第5話 心の情報
まるで突然崖から突き落とされたようだと思った。
乃和は、真っ白な空間を頭を下に向けた状態で、ひたすら落ちて行った。視界はただただ真っ白で、もはや上か下かも分からなくなってしまいそうだ。
とその時、その浮遊感はなくなり足に地面の感覚が伝わる。そして、視界が開けた。
「うぅ……」
一瞬目に入ったのは、壁一面がグレーのシンプルな部屋。そのシンプルさを紛らわすかのように床には色とりどりのクッションやぬいぐるみが散らかっていた。
「お!乃和の部屋、そのままにしてあるんだなー」
隣から朗らかな蓮の声が聞こえる。
しかし乃和は彼の顏を見る余裕さえなかった。
「っ……気持ち悪い」
乃和はその場にしゃがみ込む。
吐き気がする。立っていられなかった。
「大丈夫か?やっぱ時間移動は人間の体には負担かかるよな。これ酔い止めだ、口の中で溶かせばすぐ効くから、ほら口開けろ」
蓮は乃和の口の中に無理やり錠剤のようなものを押し込む。
この最悪な気分から逃げられるならなんでもいい、そう思った乃和は蓮からの錠剤を口の中に含んだ。
「……」
「どうだ?気分悪いのとれたかー?」
蓮の不安げな顏が隣にあるのが分かる。
苦味のあるその錠剤は、乃和の口の中で解けた途端、効力を発揮したようだ。
「うん、少しはマシになった……」
乃和は何とかそう言葉を絞り出す。と言っても、まだ気分は悪いので立っていることは辛かった。
「おーよかったよかった」
「……ねぇ、ほんとにここが五百年後の世界なの?」
見たところ、今までの世界と何の変わりもない。乃和の想像していた未来とは大分違っていた。
「そりゃそーだろ?オレに備わっている時間移動の機能にくるいはないからな!」
蓮は得意げな表情を浮かべ、まだ顔色が悪いであろう乃和の背中に腕をまわした。
「確かにそうかもしれないけどさっ。全然実感できないっていうか……意外にそんな未来っぽい要素ないし」
乃和と蓮がいるのは何の変哲もない子供部屋。
「それはすぐに実感できるから、心配する必要ないと思うぞ?それより、博士……お前の母親が帰りを待ちわびているはずだ。行くぞ」
「……」
「立てるか?」
「……うん」
今さら母親に会わずに済むとは思えない。
藍星の「乃和には自由に生きてほしい」という言葉が頭の隅でチラつく。彼女の自由であるという意識を奪ったのは、きっと母親に違いない。自分のことを研究材料にしているぐらいだ。十分ありえる。
乃和は蓮に支えられながら、何とか立ち上がった。そして、部屋をでる。
「!」
その途端目に入ってきたのは、ガラス越しにある外の景色。真っ直ぐに続く白い廊下の壁は、一面ガラス張りになっており外の景色が良く見えた。
一面の雪景色。周辺に建物は見当たらなく、だが、遠くの方に街の明かりが見えた。
「今って冬なの?雪の量すごいね……」
乃和が何気なく呟くと、蓮は苦笑する。
「今というか、一年中冬なんだよなー」
「え」
「今の時代ともなると太陽の威力は、弱まってくるんだ。だから、夜が明けることもない」
「ちょっと待って。そんなのありえない!」
「ありえないも何も、この景色が間違いなく現実だ!まー認めなくないよな、誰も予想しなかったことだしなぁ」
相変わらずにこやかに言う蓮に、乃和は反発するような言葉が返せなかった。
蓮というアンドロイドが存在してしまっているのだから、もう何でもありえてしまうような気がしてくる。
「あはは……やっぱここって未来の世界なんだね……」
「だな!まぁそんなに悪いところじゃないだろ。ほら、よく見て見ろって!過去の世界ではあんなにきれいな星空なかっただろー?」
「えー……」
よく見ると、雪の絨毯の上に広がるのは、一面の星空。細かな星々までよく見える。
確かに、この星空は今まで一度も見たことがない。まるで、現実感のない夜空だ。
「ほんとキレイだね、怖いぐらいに!」
「乃和、もしかして怒ってるか?」
「怒ってはないけどさっ……」
やはり泣きたくなる。
間違いなくここは未来の世界。不安で仕方ない。
蓮はそんな乃和の様子をみて、
「環境の変化はストレスかもしれないけど、すぐに慣れる。大丈夫だよ。ほら、中学から高校に上がる時と同じだ。不安なのは、最初だけだっただろー?」
「いや、同じじゃないし!全然違うし!」
その時、廊下の向こう側から誰かが近づいてくるのが見えた。その人影は乃和の蓮の姿に気付くと、走り出す。
「乃和!帰ってたのねーーー!」
女性は勢いよく乃和に抱きついた。
乃和はよろけると、女性と共に床に倒れる。
「びっくりしたっ……誰!?」
彼女は、白色の短めの髪と紺色の瞳を持っている。それに、藍星と似た和風のデザインの服を身にまとっていた。顔色が白いのも藍星と同じだ。
「こんな立派に成長して!母さん嬉しい!過去の世界はどうだった?乃和」
「!」
「セナ博士。ただ今帰りました」
蓮は女性、セナに手を差し出す。セナはそれを掴むと立ち上がった。
「蓮、ありがとう。二人とも無事で何よりだわっ」
セナは幸せそうに微笑む。
「……あなたが本当にわたしの母親?」
乃和はふらりと立ち上がると、セナを見据える。
自分より背が低く小柄な体系。幸せそうな笑顔。
乃和の想像していた人物とまるで違う。
「そーよ!覚えてないのは仕方ないわ。あの頃のあなたは、まだこんなちいさな赤ちゃんだったものね」
セナは両腕で赤子を抱くような仕草をする。
「……」
やはり母親なのだろう。と乃和は思った。
目元が自分と似ているし、微笑んだ顏は藍星とそっくりだ。
しかし、やはりそうだとしても嫌悪感は拭えない。
「……やっぱりわたしのお母さん、なんだね」
「そーよそーよ!お帰りなさい、あたしの可愛い乃和」
セナは乃和に抱きつく。
思わず引き離そうとした乃和だったが、何故かできなかった。
「乃和、母さんにただいまって言って?」
「え」
「はやくはやくっ」
「……ただいま」
セナの期待に満ちた表情に耐え切れず、乃和は思わずそう口にした。
セナは乃和から離れると、満足な笑みを浮かべる。
「ありがとう。いい子ね、乃和」
「……」
「じゃぁ、さっそく行きましょう。やることは目白押しよー!まずは健康チェックからね!」
セナは先頭をきって歩きだす。
乃和がその場に立ち止まったままでいると、蓮に背中を押された。
「乃和。さっさと歩くんだ」
「っ……兄さん、わたし、逃げてもいい?嫌な予感しかしないんだけど」
「今さら何言ってるんだよ?いいから、博士の指示に従え」
今までの蓮とはまるで違う冷たい表情。
もしかして、これが蓮の本当の姿なのだろうか。
「……やっぱり兄さんは、アンドロイドなんだね……」
「でも、お前の兄ちゃんということには変わりないからな?」
蓮は少しだけ微笑む。
「……うん、分かってる」
乃和はやはり泣きたくなった。
そんなこと言われたら、期待してしまうではないか。
乃和は蓮に手を引かれつつ、仕方なくセナの後に続いた。
「!」
乃和は、通り過ぎた部屋の様子が気になり思わず立ち止まる。ドアにある窓から見えるのは、大きなスクリーンがいくつも浮かぶ部屋。
いかにも未来の世界らしい光景だと思った。
「乃和どうしたんだ?」
「この部屋なんだろ」
「あーこの部屋は……」
乃和は蓮の手から離れると、中の様子をよくよく見てみる。
スクリーンに囲まれるようにして、置かれているのは大きな砂時計のようなもの。
その周辺には、セナと似たような服を着た人たちが数人おり、忙しそうに仕事、をしているようだった。
「藍星!」
その数人の中に、乃和のよく知る人物がいた。
乃和は部屋の中に入ると、必死になって藍星に駆け寄る。
こちらに気付いた藍星はきょとんとした表情を浮かべていた。
「ねぇ藍星だよね!?」
乃和はその表情に違和感を覚え、思わずそう叫んだ。
「うん、あたしは藍星だけど、君は?どうしてあたしのこと知ってるの?」
「!?」
藍星の口から発せられた思いもよらぬ言葉に、乃和は自分の耳を疑った。
どうして覚えてないのだろう。
藍星は掌の上に広げていたスクリーンをかき消すと、「うーん?」と首をかしげる。そして、しばらく乃和の顏を観察するように見た。
「あ、もしかして君!乃和なの?」
「そうだよ……?因みに藍星とわたし、会うの初めてじゃないんだけどっ。過去の世界で会ったよね?」
乃和の言葉に、明るかった藍星の表情に影がおちた。
「あ……うんうん、そうだった!ごめんね、すっかり忘れてて……」
「?……藍星?」
「……」
藍星は何かに怯えているように、俯く。
その時、後方から来たセナが乃和の隣に並んだ。
「おつかれさま、藍星」
セナが笑顔でそう言うと、藍星は頭を下げ「お疲れさまです」と返す。
「乃和、藍星に何を言っても無駄よ。あなたと会った時のことは全て忘れているから」
セナは口元に薄い笑みを浮かべ、乃和を見る。
「……どうして?」
「藍星が仕事の邪魔になるから、忘れさせてほしいってあたしに頼んできたのよ。だから忘れさせてあげた、そうよね、藍星」
「……はい」
「ちょっと待って!藍星がそんなこと言うわけないじゃん!妹のわたしに会えて嬉しいって言ってたし、それに藍星はわたしのこと守ろうとしてくれた。だから、そんなこと言うわけない」
乃和は思いつく限りの言葉を必死になって並べる。どう考えても、今の藍星の状況は不自然すぎる。
「あら、変なこと言うのね、乃和。たとえそれが事実だとしても、証拠にはならないわよ?」
「証拠?そんなの必要ない」
「あらあら。こんなところで時間をくっている場合じゃないのに……」
セナは後方に立つ蓮の方へ視線を投げる。
蓮はそれに素早く反応すると
「乃和、こんなところにいても時間の無駄だ。お前にはやるべきことがあるんだから……」
「藍星と二人で話をさせて。そーしたら言うこときくから」
乃和は蓮の言葉を遮ってそう言った。
このまま何もせず、立ち去ることはできなかった。
「ほっんと困ったわねー」
セナは大げさにため息をつき、腰に手をあてる。
「仕方ないわねーー、このまま勝手なことされても困るし許可するわ!」
「!」
「藍星、乃和の健康チェックをお願いしてもいいかしら?」
「かしこまりました」
藍星は無表情でそう言うと頷く。
「乃和はその間に藍星と二人になれるし、いいわよね?」
「……うん」
乃和はほっと胸をなでおろす。
思いの他、上手くいった。
「あ、蓮もメンテナンスしておいた方がいいわね。ついてきて」
「はい」
セナが部屋の出口の方へ向かうと、蓮もそれに続く。そして、二人の姿は廊下の方へ消えて行った。
「藍星……」
乃和はすぐさま声をかけるが、彼女は視線を下に向けたままこちらを見ようともしてくれない。
その雰囲気は過去に会った時の藍星とまるで別人だった。
すると、彼女は顏を上げる。
「まず、チェックルームに移動しよっか」
藍星は泣きそうな顏でそう言った。
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