第3話

 けれど、その日はついに、突然で何の前触れもなくやってきた。

 忘れもしない、五月最後の日。ここずっと雨が降り続いていたのに、その日は湿気の多い、よく晴れた日で、帰りのホームルームの少し前、先生が来るまでの短い時間のことだった。

「ねえ、りん、っておれの犬の名前と一緒なんだ」

 あつぃを振り返って壁に背中をもたれながら、タクミはそう言った。

 本当にそれはあまりにも突然で、予想外の出来事で、あたしは状況についていけなくて一人でポカンと、笑顔であたしを見ているタクミの顔を見ていた。

「りん、聞いてる?」

 タクミはクスクス笑いながら、「何驚いてるの?」と、まだ状況を飲み込めてないあたしにむかってそう言った。

 あたしはその言葉に今のこの状況を悟った。けれど、早く何か答えなきゃ、という焦りと、タクミとしゃべっている、という驚きやら嬉しさやら、何がなんだかわからない気持ちで一杯で、体が急に熱くなった。口もカラカラに渇いて、それでもどうにかしぼりだした言葉は、タクミにちゃんと聞こえているのかと思うぐらいかぼそくて、小さくて、弱弱しかった。

「ごめんなさい。ちゃんと・・・聞いて・・ます」

 何とか答えたものの、あたしは目の前にある人懐っこい笑顔を浮かべたタクミの顔を見ることが出来なくて、ずっと机の上にある色あせたシミを見ていた。

「敬語じゃなくていいよ」

 そう言ってタクミは、あたしの顔をのぞきこんだ。

 自分の胸の高鳴りがいつもよりも数段速くて、熱い血がスピードをあげて、体中をかけめぐっていくのがわかった。

「・・・うん」

「りんって、おもしろいね」

 タクミはもっと顔中に笑顔を広げて言った。

 あたしはこの言葉をどうとらえていいかわからなかった。正常な働きをうしなった頭は役立たずで、何も考えられなかった。ただ、あたしが描いていたタクミとの初めての会話の場面とはまったく違っていて、これでタクミのあたしに対する第一印象は最悪だ、なんてそればかりがあたしを支配していて、さらにそう思うと悲しくなった。

 そんな喜んだり、悲しんだりと忙しいあたしなんかおかまいなしに、タクミは面白そうな目をあたしに向けて、ニコニコしながら嬉しそうにいった。

「ずっとさ、話しかけようって思ってたんだけど、迷惑かなって思ってさ」

 その言葉にあたしは反射的に顔を上げて言った。

「全然迷惑なんかじゃないよ」

 あまりにもあたしの顔が必死そうだったのか、少しタクミは驚いたような顔をしたけれど、すぐに笑顔になった。その笑顔はさっきよりもずっとステキだった。

「本当に?それならよかった」

 まじまじと初めてきちんと見たタクミの顔に、あたしはまたときめいた。

 タクミの顔をこんなに近くで見ることは、どこかまだ恥ずかしかったけれど、自分が今のタクミの時間を一緒に共有しているんだ、と思うと、ずっと伏せたまま、タクミを見ずに話しをすることがなんだかもったいないような気がした。

 あんなに夢見ていた幻想が現実に変わっても、タクミと話している時間はまだ夢のようで、儚かった。

 先生がやっと教室に入ってきて、帰りのホームルームをはじめる前、タクミはあたしに、「あとでライン教えて」と言うと、体を前にむけて、元の姿勢にもどった。

 なんだかボーっとするあたしの前に広がるタクミの大きな背中は、前よりもずっとずっと近くに感じた。手を伸ばせばつかまえられるぐらい、ぐっと近くに。

「さようなら」

 すこしイラッとするぐらい、無駄に元気な学級委員長の声の後に、けだるくてやる気のないみんなの声が重なった。

 それでも、やっと学校から解放されたという気持ちのためか、放課後の教室はざわめいていた。

 あたしはそんなうるささなんてまったく気にならなかったし、どうでもよかった。今はただ、タクミと話ができた、ということで胸が一杯で、とにかく熱でもでたようにボーっとなっていた。

 帰り支度もしないまま、イスに座っていたあたしに、タクミはゴソゴソと自分のスマホを探すと、

「りん、ライン」

と、さわやかに言った。

 その言葉であたしも夢見心地のまま、カバンやら、ポケットやら、机の中やら探したけれど、お目当てのスマホは見つからなかった。

 タクミを待たせちゃいけない、という焦りもプラスされて、よけいに冷静さをうしなったあたしは、結局見つけることが出来なかった。

 そんなあたしをタクミは笑顔で見つめていた。

「ほんとにごめんなさい!ちょ、ちょっと待ってね。絶対あるはずなんだけど・・・」

「ブレザーのポケット見た?」

「うん、見たんだけどなくて・・・」

「もう一回見てみたら?」

 面白そうに笑みを浮かべて、タクミは言った。

 あたしは探していた手を休めて、タクミをハテナがうかんだ目でチラッと見て、ブレザーのポケットに手をつっこんだ。

「あっ・・・」

 その手は硬くて冷たい、スベスベした肌触りのものに触れ、あんなに探しても見つからなかったスマホが、すまし顔でポケットの中におさまっていた。

 その瞬間、タクミは吹き出してゲラゲラ笑い始め、あたしといえば、そんなタクミの様子に恥ずかしくなって、顔から湯気がでているのではないかと思うくらい、熱くなった。まるで、体中の血液が沸騰しているように感じた。

「これ、俺の」

 笑いすぎた余韻を残して、タクミはあたしにスマホをむけた。

「・・・うん」

 あたしも恥ずかしさを押し殺して、急いでタクミのスマホに自分のスマホをむけた。

 目には見えなくても、これでタクミとつながったことに、あたしは単純に嬉しかったんだ。

「よし、きた!」

 そして、タクミは少しの間カチカチとスマホをいじると、あたしに向き直った。

「じゃあ、りん、遅くなったけどこれからよろしく」

「よろしく」

 あたしが恐る恐るタクミの顔を見ると、タクミはニコッと笑って、「それじゃあ、部活に行ってくる」と言うと、教室を出ていった。

 いつの間にか騒がしかった教室も気づけば数人しか残っていなかった。

 ほてった体を冷ますように、少し余韻の残った胸の高鳴りを静めるように、あたしはイスに座ってしばらく外を見ていた。

 思うことや、考えることはたくさんあるはずなのに、ただ浮かんでくるのは、単純にタクミが好きだ、ということ。次から次へとその想いは溢れだす。

 夢でしかなかったタクミとのつながりが現実になった今、嬉しくて嬉しくてしかたないけれど、それを手にしてしまった時の怖さもないわけじゃない。連絡がいつでもできるようになったことで、返信が遅いとか、文が短いとか、どんなささいなことでも、今よりもずっとずっとあたしを苦しめる。けど、それでも、あの頃のあたしは、純粋に嬉しかったんだ。

 そろそろ教室を少し傾きかけた夕日が茜色に染め始めた頃、あたしは教室を後にした。

 そして、バスを使わずに、なんだか歩きたくなったので、あたしはゆっくり長い自分の影をひきずって歩いて帰った。その足はなぜかいつもより軽くて、耳へと入ってくるイヤホンからの音楽も、バラードなくせに、いつもより軽快に聞こえ、あたしの心は穏やかでなんだか自分が無敵に思えた。

 自分の世界がいつもよりもずっと、ずっと輝いて、とてもキレイに見えたんだ。

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