第3話

 遠野との出会いから一年。厳しいトレーニングを続けた四谷は体脂肪率を5%まで落とし、プロ試験を一発で通過した。

 そしてデビュー戦で勝利を収め、これから注目の選手としてバンバン試合をしていくつもりだった。


「えっ! キャンセルですか?」


ジム内に遠野の声が響いた。受話器に向けて何度か相槌を打って、その後電話を切った遠野は肩を怒らせてトレーニング中の四谷へ詰め寄る。


「会長、どうしました?」

「どうしましたじゃないわよ! こないだのあんたの試合っぷりが広まって誰も試合組んでくれなくなったの!」

「それはおかしくないですか?」


 四谷はトレーニング中の手を止めた。


「試合前に会長言ってましたよね。勝てばどんどん試合の申し込みが来て、それにも勝ち続ければいつかは十神さんと試合できるって」


四谷はこめかみをグローブで小突いた。デビュー戦でまともに殴られた場所だ。


「川上さんのパンチも強力だったけど、やっぱり死ぬほどじゃなかったです」


 遠野は呆れて天を仰いだ。

 たった一年で才能を開花させて、プロの世界でも十分活躍できるとどれだけ諭してきても、四谷の自殺願望は消えなかった。


「川上の所属ジムの会長が日本ボクシング界で相当な権威者でね。そこがもう試合を受けないっていうならうちも四谷からの試合は受けないって予定されてた試合をキャンセルされたわよ」


遠野は試合でボロボロになった四谷の顔を見た。可哀想とかいう感傷はない。ただ良くないと思った。


「あんた、戦い方をもうちょっとなんとかしなさいよ」

「戦い方……ですか」

「見ていて不安になんのよ。相手選手からしたら自分の拳で人を殺してしまうのは嫌だし」

「でもボクシングって、詰まるところ殺し合いでしょ」

「違うわよ!」


遠野は頭を抱えた。確かに初めのうちはそんな風に説明して四谷の自殺願望を闘志に代えて練習をさせた。

 けれど、ここまで思い込みが激しいとは誤算だった。スポーツだ、興行だと言ってももう四谷は聞く耳を持たなくなっていて、死ぬまで拳を払い続ける狂人と化していた。


 もう四谷と試合組んでくれる選手がいないのなら、ジムに置いておくのも難しい。遠野は自分の部屋に戻って、四谷の処遇を考え直すことにした。


 遠野が去るなり四谷は練習を再開した。

 体を動かすのは好きだ。息が上がり苦しくなる。腕や脚が重くなって持ち上がらなくなる。そういった肉体の苦痛は四谷にとって快感だった。生を感じる。


 早く試合したいなあ……。


 デビュー戦以降、ずっとそう思いながら、半ば放心状態でトレーニングを繰り返していた。殴られた傷の痛みは疲労よりももっと強く生きていると感じられる。四谷は戦いを求めていた。


 翌朝、遠野は覚悟を持って家を出た。


 四谷を除名してジムから追い出す。たとえそれで死んだとしても、私のせいじゃないし。


 そうしてジムに着いたとき、四谷のルームメイトである金子正の姿はあるのに、四谷本人の姿はなかった。


「金子、四谷は?」

「四谷ならランニングに行きました。……あれ、でも遅いですね。もう一時間も前に出て行ったきりです」

「は? あいつ……まさか⁉︎」


 遠野には最近四谷がより強烈な殴り合いを求めているのがわかっていた。

 だからすぐに確信した。


「十神のジムに行ったのか!」

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自殺志願ボクサー @taku888

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