第10話 二度目の取材

 時春の新聞社に一報が入った。鴨志田デスクは時春を呼んだ。


「鬼ノ子村で事故が起こった」


 時春は言葉を搾り出した。


「鬼ノ子村のどこですか?」

「製材所だ」

「……!」


 時春にとって一番聞きたくなかった現場だった。脳裏から最悪の事態の妄想が押し寄せて来る。


「他の人間に行ってもらおうか?」


 鴨志田は時春を突き離した。


「いえ、自分が行きます!」


 時春はまさかの事態を想起して全身の震えが止まらなくなった。車のドアノブの鍵穴にうまくキーが挿せない。やっと運転席に座ってもハンドルを握る手の震えが止まらない。時春は大きく深呼吸をしてから車を発進させた。

 鴨志田は二階の窓から、遠くなる時春の車をじっと見送った。


 時春が現場に到着すると、営林署の職員や貯木場の作業員でごった返していた。毛布を掛けられた遺体らしきものがまだ置かれたままになっていた。黒ずんだ沁みが広がった毛布を見て、時春は絹子でないことだけを祈った。しかし、作業員の会話の中から、亡くなったのが木村絹子であるという言葉が耳に入ってしまった。何気ない会話は時に残酷である。時春は毛布の遺体を凝視したまま膝を落とした。


「…どうして」


 牛洗橋での母の死が蘇った。牛洗橋の架かる川岸の斜面を地元消防団の担架で運ばれて来る遺体が、望遠レンズの中で母であることを知った。あのずぶ濡れの哀れな母の姿が目に焼き付いてしまった。そして今また自分は、毛布に覆われている掛け替えのない人の哀れな姿を無神経にシャッターに納めようというのか…やはり、取材は他の人に任せた方が良かったのかもしれない。自分には絹子のこんな姿を公にすることなんて出来ない。


「時春…」


 時春は懐かしい声に顔を上げた。絹子が立っていた。遺体の毛布の上で哀しい表情の絹子が立っていた。


「絹子!」


 絹子はゆっくりと時春を指差した。時春は微笑んだ。


「連れてってくれるんだね、絹子…おれにはもうそれしかないよ」


 しかし、絹子は首を振って拒んだ。


「時春さん!」


 声に振り向くと朝子が立っていた。


「つらいね、時春さん。神様はなんであんたにばり、こんたらつらい思いさせるのかね。ここに取材に来るたびに、こんたら仕打ちばりして、神様に腹立つ! 時春さん、絹子ちゃんを悲しませることをしたら駄目だ! 負げだら駄目だよ、時春さん!」


 時春は朝子の言葉にハッとなった。絹子は指差しながらも首を横に振って自分を拒んだのはそういうことだったのだ。時春は朝子の顔を見て涙が止まらなくなった。


 気が付いたら朝子の食堂に寄っていた。どうやって製材所からここまで来たのか全く覚えていない。絹子への強い想いで現場写真を一枚も撮れなかった。夢だったはずの取材記者としての自分を見失った時春は、自責の念に駆られていた。

 絹子の不思議な能力のことは幼い頃から知っていた。時春はふと思った…絹子は自分が死ぬことを知っていたんだろうか…知ってて出勤したんだろうか…いや、そんなはずはない。知っていたのなら出勤しなかったはずだ。


「あの人、殺されたんだよ」


 龍三が現れた。


「何言ってるの、龍三? 絹子さんは誤って機械に巻かれて…」

「違うよ…押されたんだよ」

「押された? 龍三、おまえ見たのか!」

「たまたま材木を仕入れに行ってたんだ」

「絹子を押したのは誰なんだ!」

「龍三、時春さんは新聞記者さんなんだよ! いい加減なこと言ったらダメなんだよ!」

「いい加減じゃないよ! 絹子さんは後ろから突き飛ばされたんだよ!」

「絹子を突き飛ばしたのは誰なんだ?」

「邦松だよ」

「邦松? あの万吉さんの息子の邦松が?」

「ああ」

「邦松がなんで絹子を…」

「時春さん、龍三が見たからって…」

「大丈夫、自分でも確かめるから」

「確かめるったって、どうやって?」

「…本人に聞く」

「自分でやっといて言うかね」

「邦松は…言うよ」


 時春の言葉に、朝子も龍三もそのとおりだろうと思った。邦松は捌け口の見つからない欲求の闇で悶絶してはいるが、嘘は吐かない。


「龍三、この事は誰にも話さないでけれな」


 龍三が頷いたのを確認して帰ろうとする時春に、朝子はまたおにぎりの包みを渡した。


「ちゃんと食べないとだめよ! ひとりで悩んでないで、いつでも来るんだよ!」

「ありがと、おばちゃん」

「今日はこのまま会社さ帰るの?」

「…まだ決めてない」

「帰らねんだら、ここさ泊まれ」


 時春は強く頷いてから食堂を後にした。

 深夜になっても時春は来なかった。


「会社さ帰ったんだべな」

「きっと車だよ」

「車って、車さ泊まるのか?」

「遠慮してんだよ」

「何も今更遠慮なんかしねくたってな」

「オレだって…」

「え?」

「いや…何でもねえ」

「新聞の会社って酷だもんだな」

「そういう仕事なんだべから」

「んだたて何ぼ何でも牛洗橋の次がこれっていうのは…」

「オレのことが羨ましいって…おばちゃんがオレの母さんだったらなって、よく言ってた」

「時春がそんたらごど…あのバカ…」


 朝子は胸が熱くなって言葉に詰まった。


 寝床に入った龍三は眠れずにいた。絹子を突き飛ばして振り向いた邦松の目が記憶から離れなかった。邦松がなぜ絹子にあのような残忍なことをしたのか考えたが、常人の自分に邦松の思考回路を読み解くことなど出来るわけもないと、忌々しい残像を打ち消して眠ることにした。しかし眠ろうとすればするほど目が冴えて、結局、起きて薄暗い食堂の椅子に掛け、アルミやかんの水をコップに注いで一気に飲み干した。


「眠れないのかい?」


 母の朝子も起きて来た。


「…母さん」

「なんだい?」


 龍三は知っていた。朝子の夫・恒松は、村人の迷惑も顧みず、邦松を無責任に放置する万吉を問い詰め、煮え切らない態度にカッとなって怪我を負わせた過去がある。朝子は、逮捕されそうになった恒松を許してもらう代わりに万吉に体を許し、龍三を身籠ってしまった。


「…いや、何でもない」


 龍三は言葉を飲んで席を立った。寝床に戻って、やっとうとうとした頃、咽る咳で起きた。朝子は既に起きて、もうもうと煙が立ち込める物置への入口でウロウロしていた。奥の土間では数十匹のウサギが飼われていた。同時にそこは幼い頃の龍三の隠れ家でもあった。使い古したトロ箱には、時春とふたりで集めた枕木の補強工事で廃棄された犬釘がぎっしり溜まっていた。


「龍三、ウサギが死んでしまうよ」

「父さんは!」

「深酒で起きないんだよ!」


 龍三は煙を押して奥に走った。物置では藁に火が燃え燻り、ウサギが小屋の中で暴れていた。ウサギ小屋の戸を片っ端から開けて裏窓を蹴破ると、行き場を失った数十匹のウサギは一斉にその窓から飛び出して行った。そして、蔓延した煙が吐き出される窓の傍に邦松の姿が現れた。


「おまえ、ここで何してんだ!」


 邦松はとっさに犬釘を数本持って構えた。


「龍三は邪魔だ」

「絹子を殺したのをオレに見られたからな」

「龍三は邪魔だ!」


 数本の犬釘が龍三目掛けて飛んで来た。そのうちの一本が額に当たって落ちた。


「龍三…血…出たよ」


 龍三は足下に落ちた犬釘を拾って握った。


「ああ、そうだな。オレにもおまえと同じ血が流れてるもんな。おまえの父親の血がな」

「知ってるよ…見てたから」

「……!」

「龍ちゃんのカッチャ、可愛そうだった。オレは全部見てたよ。おまえのカッチャは…」

「もう言うな! この血は穢れてる。生きてる間中、罪悪感に悩まされるのは嫌だ。だから、一緒にこの世から消えような、邦松!」


 龍三は犬釘を強く握った。


「龍ちゃん、オレ死んでもいいよ。あの男、嫌いだ。だから殺してやったよ。龍ちゃんと一緒なら死ぬの怖くないよ。龍ちゃんはオレの弟だもん」

「弟? …おまえの弟か…ははは、最悪の父親と弟…オレたちはこの世に居てはならない人間なんだよ、邦松」

「オレたちは邪魔者だね」


 龍三が邦松に突進しようとした時…


「邦松!」


 邦松の後を付けて来た時春が現れた。


「おまえ、製材所でなぜ絹子を突き飛ばしたんだ!」

「オレが押したのはあの男だよ」

「おまえの父親はおまえが殺してもうこの世には居なかったんだよ!」

「居たよ! オレはあの男を押したんだ! 押したら絹子になった! 牛洗橋の上でもあの男が邪魔した! だから押した!」

「牛洗橋!」

「牛洗橋から落ちて行く時、キネになった!」

「おまえ…母さんも! …そういうことだったのか」


 強い殺意が走ったが、時春は何とか冷静になろうとカメラを構えた。


「邦松…放火の証拠を撮らせてもらうよ」

「警察、オレのこと捕まえられないよ。オレのこと、誰も捕まえられないよ。オレ、頭おかしいから何やってもいいんだよ」

「そうかい…でも、やったことの記録は残さしてもらうよ。邦松、こっち見ろ!」


 時春のストロボが光った。邦松はその光に仰け反った。


「父さん! オレから全部取るから!」


〈最終話「犬釘」につづく〉

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