第8話 金村家の癌

 時春は朝子の食堂の上の薄暗い屋根裏に居た。天井には296(にくろく)のノップ碍子がいしに電線が這い、菊型ローゼットから無造作に裸電球が垂れ下がっていた。そして、緊張感が漂うばかりに整頓された夥しい大工道具には、恒松の腕の良さが一目瞭然に伝わって来た。


 朝子に今後の予定を相談した時春は、恒松の薦めもあり、食堂の上の屋根裏に厄介になることになった。時春の登場で、単調な日々に押し潰されそうになっていた龍三も俄かに息を吹き返した。


 屋根裏の小窓からは金村家の人の出入りが一望できた。張り込み三日が過ぎても、邦松の“病気”が出て村の女児を家に連れ込むような動きはなかった。しかし、時春にとって決して“退屈な張り込み”ではなかった。

 それは、毎朝、食堂の前の道路を通って製材所に出勤する絹子の姿を見るのが楽しみになっていたからだ。

 屋根裏の小窓から見下ろす絹子の姿は、時春にとって日に日に特別に見えていった。この仕事が片付いたら思い切って結婚を申し込もうと思うようになっていた。母は好きな人と結婚出来なかった。自らの命を絶つほどの苦しさから救ってやることも出来なかった。それだけではない。自分たちを祖父母の家に預けて出て行ったことを恨んでさえいた。後悔しかなかった。この取材はきっとその天罰ではあろうけれども、絹子への思いを決心させてくれた母からの贈物でもあるに違いないと思った。

 梯子を上って来る気配がしたので、時春は涙を拭った。顔を出したのは龍三である。朝子の長男は家を出て独立していた。次男は営林署勤務での泊まり込みが多かった。三男の龍三は大工の父・恒松のもとで修行の身だった。作業から帰ると酒を呑み始める恒松を後目に、時春の“張り込む”屋根裏に上がって来るようになっていた。今日はその手に風呂敷包みを持っていた。


「差し入れ」

「何?」


 龍三が包みを開けると、ぼた餅やらきなこ餅がずっしり入っていた。


「現場で家主からもらった。頭使うと甘いもんが欲しくなるだろ?」

「龍三は甘党か? それとも両党?」

「酒は飲まない。親父見てるから」

「…そうか」

「時春さんはお酒の方が良かった?」

「だから、さん付けはやめろってば」

「そうはいかねえよ。お酒持って来ようか?

仕事中だから駄目か?」

「いや、酒はオレもやらない…親父と兄を見てるから。甘いの貰うよ」


 時春はぼた餅を口に運びながら小窓に目をやった。そしてその動きが止まった。


「龍三」

「……?」

「あの子、誰だか分かる?」


 龍三も小窓を覗いた。


「高堰さんとこの孫娘じゃないかな」


 ついに邦松が動き出した。土地の少女、5歳の高堰弓子を連れて来た。


「どうする、時春さん!」


 時春は暫く考えていた。ここで自分が踏み込んでも恍けられたらお終いだ。証拠写真を撮ることも必要だが…


「高堰さんに連絡するか!」

「おれが行く」


 立ち上がろうとする時春を制し、龍三が屋根裏を下りて行った。

 望遠の中の邦松は、そーっと母屋を覗いた。囲炉裏端の座椅子で気持ちよさそうに座ってウトウト船を漕ぐ万吉を確認した邦松は、弓子の手を引いて母屋の裏に回った。


「こっちから入ろう」

「お母さんはどこ?」

「中で待ってるよ」


 裏木戸から入った邦松は、万吉を起こさないように勝手口の軋みに歯軋りしながら息を殺して開けた。その姿は弓子に異様に映った。


「お母さんは?」

「中で待ってるよ」


 弓子は怖くなって入るのを拒んだ。


「お母さん、中で待ってるよ」


 恐々入った弓子はすぐに口を押えられ目隠しされた。恐怖で体が硬直した弓子の手を縛り、積み上げた筵の上に寝かせた。そして、その幼い獲物に汚辱な視線を這わせてゴクリと唾を飲み込んだ。


「邦松…」


 邦松は背中の声にドキリとした。振り向くと万吉が立っていた。


「父さん、取らないで」

「おまえは座敷牢に入りなさい」

「取らないで!」

「黙って座敷牢に入れ!」


 そう言って万吉は、煙が燻る焼け火箸を見せると、震えあがった邦松は慌てて座敷牢に駆け込んで行った。


「怖かったねえ。さあさ、向こうの部屋に行こうね」


 弓子は万吉の優しい声にホッとした。しかし万吉の行動はその言葉とは裏腹だった。弓子の猿轡も手枷も外すことなく、弓子を抱き抱えて薄暗い奥の部屋に入って行った。

 邦松は、その襖が閉まるのを睨みながら、万吉への強い怒りで眼球が剝き出しになり、全身を痙攣させて唸り始めた。


 屋根裏の時春は三脚の望遠を覗き続けていた。金村家の居間の中がガラス戸越しにぼんやりと見えている。万吉の姿はさっき居間を出たきり見えなくなった。中で何が起こっているのか気掛かりで仕方がなかった。痺れを切らした時春が金村家に向かおうと思ったその時、龍三が高堰を連れて来る姿が見えた。龍三は高堰を金村家の玄関前まで案内し、その場を離れた。


 高堰の声でやっと奥の襖が開いた。万吉に手を引かれた弓子は、何が起こったのか分からぬまま、しゃくり上げて部屋から出て来た。


「弓子ちゃん、怖かったね。お父さんが迎えに来たからもう大丈夫だよ」


 弓子を醜穢に労る万吉を、座敷牢に入れられた邦松の視線が刺した。


「弓子!」


 玄関で再三叫ぶ高堰のしつこさに、万吉の顔が僅かに引き攣った。


 屋根裏の小窓から金村家の様子を窺っていた時春の目が釘付けになった。絹子である。製材所から帰る途中だろうか…絹子の足が金村家の前の通りで止まったまま動かなくなった。レンズに釘付けになっている時春のもとに龍三が戻って来た。


「時春さん、どんな塩梅?」

「絹ちゃんが…」

「絹ちゃんって、時春の同級の絹子さん?」


 立ち止まった絹子は金村家の方を向いた。そしてゆっくりと指差した。


「今、指差した! 絹ちゃんが金村家を指差した!」


 時春に促されて龍三も望遠の先を覗いた。


「あ、絹子さんが小走りで帰る」


 時春がカメラを覗くとレンズから絹子の姿が消えていた。


「この流れで死人が出るとしたら…絹ちゃんに何が見えたんだろ?」

「高堰さんが早まったことをしなければいいんだけど!」

「聞いて来ようか!」

「いや…聞いても、多分言わないと思う」

「どうして?」

「何が見えても何も言わないことにしたって…バッチャと約束したって…」

「…そうか」


 金村家の居間の囲炉裏端には、高堰としゃくりあげる一人娘の弓子が座っていた。

 万吉は顔色一つ変えず、高堰和夫の膝元に分厚い裸の札束を置いた。


「何ですか、これは」

「これで息子の邦松を許してやってくれ。今後も悪いようにはしない。裁判になっても息子は罪に問われない。それどころか、根も葉もない噂が立ったら、あんたの娘の将来も台無しだ。堪えてくれ」

「約束してもらいたい。次の犠牲者が出たら、邦松を殺せるかな…あんたのその手で」


 万吉は考えていたが、やおら首を縦に振った。それを見て高堰は渋々ながら金を受け取った。

 高堰が帰ると万吉は大きな溜息を吐いた。


「邦松、出て来ていいぞ!」


 邦松の返事がなかった。いつもなら心無いながら返事があって座敷牢から出て来るが、今日は初めて返事がなかった。


「邦松!」


 万吉が立ち上がろうとしたその時、背中に鈍く重い衝撃が走った。間髪入れずに後頭部に掛かる憎しみの圧で、万吉は顔面から囲炉裏の熾目掛けて突っ込んだ。舞い上がった灰煙が治まると、万吉の背中には火箸が深く刺さり、その後ろに邦松が仁王立ちになっていた。


「取るから…オレのを全部取るから」


 屋根裏の小窓から、弓子の手を引いて金村家の門を出て来る高堰の姿が見えた。道路に出て数歩ほどで弓子はしゃがみ込んで歩けなくなった。弓子を抱き上げる高堰の顔に苦悩が滲んでいた。

 時春は今すぐにでも何が起こったのか高堰に取材したかったが、良心の足が動かなかった。このままではプロの新聞記者にはなれないと思い、心に鞭打って屋根裏から下りた。


「時春さん、ちょっと待ってなさい」


 時春を止めて朝子が出て行った。


 朝子は肩を落として帰る高堰に追い付いた。


「和夫…」


 高堰は朝子に振り向いた。無言だった。高堰は朝子と中学までの同級生だった。40歳を越えてやっと授かった娘だった。麻疹だ引き付けだといっては、いちいち朝子を頼って来た。


「弓ちゃん、大丈夫?」


 高堰の目からいきなり無念の涙が溢れた。


「朝子…」


 高堰の言葉は続かなかった。


「和夫…なんぼつらいべな。したども、今あんたがしっかりさねば!」


 高堰は強く頷いて帰途に就いたが、朝子の腹の虫は治まらなかった。朝子は金村家に向かった。

 屋根裏の小窓から朝子の様子を窺っていた時春は、金村家に向かう朝子を見て慌てた。


「危険過ぎる! 龍三!」


 時春は急いで屋根裏から下りて、食堂に居る龍三に事の次第を話した。龍三も血の気が引いた。ふたりは金村家に走った。

 金村家の門を入ると、朝子が玄関から飛び出して来たのが見えた。駆け寄ると朝子の表情は青褪めて尋常ではなかった。


「母さん、大丈夫か!」

「万吉さんが殺されてる!」

「何だって! まさか高堰さんが?」

「そういう事の出来る人じゃない!」


 時春が玄関に入ると邦松が万吉の傍で手を叩いて喜んでいた。時春は邦松を呼んだ。すると邦松は素直に出て来た。


「お父さんはどうしたんだ?」

「オレが火箸刺したよ。オレから全部取るから火箸刺したよ」

「そうか…邦松さん、座ろうか」


 時春は激しく高揚した邦松を落ち付かせようと、自分から玄関の式台に腰を下ろした。すると邦松も時春と並んで腰を下ろした。


「邦松さんはお父さんの後を継ぐんだよね」

「いやだ」


 時春にとって意外な返事が返って来た。


「オレはあの男は嫌いだ。オレのなのに全部横取りする」

「横取り?」

「オレが連れてく子を全部横取りする」

「どこに連れてくの?」

「オレの部屋」

「でも、その子が嫌がったら帰してあげるんだろ?」

「みんな嫌がるから縛る。泣くから口を縛る。オレを見て涙を流すから目隠しする」

「邦松さんは話したいだけなんだろ?」

「ああ…それと…」


 邦松は口ごもった。


「裸にして見るだけなのに…」

「……!」

「そこに、あの男が来てオレを座敷牢に閉じ込める」

「すると、そのあとお父さんはその子を家に帰してやるんだろ?」

「まだ帰さないよ」


 邦松は憎しみで目を剥き、搾り出すように唸り始めた。


「あの男は…あの男は…オレが連れてきた子をみんな取る! オレを座敷牢に入れてその子にひどいことをする! オレは見たいだけなのに、あの男はひどいことをする!」


 時春は、邦松からとんでもない話を聞いてしまった。邦松の言うひどいことというのは恐らく性的虐待だろうことは想像が付いた。邦松が仕出かしたと思われていた一連の犯行は父親の万吉の可能性が濃厚となった。

 時春は愕然とした。“全部取る”というのは、邦松が連れ込んだ女児を万吉が全部取ったということだ。一連の女児虐待は万吉の仕業ということになる。罪を問えない邦松を出汁に底無しのクズ人間だと時春は憤った。

 玄関を出た時春は、自分の母親があんなやつの後妻にさせられていたことに悪寒が走り、全身に鳥肌が立って玄関先で吐瀉してしまった。


「時春さん!」

「大丈夫…すまん。帰社するよ」


 時春の初取材は終わった。朝子の通報で夜の金村家周辺は物々しい騒ぎになったが、邦松の姿は消えて金村家は無人だった。


 時春は帰途の車中で迷っていた。ありのままを記事にしたら大幅に枠を越える。それでも提出するのか…だが、自分の母親の身投げ記事をたった三行の枠に入れるには忍びなかった。案の定…


「おまえ、小説家にでもなったつもりか? 高々田舎の身投げ記事ひとつに、こんだけの枠が取れると思ってんのか? 今度こんな出しゃばった原稿持って来たら首だ!」


 朝一で提出した原稿が没稿になった。寧ろ没稿で良かったと思った。


「…ですよね」


 鴨志田デスクにはそう答えるしかなかった。朝子の食堂のおにぎりが食べたくなった。


〈第9話「死ぬ日の朝」につづく〉

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