第2話 おばあちゃんと駄菓子

 バン、と車のドアが閉まる音で目が覚める。うっすらと瞼を開けると、淡い陽の光が眼球に入り込んでくる。あまりの眩しさに思わず目を細める。しかし、見慣れた洋風の家が確認でき、眩しいのに耐え、なんとか目を開けるとそこには父の実家があった。白い清潔感のある大きな洋館。壁には蔦が絡まりオシャレな雰囲気を醸し出していた。しかしそれに見合わず庭は雑草が生い茂っており、どこか廃墟のような雰囲気も漂わせている。庭の端の方には大きな白木蓮の木が植えられており、大きな白い美しい花を咲かせている。ただ、今は4月の初めなので花はだいぶ散っていた。


 車のドアを開けて庭に出る。一気に酒の匂いから解放され草の匂いに包まれる中で親父が「おはよう」と俺に声をかけた。俺は親父と目を合わせる。顔に汚らしい髭を生やした親父がそこにいるだけで、昨日俺が美しいと思った男はいなかった。俺は少し首を捻ると返事を返さずに庭を進んでいく。白木蓮の木の下まで進み、木を見上げる。少しスカスカになった木々の隙間から光が漏れ出ている。手で光を遮ってなんとか木の上の方を見ると、まだそこには古びたハンモックが残っていた。


 親父が車から荷物を取り出し始める。引越し業者を雇えなかったので荷物は必要最低限のものをダンボールに二、三箱程度にまとめただけだ。こっちに引っ越すことは2月の下旬には決まっていたので、持ってきたのは制服と衣服くらいだ。趣味がないから持ってくるのも特になく、俺の荷物はダンボール箱1つで収まってしまった。軽すぎるダンボール箱を持ち上げて俺は洋館の中に入っていった。


「荷物はそれだけなの?」


 入った途端に声をかけられ、そちらを見ると、洋館に不釣り合いな着物に身を包んだ女性がそこに立っていた。俺のおばあちゃんだ。


「持ってきたいものも、なかったから」


 俺が言うとおばあちゃんは悲しげに微笑んだ。


てるは昔から何に対しても無頓着だったわね。なにか興味持てることとかなかったの?」


 そう尋ねられて一瞬別れたばかりの彼女のことが頭に浮かぶ。けれど、直ぐに脳内から消えていった。軽くため息をついておばあちゃんと目を合わせる。おばぁちゃんの澄んだ瞳が真っ直ぐに俺を捉えた。気まずくなって視線を逸らす。軽く礼をすると俺はおばあちゃんの横をすり抜け2階へと続く階段を上る。階段を登ってすぐ突き当たりの部屋に『てる』と書かれたプレートがぶら下がっているドアが現れる。俺が小さい時夏休みなどの長期休みの際、毎年おばぁちゃんの家で1週間くらい泊まるのでそのときに作られた部屋だ。この広い家では部屋があまりに余っているので、1週間しか泊まらなくても俺専用の部屋を作るなど容易いことである。半開きになっているドアの隙間に体をねじ込ませて部屋に入る。部屋は数年前のまま変わらず子供っぽいデザインで統一されていた。しばらくこの部屋に来なかったわりには部屋は綺麗な状態のまま保たれていた。


 ダンボールを置いて1回に降りる。豪華な玄関を通り抜け、キッチンへと移動する。今日はまだ何も食べていないから腹が減った。来てそうそう悪い気もするが、腹が減るのはどの生物にも共通する生理的現象なのだ、仕方ない。と、思うことにしてキッチンを漁る。冷蔵庫を開けて中を確認する。タッパーに詰められた作り置きのおかずが数種類と調味料がいくつか。チンすればすぐに食べれそうだ。おじいちゃんが死んでこの家に1人で住むようになってから、おばあちゃんはこういった作り置き料理をよく作るようになった。と言っても5年前くらいからだが。


「あら、何か食べる?」


 電子レンジで温めようとした時に突然背後から声をかけられ思わず肩がビクリと跳ねる。振り返るといつのまにそこにたっていたのだろうか、おばぁちゃんがそこにいた。


 いや、別に悪いことをしたつもりはないけれど、誰だって突然背後から声をかけられれば驚くわけで。決しておばぁちゃんが作ったおかずを勝手に食べようとしてたのがバレたから驚いたとかではない。うん、断じてない。


「まだ何も食べてなかったの?」


「あぁ、うん。さっき起きたばっかだから」


「そっかそっか。どれでも好きなの食べていいからね」


 少し子供扱いをされているように感じたが、おばぁちゃんの優しさを素直に受け取っておこう。俺はおばぁちゃんに軽く頭を下げると電子レンジの扉を閉めて温めのボタンを押す。ピッ、という音と同時におかずが温められていく。少し古い電子レンジはものすごい雑音を立てる。綺麗好きなおばぁちゃんが使っている電子レンジは古くても汚れ1つなく綺麗なままだ。だからと言っていつまでも古い電子レンジを使うのはどうかと思うが。物を大切にすることは大事だと言っても限度があるように思う。この電子レンジ、見た目からしてだいぶ古いし、いつの年代の電子レンジなんだよ、と突っ込みたくなってしまう。まぁ、きっとおばぁちゃんとおじいちゃんがこの家を買った何十年も前のことだと思うが。てか、こんな長く持つものなのか、電子レンジって。いきなりぶっ壊れて爆発とかしないだろうな。心配になって電子レンジの中を覗くと、カクカクとした動きをしながらも正常に動いていた。大丈夫そうだけど、買い換えた方がいいのに変わりはない。


「こうしててるがこの家に来るのも2年半ぶりだね」


 おばぁちゃんはどこか独り言のように言った。


 この家に来なくなってもう2年半にもなるのか。中一の夏休みを最後に来なくなったから、正確には2年半より多いけれども。部活が思ったより忙しくて、中一の夏休みも来れたのはたった3日だけ。そこからは全くこれずに中2、中3の長期休みを過ごした。高校生になったらまた長期休みは1週間くらいこっちで過ごそうとは思っていたけど、まさか引っ越すことになるとは思っていなかった。しかも、超くだらない理由で。おばぁちゃんは俺たちが引っ越してきたのをどう思ってるんだろう?機嫌が良さそうなのを見る限り、嫌だと思ってなさそうだけど、内心、母親の事を気にかけているだろう。


「あ、そうだ。てるの部屋片付けといたけど、要らないものあったら捨てていいからね」


「あー、わかった、ありがとう」


 チン、と電子レンジの音がなる。どうやら温め終わったようだ。蓋を開けるとほわ、と湯気が立ち上る。それと同時にロールキャベツのいい匂いが鼻腔に入ってくる。


「そういえば、てるはロールキャベツが好きだったね」


「ああ、うん。だって美味いじゃん。だけど俺、ロールキャベツが好きだって言ったっけ?」


 俺が少し首を傾げるとおばぁちゃんは呆れたような顔をしながら笑った。おばぁちゃんがゆったりとした足取りで俺に近づいてくる。俺に箸を渡すと子供をあやすような口調で「てる、いつもご飯あんま食べないのに

 ロールキャベツ作るといっぱい食べるから聞いてなくても分かるよ」と言った後に「てるは口下手だから、表情とか、行動とかで感情を読み取るんだよ」とどこか得意げに言った。


「……俺そんなわかりやすいかな」


「いや、てるはわかりづらい方だよ。てるの感情を読み取れる人は結構少ないと思う。私も最初の方は全然分からなかったし」


 楽しそうにおばあちゃんは言うと俺の顔を覗き込んだ。76歳とは思えないくらいに若々しいきめ細やかな肌が至近距離で見える。綺麗に整えられた髪は白髪染めされている。背筋は曲がっておらずピン、と伸びているから違和感なくおばあちゃんの視線と俺の視線があう。しっかりと着付けられた着物だけが、おばあちゃん感を辛うじて出していた。


「うん、今は戸惑ってるね」


 おばあちゃんに図星を刺されてどきりとする。確かに、おばあちゃんと至近距離で目があっていたから、戸惑ってはいた。けど、まさかそれを言い当てられるとは思わなかった。俺は気まずくなって思わずおばあちゃんから目をそらす。


「あはは。ごめんね、驚かせちゃったね。大丈夫、この家では気楽に過ごしていいからね」


 おばあちゃんは苦笑いしながらそう言うと、俺から1歩離れた。俺はその隙に、若干冷めかけていたロールキャベツを頬張った。コンソメの味が優しく口内を満たす。俺はゆっくりと咀嚼すると、ロールキャベツを飲み込んだ。


 ロールキャベツを全部食べ終え、腹が多少は膨れたものの、おばあちゃんが一人暮らしように作り置きしていただけの量だったので、まだ小腹は空いていた。かと言って、さらに作り置き料理に手を出すのも気が引けて、俺はどうしようかと頭を悩ます。単純に我慢すればいいだけなのかもしれないが、昼ごはんまでは時間がありすぎる。どこかに買いに行こうか。確か近くに、おばあちゃんの知り合いが個人経営している『ばあちゃんの食堂』とかいう名前の定食屋があったはずだ。おばあちゃんは「美味しいよ」と、そこの店を評価していたが、まだ1回も行ったことは無い。前からそこの店は気になっていたし、そこで腹ごしらえでもしようか。


 おばあちゃんが空になったタッパーをさりげなく回収する。あ、と思った時にはおばあちゃんはもうタッパーを洗い始めていた。俺は慌てておばあちゃんに駆け寄る。今日からこの家に居候になる身なのだ。洗い物くらいはしないと気が済まない。そう思って洗い物を手伝おうとしたのに、おばあちゃんはちゃっちゃと終わらせてしまった。


「えーと、これからは洗い物くらい自分でするよ?」


「だから、気なんか遣わなくて良いんだって」


 俺の提案をおばあちゃんは頬を膨らませてやんわりと断わる。そして、少し悪戯っぽく笑った。


「あんなに小さかったてるが、今はこんなに気の遣える大人に成長してたなんてね?」


 からかうように言って、ぽん、と俺の手に〈キャベツ太郎〉を乗せる。


「これ、てるが子供のころよく食べてたお菓子。昨日スーパーで何個か買ってきたんだ。あぁ、でも、てるはもうこんな駄菓子食べないか?」


 おばあちゃんが少し切なそうに言った。正直、俺は中学生になってから、駄菓子は一切食べなくなった。間食するとしたら、おにぎりとか、肉まんとかで、あまり腹の膨れないお菓子系は買わなくなっていたのだ。だからといって、別に駄菓子が嫌いになった訳では無い。好きな方だ。自分でも、駄菓子が好きなのを忘れていた。俺は、手の上にある〈キャベツ太郎〉のパッケージを眺める。あぁ、こんなパッケージだったな、と懐かしむと同時に、嬉しさが込み上げてきた。俺ですら、この駄菓子が好きなのを忘れていたのに、2年半以上も会っていないおばあちゃんが、俺の好きな駄菓子を覚えてくれていたことが、俺にとっては喜ばしいことだった。


「ありがとう」


 おばあちゃんにお礼を言うと、俺はキッチンを出る。俺がどう思っているかおばあちゃんに気づかれてしまうのがなんだか恥ずかしくなった。多分きっと、俺の顔は今だらしなく緩んでいるだろうから。


「おい、てる。どこ行くんだよ。お袋にはちゃんと挨拶しただろうな。今日からお世話になるんだ、粗相のないようにしろよ」


 2階の自分の部屋に戻ろうとした時に、玄関に荷物を下ろしていた親父が俺に声をかけた。上から目線の物言いに、イラッとする。オマケに、


「お前はいつもそうだよな。無口でなに考えてんのか分からねぇ。喋らねぇで、全部行動で表そうとする。全く、そのコミュニケーションの無さは誰に似たんだろうな」


 グシャ、と持っていた駄菓子が潰れた音がした。しまった、怒りのあまりに手に力を入れてしまった。


「おばあちゃんに引っ越すことになったのって、俺のせいじゃねぇじゃん」


「それはそうだが、挨拶くらいできるようになれよ。いつまでも子供じゃないんだから」


「車の中では俺の機嫌を伺ってたくせに、こっち着いた途端態度変えんじゃねぇよ」


「何を言っているんだ。俺はお前の態度なんか伺ってないぞ」


 すっとぼけた親父の態度に、怒りのあまり胸ぐらを掴む。親父は表情一つ変えずに、俺に黙って胸ぐらを掴まれたままになっている。分かっているのだ。俺が親父を殴らないと。何も出来なくなった俺はとにかくこの怒りをぶちまけたくて、親父を突き放し玄関からあてもなく走り出した。

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