第9話 死ぬ日の朝

 出勤前の絹子はいつものように鏡台に向って顔に乳液を叩いた。いつもはそれで終了だが、今朝は長くケースに入ったままの口紅に手を伸ばした。生前の母から貰った最後の誕生日プレゼントだった。化粧っ気のない絹子は口紅など使ったことはなかったが、その日に限って絹子は口紅を少しだけ塗ってみた。

 いつも顔に乳液をつけるだけで化粧などしない絹子は、なぜ口紅を塗ろうなんて思ったんだろう…時春の夢を見た。俄かに心は甘く、そして切なくなって目が覚めた。今まで時春に抱いたことのなかった感情の温もりが布団を離れづらくさせ、急に時春に会いたくなった。

 鏡に映る初めて口紅を塗った顔は、どこかよそよそしかった。


「あ…」


 後ろで結わえた髪がバッサリ解けて広がった。そして絹子は、鏡に映る自分の顔をゆっくりと指差した。額の生え際から真っ赤な血が垂れ始め、鏡面がテレビの砂嵐のように様変わりしたのに驚き、とっさに鏡掛けを下した。


 愛しい夢を見た絹子だったが、朝食が喉を通らず、少し早目だったが家を出た。指を差す相手が自分になるなんて思ってもみなかった。嫌な感じだ。それを人にやっていた。そう思いながら、絹子は“あれっ?”と気付いた。見えなかった。人を指差した時には、その人の死ぬ情景の一部始終が見えたのに、自分のは見えなかった。自分はどうなって死ぬんだろうと気になった。


 歩きながら誰かに見られているようで何となく落ち着かない自分もいた。“そうだ、口紅!”。落ちつかないのは、つけたことのない口紅の所為だろうと思い、急いで手の甲で拭き取ったら、少しは気持ちが落ち着いた。

 後ろから邦松が付けて来ていることに、絹子は気付かなかった。


 出勤して作業場に入ると、横淵竹五郎が二日酔いでへたり込んでいた。その横で畠山清蔵が苦虫を噛んでいた。


「何もこんな時に…」

「どうかしたんですか?」


 絹子が聞くと、藤島ヨネ子が眉間に皺を寄せて毒吐いた。


「大の男が二日酔いとぎっくり腰で役立たずだよ。さっさと帰ればいいのに女房が怖くて帰るに帰れないんだろ」


 そんなヨネ子は高齢のため、製材機を扱う体力がない。結局、絹子がひとりでやる羽目になった。


「大丈夫だよ、私が頑張るから」


 使い物にならない男どもを横目に、ヨネ子が軽作業をする中、絹子はひとり男前な働きぶりを見せていた。それを作業場の材木置き場の暗がりに潜んで覗き見してる邦松がいた。邦松は製材機を扱う絹子の後ろ姿を目で舐め回していた。その背中が、ふいに万吉に見えた。邦松は恐れ戦いた。


「何で死んでない!」


 万吉は邦松に振り返ってせせら笑った。邦松は怒りで目を剥き、痙攣が始まった。感情に任せて邦松は暗がりから突進し、万吉を突き倒してまた暗がりに潜んだ。一瞬の出来事だった。邦松の見る万吉は見る見る絹子の姿に戻り、その髪が鋸刃の軸に巻かれて行った。材木を仕入れに来ていた龍三がたまたま外からその異常な一部始終を目撃し、邦松と目が合った。


 絹子の悲鳴で初めて事態に気付いた畠山たちは、急いで絹子の体を引っ張ったが、あっと言う間に頭が鋸刃に達し、回転する鋸刃から飛び散る血飛沫を浴びた。三人は思わず手を放してしまったが、横淵が嘔吐しながら床を這いずって電源コードを引き抜いた。

 血塗れの鋸刃が頭に喰い込んだ絹子は既に惨死していた。その目が、畠山清蔵、横淵竹五郎、藤島ヨネ子らの目と合った。三人は恐怖に引き攣って身動きできない状態になってしまった。龍三が駆け付けてその惨状の中に邦松の姿を探したが、逃げた後だった。


「絹子…」


 絹子の遺体の前にバッチャが現れた。絹子の幽体がバッチャを見上げた。


「バッチャ!」


 清乃は静かに微笑んだ。


「バッチャに会えたってことは、私、死んだの?」


 バッチャは製材機の台に乗った絹子の惨死体から、幽体を引き上げてくれた。


「死んだな、絹子」

「んだか…私、どうすればいい?」

「絹子はどうしたいの?」

「今朝、自分に指差された…あんまりいい気分しなかったし、死ぬことが分かっても、なんも出来ねがった。私に指差された人、死ぬと分かってどれだけおっかねがったべど思ってな。私は死ぬのなんて知らない方がいいと思う」

「迷うもんでね、絹子。神様から貰った能力なんだ。使わねば駄目だ」

「みんな私に殺されると思ってる。それでも教えてやったほうが良いんだべか?」

「したら、絹子が大切だと思う人にだけ教えてやればええべ。絹子に指差されて死ぬと分かれば、そうならないように気を付ける人がいずれ出て来るべから…今はなんも出来ねくても、助かる人も出て来るべから」

「んだべか?」

「おめだって助かったかもしれねんだよ」

「どうやって?」

「今朝、いつもとなんか違ってることなかったか?」


 絹子は三人の様子がいつもと違ってたことを思い出した。


「そういえば…畠山さんがぎっくり腰で、横淵さんが二日酔いが酷くて、ヨネ子さんがいつになく苛ついてた」

「絹子は仕方ないからとひとりで頑張ろうとした」

「仕方ないからね」

「それが死神様のお膳立てだよ」

「でも作業はちゃんと出来てたよ。出来てたけど、誰かに突き飛ばされた」

「朝から絹子の後を付けてた邦松だよ」

「邦松が!」

「邦松には死神様が入ってる。万吉さんが死んだからね」

「万吉さんが死んだから?」

「万吉さんは年取って次第に使い物にならなくなって来たんで、死神様は若い邦松に鞍替えしたんだよ」

「したら、もともと万吉さんに死神入ってたんだか?」

「んだ、万吉の家は代々死神様に憑りつかれでだ」

「どうすれば私は死なないで済んだの?」

「作業しないで帰ればよかったんだよ。というか、指差されたんだから出勤しなければ良かったんだよ」

「でもそれは無理だよ」

「だからそれが死神様の周到なお膳立てなんだよ。死神様は死神様で一所懸命自分の仕事をしてるんだ」

「私に死ななければならない落ち度でもあったのかな?」

「なんにもないよ」

「ならなんで私は死ぬの?」

「死神様には人の世の道理は通じないんだよ。死なせることで人を救ってるんだから」

「私はもっと生きたかった!」


 絹子は時春との未来を考えた。涙が頬を伝った。


「死んでも涙が出る…」

「絹子…思い残したことがあるんだべ」


 絹子は頷いた。


「夢を見たの、朝方。その夢で気が付いた」

「どんな夢?」

「…時春の夢」


 清乃は絹子を愛おしげに見入って肩を落とした。


「私、時春に会いたいと思いながら出掛けたの。気持ちは駅の方に向いてたんだけど、足は勤め先に向かうんだ」

「……」

「何度も何度も駅に戻ろうと思ったんだけど…会いたい…時春に会いたい」

「絹子…」

「時春には絶対に指を差したくない」

「時春は絹子の不思議な力を知ってるの?」

「知ってる」

「だったら教えてやらないと」

「いやだ! 教えたってどうせどうにもならない!」

「時春なら、絹子に教えてもらったら、何とか乗り越えられるかもしれないじゃない? 教えなかったらそれまでなんだよ」

「私はもう死んじゃったのよ」

「生きて一緒になれなくたって、好きな人を守れるなら幸せなんじゃないの、絹子?」


 バッチャの言うことは尤もだが…絹子は死神様とやらに押し付けられた理不尽な死を受け入れられない。それでも時春のことが好きだから、絹子は今の自分が時春をどう愛することができるんだろうと考えた。


「絹子…生きていたかったよね。でも死んじゃったけど、時春には死んでほしくないよね」


 バッチャの言葉に絹子は“ハッ”と気付いた。時春に死んでほしくないが、どうせ死神様は時春をもターゲットにするはずだ。そうはさせるものか! そう、それが一番自分の望むことなんだ。そして自分の力を理解している時春なら、私が指差すことになっても何とか乗り越えてくれるかもしれない。そう思った…思いたかった。そして絹子は決心した。時春の身に受け入れ難い何かが見えた時、指を差そうと。


「私の姿、肝心な時に時春に見えるべかな?」

「時春には見えるべよ」

「時春の命は、身勝手な死神様の思いどおりにはさせたくね」

「んだよ!」


 絶望の絹子にほんの少しの“目的”という光が射した。


〈第10話「二度目の取材」につづく〉

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