第5話 座敷牢名主

 小学校で“座敷牢名主”のことが話題になっていた。


「ねえ、“座敷牢名主”って知ってる?」

「あの金村御殿の座敷牢に住んでる人喰い男でしょ?」

「道で追い駆けられて捕まったら、座敷牢に連れて行かれるんだ。そこで声を出したら食べられちゃうんだよ」

「どうやれば逃げられるの?」

「最初はこっそり後を付けて来るらしいから、早く気が付いてダッシュで逃げれば助かるらしいよ」

「大人だから追い付かれるんじゃない?」

「それが“座敷牢名主”にはたった一つだけ弱点があって、走るのが凄く遅いらしいよ」


 “座敷牢名主”…誰あろう、金村万吉の息子・邦松のことである。絹子もしつこく付け狙われたあの知的障害を持つ邦松のことである。絹子は祖母・清乃のお蔭で難を逃れることが出来たが、何人かの女児が取り返しの付かない結末に至るも、泣き寝入りを余儀なくされていた。邦松は年齢と共に行為がエスカレートしていたが、民法に於ける責任能力の条文が壁となって、その都度起訴には至らなかった。父親の万吉は被害者に金品を渡し、体裁を保つために邦松を座敷牢に閉じ込めた。


“座敷牢名主”の噂は本当だった。ところが邦松は何度も座敷牢を脱出しては女児に猥褻行為を繰り返すため、万吉はほとほと邦松を持て余していた。数日前にも女児の誘拐未遂を揉み消したばかりだった。このところの邦松は暴発寸前だった。いつ取り返しの付かない事態…つまり死人が出るのではないかと、村中が気が気じゃない日々を過ごしていた。


 小学6年生になる木澤晃子が体育の授業から戻って来ると、椅子の背に掛けたランドセルの冠が開いていた。閉めようとして見慣れないメモに視線が止まった。メモには、“こっそり座敷牢が見れるよ。みんなには内緒ね”とあった。晃子は、誰か友だちが書き残して先に行ってるのだろうと思い、急いで着替えてメモの指定場所に向かうことにした。

 晃子が指定された場所は松森グランドの神社裏だった。そこは鬼ノ子村小学校の裏山を切り拓いて造られた広場で、体育館の裏から100メートルほど坂を登ったところにある。運動会や村の祭りなどの催しに利用される誰にとっても親しみ深い場所た。

 晃子は探検のような気分で人目を避けながら指定された場所に行ったが、誰も居なかった。仕方なく帰ろうとして振り向くと、邦松が立っていた。


「あっ、座敷牢名主!」


 思わずそう叫んだ晃子だったが、見る見る晒で眼から口から両手を拘束されてしまった。


 どれくらいの時間が立ったのだろう…晃子は解放された場所に立っていた。やっと我に返り、目と口を塞がれた晒を剥ぎ取ると、ぼやけた夕暮の村が見えた。急に恐ろしくなった晃子は、ふら付く足取りで自分の家の方角に向かって歩き出した。

 すっかり暗くなった先に自分の家のあかりが見えた瞬間、晃子は座敷牢での恐怖を思い出して絶叫した。自分に何が起こったのかもよく分からなかった。半狂乱になっている晃子の声に気付いた両親が家から飛び出し、駆け寄って来た。


「晃子!」


 その姿に両親は娘の身に受け入れ難い事態が起きたであろうことを悟り、愕然とした。


「晃子! 誰がこんなことを!」

「座敷牢名主!」


 晃子はそう叫んで気を失った。


「座敷牢名主?」


 父親の木澤宗雄には何のことか分からなかったが、母親の頼子は知っていた。


「邦松だよ! 選りに選って、あんちくたらクソ童に!」


 激高した宗雄は万吉の家に駆け込んだ。奥に見えるこれみよがしの座敷牢の中には、だらしなくニヤ付いている邦松がそわそわと行ったり来たりしていた。


「人違いじゃないの? 邦松はああして頑丈に監禁したままだから」


 万吉の舌の根も乾かぬうちに、邦松は簡単に座敷牢から抜け出した。慌てた万吉は邦松に駆け寄り、殴る蹴るの暴力を振るって座敷牢の中に放り込んで錠前を掛けた。


「頑丈に監禁ね」


 宗雄の皮肉に体裁悪そうに戻って来た万吉は観念したかのように急に愛想が良くなった。


「これで治めてくれよ」


 懐からよれよれの袋を出し、中から束の札をひとつ取り出して宗雄の膝元に置いた。


「どうせ女はいつか失くするもんだろ。早いか遅いかの違いなだけだべ」

「……」

「傷物になった以上、騒ぎを起こせば、あんたのほうが面倒なことになるんでねの? 世間は理不尽なもんだ。ここは堪えて、穏便に治めてくれよ。な、宗雄さん」

「金村さん、あんた、自分が何を言ってるか分かってますか?」

「分かってるよ。悪いことは言わない。面倒なことにならないよう、それを受け取って帰ったほうがあんたの身のためだよ。それに、邦松がやったかどうかだって証明出来っこねんだ。それとも誰かその現場見た者でもいるのかい? 居るんだったら誰なのか教えでもらいたいくらいだ。そしたら邦松の疑いだって晴れるべがら。おれは、邦松がやったことにしてもいいって言ってるんだ。あんたの気が少しでも治まればと思ってジェンコだって出してやるんだよ、宗雄さん」

「黙って聞いでれば、随分虫のいい話をするもんだしな。そうやって何人ジェンコで弱い者の頬っぺだ叩いたんだしか?」

「何だと!」

「お宅の下のだらしない息子が残した薄汚い証拠ならありますよ」

「何だ、その言種は!」

「万吉さん、あんたには謝罪とか反省の念は全くないようだしな。仕方ねし。訴えさせでもらうしかねしな」

「訴えでもあのバカだばどうにもならねえよ、宗雄さん」

「邦松を訴えるんじゃねんだ。監督義務者であるあんたを訴えるんだしよ」

「おれば訴えるって?」

「邦松は裁かれなくても、あんたなら裁かれる。あんたは逃げられねしよ」

「そういうごどしたら、おめ…ただでは済まねえべよ」

「脅しだしか? こっちは娘の将来台無しにされて、もうただで済んでねえんだよ!」


 木澤宗雄は金村家を後にした。

 苦虫噛んだ万吉は座敷牢に入り、邦松に激しい折檻を繰り返した。息が上がって一様の怒りが治まった万吉は、地元ヤクザを呼んだ。


「木澤が、言うごど聞がねふてな」

「しばぎますか?」

「そういう乱暴なごどはやめで…あ、そうそう、やつの女房は大した器量好しだもんでな」


 数日後、役場勤めの宗雄の留守に、妻の頼子が襲われた。宗雄が帰宅すると、頼子は納屋で首を吊って果てていた。足下の遺書には“生き恥を晒してあなたの苦しむ顔を見る勇気がありませんでした。どうか、晃子と私の仇を討ってください。”とあった。


「頼子…冥途の土産を持って、晃子と後から行ぐがら…待ってでけれな」


 翌日、宗雄のもとに万吉の後妻のキネが訪ねて来た。随分やつれていた。キネは地べたに土下座した。


「この度は夫が…息子が取り返しの付かないことをしでかしてしまい、お詫びのしようもありません。申し訳ありません」


 キネはそう言うと、無言を貫く宗雄のもとを力無く去って行った。

 その日、キネは万吉に妙なことを言って金村家を出て来ていた。


「オドさん、雨降って川の嵩深いから、出掛ける時は気を付けでけれな」

「雨? 何言ってんだ、おめえは?」


 キネが出掛けた後、邦松が異様に燥いだ。


「カッチャ死ぬ、カッチャ死ぬ」

「邦松、黙ってろ! おどなしぐしてろ!」


 幼い頃のキネは文学少女だった。頼子と並んで村で評判の器量好しのキネは、半ば強引に万吉と結婚させられた。キネの生家は代々金村家の小作人だったが、祖父はその暮らし向きとは不釣り合いと思える本好きだった。祖父の本が大好きだったキネは、営林署で他界した中村義昭と筒井筒の仲で育った。義昭も本好きで当時なかなか手に入らない本をキネから借りて読んでは物語について尽きない会話を楽しんだ。しかし、時が経ち、キネは父親の身勝手な事情で最初の結婚をさせられた。その夫が他界し、これまた父親の強引な差金で万吉の後妻にさせられた。キネを想う義昭は婚期を逸したまま独身を通していた。


 金村家を出たキネは、その夜、帰らなかった。

 翌早朝、万吉はキネの父親の文昭を訪ねた。


「キネを出せ!」

「キネがどうかしたか?」

「昨日の夕方に家を空けたまま、まだ帰って来ない。おまえんとこに逃げて来てるだろ!」

「逃げるって…何があったんだしか? うちには来てねえよ」

「嘘を吐くな! さっさと出せ!」

「ほんとに来てねえよ! 何があったか知らんが、疑うなら中さ入って確かめればえべ」


 文昭が言い終わらないうちに、万吉はドカドカと家の中に入って行ったが、空振りの気まずさに捨て台詞を吐いた。


「キネが来たら連れて来い!」

「何があったんだしか?」


 万吉は文昭には応えず、乱暴な足取りで出て行った。


 キネは一晩中、牛洗橋の袂に隠れて忌々しい過去を振り返っていた。かつて夫の一周忌も過ぎ、気晴らしに松森グランドに奉納の獅子踊りを観に行った。その帰りがけ、ゆかた姿のキネは中学に上がったばかりの邦松を連れた万吉に呼び止められた。


「悪いんども邦松ば家まで連れてってもらえねべがな。これから急な会合があるもんで、この童が居ると…」


 キネの家は小作人の立場、万吉の頼みを断れるわけもなく、快く引き受けて邦松を家に送り届けた…までは良かった。家に着くと万吉が後ろから声を掛けて来た。


「すまなかったね、会合が中止になっちまったよ。わざわざ送ってもらうごともながったのに。晩飯でも食ってげばいいよ」

「いえ、夕飯の支度もあるんで帰ります」

「そう言わんで…文昭さんたちも呼ぶから」


 キネはひとまず万吉の家に入るしかなかった。入るなり万吉は邦松を座敷牢に入れて鍵を掛けた。キネの怪訝な顔に万吉は答えた。


「こうしないと夜中に寝惚けて出歩ぐもんでね」


 そしてキネは座敷牢の邦松が見据えるその場で、万吉に強引に関係を持たれた。父・文昭はこれ幸いと万吉に借金の帳消しとキネとの結婚を迫った。キネが拒むことは許されず、更に万吉にとっては器量好しのキネとの再婚は渡りに船だった。幼馴染の中村義昭との思い出はキネの宝だったが、またもキネの結婚は万吉と父親の勝手で決められてしまった。


 キネは日の暮れた牛洗橋に立った。耳を澄まし、幼い頃に義昭たちとよく遊んだ鬼ノ子川の清流の音を聞いていた。

「義昭…」

 つらい過去が流れた…ふと異様な息遣いに気付いて振り返ると、月明かりに淫らな態の邦松が立っていた。


〈第6話「バッチャの死」につづく〉

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