第4話 指を差す

 小学校の三学期が始まった初日、絹子は泣いて帰って来た。


「どうした、絹子! 鼻血出して!」

「春久に教えてやったのに…」

「春久か…あの童は父親に似て性質が悪いから…母親似の弟の時春とは正反対だ。鼻、少し脹れでるな」

「鼻叩かれた」


 清乃は絹子の鼻血を綺麗に拭いて呟いた。


「父さんが生きてたら春久半殺しだ」


 清乃はそう言って悔しがった。絹子の父親は十和田八幡平に根曲り竹を採りに行ったまま帰らぬ人となった。数年後、山中で散らかった衣類に絡んだ白骨が発見され、免許証から、熊被害に遭ったものと推定された。


「なんで春久に殴られだ?」

「川さ落ちるって教えでやった」


 春久は放課後の教室で、残雪の川に釣りに行こうと絹子の同級生2人を誘った。それを見ていた絹子は春久を止めた。


「この二人を誘わねでけれ。川に行ったら死ぬよ」

「何だよ、おまえ!」

「忠雄も高志も、川さ行ったら死ぬよ」

「ざけんなよ!」


 同級生二人を止めようとした絹子はいきなり春久に殴られた。そこに春久の弟・時春が忘れ物を取りに戻って来た。


「何やってんだ、春久」

「おめに関係ねえ」

「絹子を殴ったのか?」

「おめに関係ねでば!」


 この時期、春久の父・春茂は交流のあった地元ヤクザに刺されて他界し、母親のキネが万吉の後妻になった頃で、父親の実家に預けられた春久は荒れていた。時春は自分と似た両親の居ない境遇の絹子のことが気になっていたが、絹子に暴力を振るったことが兄の春久を嫌う決定打になった。


「行くべ!」


 威圧的な春久の言葉に、忠雄と高志は従った。

 時春は鼻血を出した絹子に駆け寄った。


「絹子…春久のこと…ごめんな」

「時春だば何も悪ぐねよ」

「したども…」

「時春は悪ぐね」


 時春は絹子の優しい言葉に泣きそうになった。兄の春久を絶対に許さないと思った。同時に絹子に対して淡い恋心が宿った瞬間でもあった。

 その夜、清乃のもとにまた訃報が届いた。絹子の同級生の田嶋忠雄と石田高志が溺死した。二人を誘った春久だけが無事だった。

 助かった春久の説明によると、忠雄は無断で持ち出した父親の釣竿を川に流してしまい、取ろうと川に入り、そのまま流されたという。忠雄を助けようと川に入った高志も、急な流れに足を取られて流されてしまった。


「おめはどうしてだんだ?」


 春久は祖母のトクに問い質されると、口を閉ざした。トクは全てお見通しだった。春久は震え出した。


「おめはこれから忠雄と高志に一生呪われて生きろ!」

「バッチャ…なしてオレに優しくしてけねんだ?」

「おめひとりだけ死ねば良かったのに!」

「バッチャ! なして時春だけ可愛がる!」

「分がらねえのか?」

「分がらね!」

「おめは父親そっくりだから嫌いなんだよ!」


 トクは、怠け者で地元ヤクザとつるんでは悪さを重ねて来た春茂を憎んだ。春茂がそのヤクザ仲間と諍いを起こし、刺されて死んだ時には心からホッとした。

 翌朝、清乃は登校前の絹子に確認した。


「おめ、忠雄と高志の何が見えだ?」

「春久が忠雄の釣竿、欲しがった。忠雄は、お父さんの大事にしている釣竿だから駄目だって断わったのに、春久は無理矢理奪い取った。忠雄が返せって必死に取り戻そうとしたら、春久はその釣竿を川の真ん中に投げた。忠雄は慌てて釣竿を取りに川さ入ってったら、深みに嵌って流され始めた。それを見ていた高志が、忠雄を助けようと川に飛び込んだんだけど、追い駆けるうちに自分も流れに飲まれてしまったよ」


 残雪が解け出した四月の川は危険だ。忠雄も高志も当然知っていたことだったが、春久の誘いを断れなかったことで悲劇が起きてしまった。清乃は絹子をまじまじと見詰めた。


「…そんたもの見でしまったか」

「バッチャとの約束どおり、忠雄と高志に話したんだけど…」

「そうだったか…絹子、忠雄と高志、川で死んだよ」

「んだべ」

「今度何か見えたら、そこで言うんじゃなくて、家さ帰って来たら急いでバッチャにだけ教えなさい」

「分かった」


 絹子は新しい約束の指切りげんまんをして元気に走り出した。清乃は胸が詰まった。絹子の後ろ姿が泣いていたからだ。

 その日から絹子は特別な情景が見えても、その場では黙り、どうしても抑えられない気持ちを治める時は、相手に対して無言で指を差すようになった。指を差された相手は何の事やら珍紛漢紛だったが、その人に危険を知らせるための絹子なりの精一杯の思い遣りだった。


 授業が再開して、絹子は何かが足りないと思った。そう…忠雄と高志はもういない。二人の机を交互に見て哀しくなった絹子は時春と目が合った。時春が優しく頷いたので、絹子も頷いたら涙が落ちた。

 何事もなかったように授業を進めている担任の中川昇に目を向けた絹子は“おや?”と思った。黒板に書いているはずの中川の片腕がそっくり見えない。教室を見回すと何人かの生徒の頭から血が流れ出した。


「絹子、聞いてるか?」


 中川の声で絹子は我に返った。


「ボーっとしてどうした、絹子? おまえ、3班の班長な」

「え?」

「だから! 今日の理科は裏山の沢の生態研究。班長は急いで採集用具の支度して!」

「先生!」

「なんだ、絹子?」

「今日は裏山に行かない方が…」

「変なことを言う童だな。行くも行かないもないだろ、授業なんだから先生が決めるんだべ!」

「…でも」

「でもでねべ! しぢくんで童だな! したら、おめは行がねってもええ! ひとりで自習してろ! 和男、おめが3班の班長やれ!」


 絹子が和男を見ると、指名されて困った和男の眉間から血が流れ出した。しかし、絹子はそれ以上どうすることも出来なかった。

 中川や同級生たちに危険が迫っていることを伝えられないまま、教室にひとり取り残された絹子は、理科の教科書を開いたが、胸騒ぎで何も頭に入って来なかった。中川のことはどうでも良かったが、同級生のことが、特に和男のことが気になっていた。自分の代わりに和男がひどいことになる…と絹子の良心が痛んだ。担任の中川昇という男は一升瓶で通信簿の成績を5にするクズ教師だった。生徒の扱いは保護者からの接待の有無で色分けされ、両親のいない絹子は当然視野から外された存在だった。絹子が班長に指名されたのは、言わばグループの使い走りにするためだ。絹子の代わりにされた石田和男もまた、中川の視野から外された貧農の子だった。中川の頭では班長は使い走りという位置付けだった。


「絹子!」


 振り向くと和男と時春が立っていた。


「ふたりとも、なして?」

「おれたちが居ねくたって、先生はどうでもえべ」

「んだな。中川先生は酒っこ呑ましてける家の子しか見でけねんてな」


 時春は列の最後尾に付いて、隙を見て和男を誘って離脱して来たのだ。


「家さ帰るべし」

「まだ5時間目が残ってるよ」

「皆勤賞貰いたいのか、絹子?」

「お母さんのお葬式の時に休んだからもう貰えない」

「ならいいじゃない」

「無断早引きだば怒られるよ」

「家の手伝いあるからって校長先生に言えば大丈夫だよ」


 三人は校長室に向かった。校長室に近付くといきなり戸が開いて、三人を見た校長が駆け寄って来た。


「おめだち、裏山さ行ってねがったか!」

「先生に言われたとおり教室に残って自習してました。あの、それで僕たち…」

「んだか、そりゃ良かった! 早く家さ帰りなさい!」

「なして?」

「熊出た! 中川先生が襲われた!」

「生徒たちは?」

「生徒も何人か襲われたらしい! 家の人迎えさ来るから、兎に角、家さ帰りなさい!」


 校長はそう言って校長室を後にした。三人が下駄箱で靴を履こうとしていると校庭から救急車の音が聞こえて来た。普段聞き慣れない救急車の音は三人には怖い音だ。愈々大変なことが起こったんだと思った。


 中川の決めていた校外授業の沢には、先客が居た。誰に対しても傲慢だった中川は、出くわした熊にも傲慢だった。沢蟹を漁っている子熊に、中川はいきなり石を投げ付けた。小熊が逃げ出したので、中川は勝ち誇ったように大声で追い駆けた…その足が、ピタリと止まった。小熊と入れ違いに巨大な親熊が中川の前に現れた。中川は引率した生徒の列を突き破って一目散に逆走し出した。生徒たちは蜂の巣を突いたようにてんでんに散るしかなかった。親熊は生徒たちには見向きもせず中川を追った。そしてその歩を緩めた視線の先に、藪に足を取られて転倒した中川が居た。


「おれを喰ったって美味ぐねど!」


 それが中川の最期の言葉だった。親熊は中川の首に喰らい付き息の根を止めてから右肩から齧り取った腕を子熊に放った。小熊はそれを銜えて林の中に消えていった。親熊は中川の足を銜えて引き摺り始めた時、銃声が鳴った。親熊はふてぶてしく振り返ったが、首の折れた頭がぐらんぐらんするクズ教師を引き摺って子熊の後を追った。


 絹子たちが校庭に出ると、生徒の保護者や鉄砲を肩にしたマタギの人たちが集まって来ていた。校門前には救急車や警察車両が停まり、物々しい雰囲気だった。


「絹子!」


 清乃が迎えに来ていた。


「怪我はねが?」


 そう言いながら清乃は目を潤ませて震えていた。


「時春が付いてでけだ…和男も…」

「おれだば別に…」

「時春も和男もなんともねべ」

「はい」

「おめだぢはバッチャが送ってぐがら、一緒に帰るべ」


 三人は清乃に連れられて小学校を後にした。


〈第5話「座敷牢名主」につづく〉 

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