第6話 バッチャの死
国鉄阿仁合線が鬼ノ子村駅まで延伸された1963年の秋。
それまで公共の交通機関はバスだったが、村人の多くはバスより金の掛からない徒歩だった。少し裕福な者は自転車、家業の馬車や馬橇を利用していた者も少しばかり居た。村人には便数の少ないバス利用の頻度もそれほど高くはなかった。山間の街道は危険な場所も多く、一般車両の転落事故も絶えなかったため、腕のいいバスの運転手や女の車掌もある意味花形職業だった。そこにもっと花形の鉄道が入り、村はお祭り騒ぎとなった。乗客は盆暮れ冠婚葬祭並みの装いで鼻高々な気分に酔い、安全で早い汽車の利用が急増し、花形はバスから汽車に移って行った。
その日、絹子は鷹ノ巣に引っ越す時春を見送ろうと鬼ノ子村駅舎に居た。
「時春が鷹ノ巣の叔母さんちに行ったら、あんまり会えなくなるね」
「会おうと思えば会えるよ」
ふたりは無言になった。
「絹子…」
「何?」
「つらい?」
「……」
時春は、特殊な能力に苦しむ絹子を慮ったのだが、絹子は何と答えたらいいのか言葉が見つからなかった。
「オレ、鷹ノ巣で新聞配達するんだ」
「学校は?」
「来年から行くよ。新聞配達で高校の学費稼がないと」
「時春は頭いいもんね」
「オレ、新聞記者になる」
「夢があって羨ましい」
「絹子だって夢あるだろ、小説家になる夢」
「でも…働きに出ないと。自分の食費くらい家に入れないとね」
「んだべな…どこで働くの?」
「製材所しかないべよ…山のカシギ(賄い婦)だば、人手足りないらしいけど、男の人ばりでおっかねがら」
一緒に居る時間が満たされないふたりは、また無言になった。
時春を送って帰った絹子は、玄関の前に立った。自然とその手が玄関を通して見える人物を指差した。慌ててその手を下ろし、絹子は家の中に入った。座敷には病気で臥せったバッチャが絹子の帰りを待っていた。
「絹子…今、何が見えた?」
「……!」
「ちゃんと喋れ。なんも、おっかねぐねんて」
「…バッチャのお葬式」
「んだべ」
清乃は絹子に優しく微笑んだ。
「バッチャ死んだらどこさ行ぐど思う?」
「どごさ行ぐの? …どごさ行ぐの」
絹子は急に悲しくなり、しゃくりあげて泣き始めた。
「なんも泣がねくてもええ。バッチャは今までより絹子の傍に居るんだよ。ここさね」
清乃は精一杯の力で絹子の胸に手を伸ばした。絹子はその手を両手で包み、頬に寄せた。
「バッチャ、ありがと…ここさ居てね」
絹子の不思議な力を理解していた唯一の祖母が他界した。一人ぽっちになった絹子は、長く住んだ清乃の家を出て、吉田家の養女として本家で暮らすことになった。
生前の清乃は当主の実兄・當雄と相談し、自分に万が一のことがあったら、絹子を子どもの居ない長男・貞行夫婦の養女にする段取りにしていた。
絹子にとって新しい生活が始まった。吉田家の養女になったものの、相変わらず村人たちの“変わり果てた未来”に悩まされた。祖母以外の理解者を探そうにも、死を予言する絹子を誰もが気味悪がった。養父母も次第に絹子に気を遣うようになった。
絹子は、村人たちの“変わり果てた未来”について一切言わないことにしていたが、バッチャと交わした指切りげんまんの約束を思い出し、“変わり果てた未来”が見えた時には、その人に危険を教えるために黙って指を差すことにした。
「何だよ、それ? 何でオレに指を差すんだよ、絹子」
絹子は中学の同窓会で、社会人になった和男の“変わり果てた未来”に戸惑っていた。絹子は迷ったが、既に指は和男を差してしまっていた。
「別に…何でもない。気にしないで」
「気になるだろ。絹子に指差されたら何でもないことないだろ」
「和男は今何してるの?」
「車の修理見習い3年目」
「3年ならもう見習いじゃないね。頑張ってるんだ」
「遅まきながら給料貯めてやっと今年免許取った。安いボロ中古車買ってコツコツ修理してる」
「凄いね」
「話逸らすなよ、絹子。おれ、死ぬのか?」
絹子はもう一度恐る恐る和男の足を見た。やはりない。そして次の瞬間、“変わり果てた未来”に至る走馬灯が脳裏を過った。絹子は呼吸を乱してその場に座り込んだ。
「絹子、大丈夫か!」
和男が抱き起して会場の端の椅子まで連れて行った。時春が遅れてやって来た。すぐに絹子たちを見付けて寄って来た。時春の顔を見た絹子は一気に涙が込み上げた。
「つらいか、絹子?」
時春の言葉に絹子は大きく頷いた。
「私…帰らないと」
「送ってくよ」
「オレが送って来るから…時春は今来たばっかりだからゆっくりしてて」
「いや、和男は幹事だろ。オレが送ってくよ」
「そうか? そうだ、時春!」
「なに?」
「おれ…絹子に指差された!」
「和男、明日、会社休んで家から出るな!」
「会社は休みだども、山菜採りで社長のお供だもの!」
「死にたくないなら断れ」
「死にたくないけど断れるわけねえだろ」
付いて来る和男に構わず時春は絹子を連れて会場を出た。
汽車が鬼ノ子村駅に向かって発車した。
「義理のお母さんたちとうまくやれてる?」
「…うん」
「あんまりうまくいってないの?」
「私、嫌なものが見えるから、みんな気味悪がって…」
「きっと意味があるんだよ?」
「私、頭がおかしいのかもしれない」
「小学校の頃、忠雄と高志が溺れて亡くなる時も予知したよね」
時春の言葉に絹子は驚いた。
「あの時、絹子は忠雄と高志を止めたよね」
「覚えてたの?」
「忘れ物取りに戻ったら、兄が教室に居たから嫌な予感がした」
「春久にぶたれたら何も言えなくなった」
「最低の兄だよ。中学出たら家を出てヤクザの事務所に入り浸りだ。あの時、兄が死ねばよかったんだ」
汽車が鬼ノ子川に架かる赤い鉄橋に差し掛かった。ふたりは窓から見える山峡の鬼ノ子川を見下ろした。美しい風景のはずなのに絹子の表情が見る見る青褪めた。
「どうかした?」
「……」
「また何か見えたんだね」
「どうして私、見えるのかしら」
「能力だよ。絹子の特殊能力」
「聞かないの?」
「何を?」
「何が見えたか…」
「聞いた方がいいの?」
「聞かないで」
「だろ」
会話が途絶えたまま汽車に揺られて絹子は気が付いた。時春に話している。清乃にしか分かってもらえなかったことを今、時春と普通に話せている。嬉しかった。
汽車が終点鬼ノ子村駅に到着した。
「時春も実家に帰るの?」
「いや、オレはこのまま折り返すよ」
「同窓会にまだ間に合うものね」
「同窓会には戻らないよ。絹子に会えたからいい」
「え?」
照れ笑いをしながら時春は絹子と一緒に汽車を降りてホームに出た。時春の背中を見ながら、絹子はまだ別れたくないと思った。ふたりはホームを下りて、こじんまりした駅舎の待合室に入った。
「ちょっと座ろうか?」
時春が腰掛けたので、絹子も倣った。お互いに胸が高鳴っていた。同時に絹子は迷っていた。さっき窓の外から見えたことを時春に話そうか話すまいか…。
「時春?」
「ん?」
しかし、絹子の口から出たのは別の言葉だった。
「新聞記者になる夢…果たしたね」
「どうかな…まだ雑用ばかりだから」
「雑用だって夢果たしたことになるよ、おめでとう、新聞記者さん!」
「よせよ!」
会話が続かず、ふたりの胸の鼓動も一向に治まらなかった。
「絹子、帰らないとね」
「…うん」
そう言いながら、ふたりとも立とうとしなかった。汽車が何度かホームに入っては発車して行った。とうとう最終便になり、時春は立った。
「絹子、今度は迎えに来るね」
絹子は最初、時春の言っている意味が分からなかったが、その真剣な眼差しに強い幸せを感じた。
「迎えに来るから」
絹子は見る見る涙を浮かべて大きく頷いた。
今度来る時、幸せを運んで来る汽車を、絹子は見送った。ひとり駅舎に残り、時春の温もりを追って佇んだ。
〈第7話「初取材」につづく〉
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