮れを背景に、存在そのものとシルエットの境界線があいまいになった状態で揺れている。風が吹いている。

 使いこなせなかった、何かに能動的に使おうとも思わなかったこの超感覚。

 これが原因で、俺が松井から信頼されてしまったのだとしたら。

 俺はその信頼に、応える義務があるのではないだろうか。

「なあ、松井」

「うん、何?」

「……結局何もできなかったら、ごめん」

 松井は数瞬押し黙る。沈黙は永劫に感じられた。

「――分かった。榊原君のこと、信じるよ」

 話聞いてなかったのかよ、と文句を言う暇もなかった。彼女の言葉は真実だった。

 松井は俺を、信じている。理由もなく。

 嘘でないことが分かって、いつも通りに、俺は拳を握る。こうやって何の根拠もなく他人を信じる人間が苦手だから。

 でも。

 その信頼を向けられた時、それに報いたいと思った。



 翌日登校すれば、既に松井は席に座って他の女子と談笑していた。

 それを視界の隅に収めつつ、自分の席に向かう。

「おはよ、榊原」

「はよ」

 いつも通りに、俺より前に登校していた山内があいさつをしてくる。

「昨日は連絡ありがとな」

「いや、連絡せずに先に帰ってたら、俺、薄情すぎるだろ」

「はははっ、そりゃ友達やめるわ」

 嘘だ。でもこの嘘は、嘘でよかったと安堵できる嘘だ。

 何でもない風に笑いながら、俺はそっと教室に視線を滑らせる。

 いくつかのグループが固まっている。どれも二、三人程度。山内がノリ始めて、みんなが乗っかれば、必然この席近辺が一番盛り上がる。そういう時に他のグループは沈静化する。会話はするが、細々としたものになる。それはまずい。

「……ああそうだ、松井っ」

 少し離れた席の彼女を呼べば、松井は驚愕も露わに俺を見た。

「こないだ借りたCD、返すよ」

 警鐘が鳴り響いた。俺の発言に対してだ。

 カバンの中からCDを取りだす――話を合わせろと視線に念を込める。決してそれが伝わったとは思わないが、昨日の会話もあって協力関係であることが効いたらしい、彼女は瞬時に表情を改めてこちらに駆け寄ってきた。俺の手からCDをひったくって、それから両手を腰に当てる。

「いーくんマジ返すの遅いから、反省して」

 いーくんって誰? まさか俺か? そりゃ下の名前は『い』から始まるが。

 松井のアドリブ力の高さに舌を巻いている場合ではない、そっと周りのリアクションを確認する。各々、程度は違うが驚愕を示していた。まあ、そりゃそうだろうな。教室で松井と会話したことあんまないし。

「……榊原、お前マジかよ」

 口火を切ったのは山内だった。なんなら、一番目をカッ開いてたのは山内だ。

「お前、やるじゃんか……」

「何がだよ」

「いや、松井さんと仲良いなんて言ってくれなかったじゃん。よくも黙ってやがったな」

「別に言うほどのこともでないと思ってたんだよ。なあ松井」

「うん。別に言ってもいいじゃんね。だからいーくんも普段通りに呼べば?」

 お前そんな無茶ぶりすることある?

「いや、人前で、えっちゃんはちょっと」

 とっさにあだ名をでっちあげられた自分の頭脳をほめてあげたい。えらいぞ俺。

「えっちゃん……えっちゃん……?」

 山内の前の席の男子が、放心したように復唱した。

「ええ、榊原って、いーくんってあだ名なんだ……」

 うるさいよバルコニーの女王。

「うるさいぞバルコニーの女王」

 山内が俺の内心とピタリ同じ台詞を言い放った。若松は瞬時に眉を寄せる。

「それ嫌い。最近は、先輩たちが修学旅行だから、私ばっかバルコニー使ってるけど、最近だし」

「じゃあバルコニーの従者……?」

「ランク下げたらいいと思ってる?」

 バルコニーの女王は、山内のボケに牙をむいて応戦し始めた。まあ、じゃれ合いだ。

 一方の松井はまるでかまうことなく、でたらめエピソードを披露し続けている。

「いーくんは照れ屋だからさ、私が体操服盗まれた時も、教室じゃ何も言わないくせに後でライン送ってきてー」

 入学して以来最高値の警鐘が鳴りまくった。俺の頭蓋骨をカチ割る勢いだ。

 こいつ俺から話振ったのをいいことに何もかもでっちあげるつもりか? 俺が軽率だったのか? 俺の話の振り方が悪かったのか? それとも松井がどうしようもないバカなのか?

 俺が悩み、松井が話をでっちあげ男子を呻かせる中、山内は苦笑しながらみんなに話を振っていた。俺も、その中の一人だった。


 こうして、俺と松井が実は仲がよかった、というのをフックに、多くの生徒が松井に話しかけに行った。ここで俺には来ないあたりが人望の差を示している。

 中休みや昼休みには、男女問わず「えー意外ー」「松井さんってそういう相手いたんだー」「なんか顔地味じゃないー?」と俺をダシに談笑している。最後のやつほんとキレた絶対許さねえ顔と名前控えたからな。

 とにもかくにも、こうして松井に近い状態で、俺は学校生活を過ごした。だから、松井がする会話全てを聞き取れていた。聞き取って、その真偽を判別できていた。

 嫌な時間だった。真偽の判別なんて、生活の副作用みたいなもので、それに集中したまま過ごす時間なんて、地獄そのものだった。

 けれどやるべきことがある、だから、耐えられると思った。


 その日の放課後になって、松井はそっと俺に近寄った。

「……よろしくね」

 声に乗せられた感情はあまりに多くて、呑み込みきれないほどだった。

「……あんまし期待しないでほしい」

 俺の口から出た声も、多くの感情が乗っていた。それは自分でも把握しきれないほどだった。

 松井は笑ってから、踵を返す。揺れるおさげの黒髪を、俺は見送った。

 放課後の教室からは分単位で人が減っていく。部活や、家路や、みんな目指す場所がある。

 今日一日の会話を思い返した。直接、手がかりになるような会話はなかった。けれど一つ一つを精査していけば、何かのピースはあるはず。

 記憶をたぐりながらそう考え込んでいた。だから気がつかなかった。気づけば夕日を遮るようにして、俺のすぐそばに、誰かが立っていた。

 慌てて顔を上げる。教室には他に誰もいない。

 いたのは、平坂舞だった。

「……こんにち、は?」

「……こんにち、は」

 かろうじて先手を取れたものの、互いに、ぎこちなくあいさつを交わす。平坂と会話するのは初めてかもしれない。

 そもそも、何で話しかけてきた。

「ええと、待ってその、私、むぅ」

 唇が開いたり閉じたりするのを馬鹿みたいに見ていた。

「あのね。多分、英里奈ちゃんと何かしてる、よね?」

 俺は、え、と間抜けにも声を漏らしてしまった。

 よく考えれば同じ小学校と言うぐらいだから、俺と松井の間には接点などないと気づけるはずだった。それを、平坂本人が気づくことを、俺は失念していた。

「やめてよ」

 平坂は無表情に言い放った。

 ろくな相槌を打つこともできなかった。俺は口をぽかんとあけた。

 嘘じゃない。嘘じゃない、なぜ? 俺は今、何を聞いた?

 警鐘が一切反応しない純然たる事実。彼女は体操服を盗んでいない。それは事実だ。そして彼女は潔白を証明されることも望んでいない。これも、事実だ。

 競合するはずの二つの事実が並列している。それが理解できなくて、俺は一切の反応を返せなかった。そこに何かの意味を見いだしたのかは知らないが、平坂は乾いた視線をそらして、カバン片手に教室を出て行った。

 喧噪が遠い。グラウンドから聞こえる運動部のかけ声。車の音。自分の呼吸音。

 誰もが白と黒で構成された世界の中を生きていて、眼前の事象をどちらに分類するかで悩んでいると思っていた。その境界線が一気に崩れるような気がした。



 頭痛と眠気に苛まれながら通学路を歩いた。眠りが浅かったせいかもしれない。朝日は俺の真の姿を暴こうとやっきになっていた。

 川の上を渡された橋を歩いていると、不意に風が吹いた。目をつむって、それから開く。しばし立ち止まった。川の水面を見た。水の流れがしわをつくって、一つ一つが陽光を拾い磨き上げている。乱反射する輝きを魚が迷惑そうに避けていく。放流されている鯉だった。子供が遊び半分に捕まえようとして、川でずぶぬれになるのは、風物詩だった。

 橋のてすりにもたれて、それを見た。鯉は気ままに泳いでいた。鯉は餌に何を食べているのだろうか。自分が生きるために他者を害するのは暴力なのだろうか。

 しばしそうしていると、ちりんちりんと自転車のベルの音が聞こえた。

 鈍い動作で横を見る。降りて、自転車を手で押す山内がいた。

「おはよ、榊原」

 意識に数秒遅れて、俺の口が、はよ、という寝ぼけたあいさつを返した。

「眠そうだな、おい」

 俺はふいと視線をそらして、川をまた見た。鯉はいなくなっていた。

「なあ、どんな調子なんだよ」

「特に何も、分かってない」

「そっか、まあ、俺も自分なりにがんばってみるよ」

 え?

 俺は山内の顔を見た。嘘ではなかった。

「なんで」

「なんでって、別に普通だろ。俺、こういうの慣れてるし」

 彼は爽やかに笑っていた。人助けを常にしているやつ。俺も知っている。多くの生徒が、何らかの形で、山内に恩がある。

「自分なりってなんだよ、聞き込みとかか」

「うん、しようかなって、というか仲良いやつには少ししてる」

 嘘じゃない。

「心の底から、どうにかしたいって思ってるのか」

「そうだよ。なんだよ、変なこと聞くな、お前」

 嘘じゃない。

「それは、当然のこと、だからか?」

「そうだよ」

 背中が冷たくなった。それ以上聞きたくなくて、やめた。

 当然のこと。人を助けるのが当然だと、そう信じている人間がいたって、別にいい。それは個人の自由だ、そういう人間がいることはおかしくない。自分に必死に言い聞かせた。善性にあふれた人間の存在は決して常識の範疇を超えていたりはしない。きっといる。

 時にはそういう人が同義を踏み外したりするのかもしれない。けれど、とにかく普段は公明正大な行いを貫いている人、何もおかしくない。

「心強いな」

 警鐘が鳴る。うるさい。冷や汗が頬を伝っている。

「そう言われると悪い気はしないな」

 山内が言った。嘘ではなかった。嘘であってほしいと、何故か思った。



 その日、結局俺は真実だけを見つけることができた。

 誰かが何の気なしに言った、こういうのやりそうなのは若松だよなという言葉。

 それを聞いて若松がまなじりをつり上げた。

『そんなわけないじゃん、何言ってんの?』

 冗談に対する反応とは思えない、怒気をはらんだセリフだった。教室の空気が少し下がっていた。

 嘘だ。嘘だった。

 若松は、やっている。

 若松が、松井の体操服を盗んでいる。

 事実だけがわかった。みんなにとっての白か黒かを、俺は常に分かっているはずだった。俺は劣等感を感じていた。みんなのように二択を選ばせてほしかった。そっちの方がよかった。二択以上のことなんてわかりたくなかった。

 けれどそれが、誰もにとっての白なのか黒なのかこそが、今は、わからなかった。



 山内がグラウンドを走っている。ハンドボールではない、サッカー部の助っ人として、他校との練習試合に参加して汗を流している。

 それを校舎の廊下で眺めながら、深く息をはく。陰惨極まるため息だった。

 松井は真実を明かしてほしいと言った。

 平坂はそれを拒んでいた。

 俺には真偽しかわからない。両者が心の底からそれを言っているのがわかっても、どうしてそうなったのか、最終的に何を目標としているのかが、わからない。

「榊原君」

 窓に預けていた頭が、はじかれたように上がった。聞きたくない声だった。

 横を見れば、制服姿の松井が俺を見ている。

「どう、した」

「なんとなく、見かけたからつい。その、やっぱり、いろいろ調べてもらったり、してるのかな」

 彼女は言葉を探りながら、俺に一歩一歩近づいてくる。やっぱり彼女の言うことには、警鐘は鳴らない。

「それで疲れてるのなら、ごめんねって思って」

「いや、大丈夫だ」

 横目に様子をうかがう。俺も大概だが、松井も疲れているようだった。

「昔の平坂は、どんな感じだったんだ」

 え、と松井は口を開けた。

 自分でも意図しないほどに踏み込んだ質問だった。平坂が何故あんなことを言ったのか、その材料が少しでもあれば。とはいえこの聞き方は、いささか性急だ。

「いや別に、話すことがなければ特にいいんだが」

「ええと、いろいろ、話せることならあると思うけど」

 戸惑いながらも、松井は嘘偽りなく言った。

「じゃあ、そうだな。どういうやつだったのか、とか」

あいまいな言葉。全体像をつかむためのジャブ、みたいな意識だった。ここから段階的に詳細を聞ければと。

 俺の問いに、松井は腕を組む。数秒うなってから唇を震わせる。

「かわいそうな子、かなあ」

 言葉を聞いて驚愕に至るまではラグがあった。思いもよらない表現に、脳の神経が少し惑わされた。

 息が止まる。松井を両眼でしかと見た。

 いつも通り、彼女は嘘をつかない子だった。

「なんて、当時の私が思っていたことなんだけどね。あんまり友達いなさそうだったから。あ、よく考えたら超失礼だねこれ」

 直後、今までにない、最大級の警鐘が頭蓋骨を揺らした。

 当時の私が思っていたこと、じゃない。今も思っている。今も松井は、平坂のことをかわいそうだと思っている。

 松井の嘘は初めてだった。それに驚愕する暇もない。

「遊びに誘ってあげたりとかはしたんだけど」嘘。「断られて」嘘。「輪に入れてあげたいなって」嘘。「一緒に遊びたいなってずっと思ってた」嘘。「きっと舞にとってもそれがいいだろうって」嘘。「舞の笑顔が見たかった」嘘。

 嘘、嘘、嘘。この女は今、欺瞞しか口にしていない。それが分かって、血の気が引いた。

 絶句する俺に向かって、松井は笑みを浮かべた。

 女神さえ嫉妬するような美しさだった。

「だって私、舞のこと好きだから」

 彼女は花開くような笑顔で、真実を告げた。

 嘘であってくれと願うことは多々あった。あまりにも真実であることが綺麗すぎて耐えられなくて、直視できなくて、この世界は虚偽によって成立していることを忘れさせてしまうような真実が嫌いだった。

 けれどそれとは別に。

 こんな、こんな残酷な真実もまた。

 嘘であってほしいと、俺はどうしようもないほどに願っていた。



 教室で、山内が誰もに笑顔を振りまいて、誰もを笑顔にしていた。

 いつもの光景だった。

 劣等感を抱いていた。あんな風になれたらと思っていた。

 特殊な能力、嘘を見抜ける力。これがあれば人よりうまく立ち回れるかもしれないと思っていた時期もある。結局活かせてはいない。ただ他人を観察し、そうであるという事象の観察例を積み重ねることしかできていない。

 机に一人向かいながら、ずっと真っ白なノートを見ていた。凝視していた。

 俺に見える世界は色とりどりで、真実と虚偽、善意と悪意が混じり合ってグラデーションを作り上げていた。一つ一つをつまみ上げては、俺はもしかしたら、科学者を気取って分析してラベリングして分類していたのかもしれない。

 他人はそんな風じゃないと思っていた。白か黒か、その二択を相手取って仁王立ちし、腕を組んでうなり、自分が自分を投げだせると思った方に賭ける。そんな尊い行いを、きっとしていると思っていた。裏をとれず、そうであるという確証もなく、存在を投企する行為。

 憧れていた。

「もし体操服を盗んだのが、誰なのか分かったら、どうするんだ」

 部活へ向かう山内の背中に問いかけた。

 振り返ったのはいつも通りの、爽やかで、お調子者で、誰にでも分け隔てなく接する男の笑みだった。

「説得する。きっと何か理由があるはずだ。その理由を松井に話して、とことん話し合えば、お互いに理解し合える。それが一番だろ」

 嘘偽りのない言葉。

「本当に、そんなこと、できるのか」

「人間だからできるよ。人間はわかり合える。そう思うから、俺だって人助けをしてるんだ」

 言葉を飲み込んだ。押し黙ってから、さすがだな、なんて適当なことを言った。山内は不思議そうにしてから、チームメイトに呼ばれ、慌てて駆けていく。

 なら俺は人間じゃないよ。もしお前の言うとおりなら。でもきっと違う。俺にもわかる。

 ああなりたいと思っていた。今は分かる、ああなってはいけないんだ。

 根拠なしに誰かを信じられるのはいいことだ。きっと。けれど根拠なしに誰彼かまわず助け続け、それを『人間だから』だなんて言葉で済ませてしまうのは、一種の、信頼中毒だ。

 山内は過剰に人間を信頼している。

 あいつにだって事情があるのだろう。

 何か、人間を信じることに理由を持たない背景があるのだろう。

 ……もしかしたら事情も理由もないのかもしれない。ただ、そういう人間であるという、そうであるという事実だけがあるのかもしれない。

 俺はそれを知らない。

 知りたくもない。



 平坂を呼びだした。校舎裏の、雑草が生い茂る裏庭。

 かつて使われていた焼却炉と、それを取り囲む金網の前で、彼女は警戒心をにじませて俺を見ている。

 自分の心が恐ろしいほど冷え切っているのを感じた。

「犯人がわかった。若松だ。いろいろ調べたけど……体操服のありかも目星がついた」

 誰が犯人なのかを最初に知って、その上で捜査する。推理小説なら激怒されそうなやり方だが、俺にはできた。若松の行動範囲に絞って考えればすぐに分かる。

 音楽室のバルコニー、そこは校舎四階から裏庭に向けて出っ張っている。彼女の腕力でも、バルコニーから投げたなら、現在は使われていない焼却炉、それを取り囲むフェンスの向こう側に投げ込める。警備員室の鍵がなければ焼却炉と俺たちを隔てる金網の扉は開けられない。

 家に持ち帰った、あるいは帰り道に捨てたという線もあるが、そこは裏をとった。犯人本人に、体操服があるとしたら学校かどうかという話を振って確認した。

 こうして真実にたどり着いたから、俺は若松の動機を知るすべがない。だが推察ぐらいならできる。ずっとうとんでいた。教室の中で、松井に男子がいつも通りの反応をする時に、俺と同じぐらい過剰に反応していたのは彼女だ。

「それで、お前は、どうする。噂を撤回させたいなら、今から警備員に頼んで、フェンスの向こう側を」

「やめてって言ったじゃん」

 真犯人などまるで興味も示さずに、平坂は冷たい声を発した。そういうの求めてないよ、と続いた。事実だった。なら何を求めているのだろうか。

 彼女たちは、どういう関係性なのか。

 それをもう一度問い直さなくてはならない。

「平坂、お前は、その。松井のことをどう思ってるんだ」

 俺の問いに、平坂は腕を組む。数秒うなる。そっくりだった。

「かわいそうな子」

 簡潔な応答。警鐘は鳴らない。うめきそうになった。

「私みたいな雑魚キャラ相手にちょっかいだして、一軍のくせに、ずっとそう。私をおもちゃみたいにしてる。あの子さみしがり屋だから、仕方ないんだけど」

「だったら」

 声が震えないよう精一杯努力した。平坂の姿が別の女子とダブった。かぶりを振って幻影を打ち消そうとした。

「お前は松井の、何になりたいんだ」

「現状維持」

 間髪を入れない返答。いや、返答にはなっていない。けれどそれ以上の回答もない。

 平坂の瞳は蛇のようにぎらついていた。

「本当は誰がやったとかどうでもいい。あの子が私を助けようと努力して、それに夢中になってるのなら、見守ってあげようよ。榊原君も、手を引いてあげなよ。努力をしたっていう行為そのものが目的なのに、本当に真犯人を解き明かすのなんか、ナンセンスだ」

「違う、信頼されたから、俺にだって何かできるって、そう思って」

 思考がまとまらない。

 ぐちゃぐちゃの考えが喉を震わせている。

「俺だって、山内みたいに、誰かを信じられるって、信じたいって、そうであるべきなのはわかってるから、だから……」

 平坂が俺を見ている。

 立ち尽くしたまま、両手を握り、俺はうつむいた。

 平坂は何も言わない。

 俺はきっともう何も告げず、何かを告げることすらできず、この場を去るだろう。

 平坂の噂は払拭されず、ただ溶けていくように、だんだんとみんな忘れてしまう。

 俺は多分、忘れない。

 平坂舞が決して嘘つきではなかったことを、忘れない。

 白と黒の境界線に意図的に放り込まれたものを、俺は忘れない。

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