第2話
四谷はボクサーになる前は、小さな会社で働く真面目なサラリーマンだった。業績は優秀とまではいかないものの、人当たりの良い性格から、社内でも社外でも彼の評判は悪くなかった。
四谷はこの会社に就職したとき、大学時代に夢見ていた社会貢献というものがようやくできる、と意気込んでいたものだが、企業イメージと実際とが異なるということは良くあることで、四谷の会社は社員全員やる気が薄く、親会社の指示に従う以外に仕事がなかった。そのため業務自体非常に少なく、定時どころか早上がりしても誰にも文句を言われなかった。
しかし、そんな仕事でも社会に貢献できることはあるはずだと、真面目な四谷はその会社に骨を埋める覚悟で働いていた。
そうして四谷が入社五年目に差し掛かった頃、急激に親会社の経営が傾き出した。それに伴い、四谷の会社が受ける仕事も半減した。このまま親会社からの仕事が無くなってしまうと、他に発注元を持たない四谷の会社は経営が立ち行かなくなる。
それを悟った社員たちはこぞって転職に動き始めたが、四谷は最後まで足掻いた。
結局会社は倒産し、四谷も職探しを始めた。二度目の就活は中々に厳しいものだったが、社会に貢献できるならどんな職種でも良いと手当たり次第に面接を受け、四谷は無事採用に漕ぎ着けた。
しかし、四谷は半年でこの会社を辞めた。
朝早くから働き始め、連日連夜残業の日々。半年間、社会貢献だ社会貢献だと言って自分を鼓舞してやっていたが、平日九時五時出勤がデフォルトになっていた四谷には耐えられるはずもなかった。
四谷が二度目に入った企業は誰から見てもブラック企業と言えるものだったが、真面目な四谷はそうは考えなかった。
四谷は自分を責めた。
また、自分が本心では社会のために貢献したいなんて思っていないことに、絶望すらした。
「社会貢献ってなんだ。結局そんなのはやりたいことがない奴が、自分もやりたいことを持ってるって思いたいだけの方便だ」
誰も聞く相手がいないのをわかった上で呟いた独り言は、公園のベンチの上だけを虚しく流れる。
そうして四谷は夜まで待ってから、ベンチを公園の木の下まで引きずってその上に立ち、一番太い枝にロープを括り付ける。
やりたいこともやるべきことなく、生きている理由はなかった。第一発見者には心の負担をかけてしまうだろうが、電車を止めたり、異臭騒ぎを起こしたりするよりはマシだろうと、ロープ端の輪っかに首を通した。
あとはベンチを倒すだけというところに、遠野が通りかかった。
「何やってんのあんた!」
遠野は怒鳴りながら四谷に走り寄り、ベンチが倒れないように抑えつける。
「死んでどうすんのよ」
心配とも憐憫ともつかない表情で見つめられ、四谷はロープを首から外した。そして、ベンチに座り直し、俯いた姿勢になって動きを止める。
遠野も四谷を放って置くわけにいかず、四谷の隣にそっと座る。
「あんたが死んだら、親御さんとか悲しむ人がいるでしょ?」
「うちの両親は悲しみませんよ」
「そんなわけないでしょうが」
「いえ、ほんとに。あれらは一般的な親の愛情なんてものは持っていません」
「なんでそういうこと言うかな」
遠野は嘆息した。自殺志願者の説得など初めてで、どう言い聞かせてやればいいのかさっぱりわからなかった。
「じゃあ友達とか彼女とかいないの? あなたが死んだら悲しむでしょ」
「……学生時代にはいましたが……、今現在まで連絡を取り合っている友人はいませんね。仮に僕が死んだとしても、その事実を彼らが知ることはないと思いますし、知ったとしても、ああそっか、あいつ死んじゃったんだ、くらいのものではないでしょうか」
心の底から自分の自殺を悲しむ人はいないと四谷は思っていて、しかし遠野はそんなことはないと思っている。これ以上話しても、お互いの考えが変わらないことを四谷も遠野も理解した。
暫くの沈黙の後、四谷は遠野に向き直り頭を下げた。
「今日はご迷惑をお掛けし申し訳ありませんでした。これ片付けておきますね」
四谷は立ち上がり、ベンチに上って木に括り付けたロープを外す。
「私も手伝うわよ」
遠野はそれを待ってから、四谷と一緒にベンチを元の位置まで運んだ。
「では、失礼します」
「ちょっと待って。もう自殺なんか考えちゃだめだからね」
「はい、今日はすみませんでした」
そう言って別れた後も、遠野は帰っていく四谷の背中を見つめながら、その場を動けずにいた。
今日しなくても、明日またやるかもしれない。何か止める手立てはないものかとその場で思案し、暫くして一つの打開策を思いついてしまった。のちに後悔することになる打開策だ。
ボクシングジムで会長を務める遠野は、自らも選手と一緒に鍛えているので、一度離れた四谷に走って追いつくくらい訳のないことだった。
「ねえ、君ボクシングしない?」
追いかけられ、突然そんなことを言われた四谷はぽかんと口を開けてしまう。
「……ボクシング?」
「そうボクシング。私ジムやってるからさ、君さえ良ければ是非」
「はあ……」
「てゆうか会員少なくて経営厳しくてさ。入ってくれると嬉しいんだけど」
四谷はひどく困った顔をした。死ぬつもりでいるのだから、ジムに入るなんてそれこそ迷惑になると四谷は思った。
「申し訳ないですが、僕には」
「ボクシングすれば死ねるよ」
四谷の眉がぴくりと動いたのを見て、遠野はイケると確信した。四谷の腕を掴み、強引に引っ張る。
「ジムすぐそこだから、とりあえず話だけでも」
「いや、死ねるとか言われて意味わかりませんから」
四谷は抵抗するが、遠野の腕力には歯が立たず、結局ずるずると引っ張られてジムまで着いてしまった。年季の入ったリングに道具。見た目三十代くらいの遠野が開いたにしては、随分と古いジムに見えた。
四谷はボクシングジムに入るのが初めてで、少しだけ気分が昂揚した。
「ボクシングって謂わば闘いじゃない? 相手を殴って殴られて。当然殴られればダメージを受けるし、場合によっては死ぬこともあり得る」
すっかり見入っている四谷に、遠野は手招きする。四谷がそちらに行くとそこは食堂のようで、部屋の隅にブラウン管のテレビが一台置いてあった。
「闘って死ぬなら、周りも納得するんじゃないかな」
遠野はテレビをつけ、横にあるプレーヤーにDVDを挿入した。
流れたのはボクシングの試合だった。
「これはこの間のフライ級世界王者決定戦の試合。赤が絶対王者の十神悟」
ボクシングのボの字も知らない四谷でもわかるほど十神は凄かった。一ラウンド目、青のグローブのほとんどはガードされるか空を切るだけであったのに対し、赤のグローブはその全てが顔か体に直撃していた。
「十神は無駄撃ちを一切しないの。相手をじっと観察して、相手の攻撃は全ていなして、逆に自分の攻撃は全て当てる。しかもパンチ力はフライ級では世界一と言われていて、今までの全ての試合がKO勝ち」
二ラウンド目、開始一分で十神のパンチが顎に直撃し、対戦相手は膝から崩れ落ちた。そしてそのまま死んだように動かなくなった。
「死んだ」
「いや、死んでないわよ」
「この人と闘ったら、僕も死ねるんですね」
目を輝かせる四谷に遠野は戸惑ったが、自殺を止めるという目的は達成できそうだなと、口元を綻ばせて言った。
「かもしれないね」
四谷は希望を託してボクシングジムの入会を決めた。反対に遠野は不安でいっぱいだった。これから彼が自殺を考え直してくれるよう頑張らなくては、とそんな責任感を感じつつ、四谷の入会を認めた。
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