第3話 指切りげんまん

 幼い頃の絹子は、祖母・清乃が毎年恒例にしている正月の本家挨拶に一緒に連れて行かれた。絹子の父親の敬蔵はひとりマタギだったが山で帰らぬ人となり、母親の八重は病弱で入退院を繰り返していた。


 或る日、清乃が見舞いに行くと、病室の八重は絹子の誕生日プレゼントを用意していた。


「看護婦さんに頼んで買ってきてもらったばって、気に入ってければえんどもな。絹子が大人になったら渡してやってけれ」


 八重の言葉に、清乃は嗚咽を飲んだ。死期を悟った八重の深い愛と無念のプレゼントだった。その深夜、八重は息を引き取った。以来、清乃は絹子の親代わりになり、一所懸命愛情を注いで育てていた。

 今日は八重が他界して三回目の正月で、本家への挨拶回りだった。そのふたりの後ろに距離を置いて邦松がついて来ていた。

 邦松は鬼ノ子村の郷士・金村家のたったひとりの跡取りだが、知的障害を抱えていた。籍はあっても学校に通うこともなく、父親の手伝いをして過ごしていた。いつの頃からか絹子に執着し、絹子の周りをうろうろしては、自慰行為をするようになっていた。


 性は睡眠や排泄と並ぶ基本的欲求だが、現代に於いても医療、介護、福祉の中で黙殺されている課題である。況してこの物語の時代にあって邦松の行為は、村人には禁忌なる淫靡でしかなく、絶対に受け入れ難い狂人の業としか映らなかった。

 この日も邦松が絹子の家の周りをうろ付いている所に、清乃に連れられた絹子が出て来た。邦松は歓喜した。物陰から絹子の後ろ姿を舐め回しながらズボンに手を差し入れた。遠くなっていく絹子の後を追いながら、邦松は自慰を始めた。

 気配を感じた絹子が振り返った。


「バッチャ、邦松、何してる?」

「見るもんでね!」


 疾うに気付いていた清乃は、絹子の手を引いて急ぎ足になった。一緒に速足になった邦松を見て絹子は笑った。


「バッチャ、見て、見て! 邦松、面白いよ。ズボンに片手突っ込んでへんてこりんだよ」

「見るもんでねえでば!」


 急ぐ清乃と絹子の後で邦松が奇妙な唸り声を上げて膝から落ちた。荒い息の邦松を見て、絹子はケラケラ笑いが止まらなくなった。


「絹子、見るなでば! あんたらもの見だら目が腐る!」


 清乃は絹子の手を引いて小走りになった。


「ねえ、バッチャ、邦松、なしておちんちん掴んでたの?」

「頭おかしいからだ。邦松には気を付けねば駄目だ」


 清乃に手を引かれて遠くなる絹子を見据えた邦松は、またもっそり立ち上がり、後を追い始めた。

 息を切らした清乃が本家の兄・當雄と対座していた。お茶を持って来た妻の豊子は息の苦しそうな清乃に声を掛けた。


「清乃さん、息切らしてどうしたの? どこか悪いんでないの?」

「なんも…あの、邦松のせいだべ」

「邦松がまた何かやらかしたか!」

「おちんちん触りながら付いて来たよ」


 あどけない絹子の言葉に清乃は慌てたが、當雄は笑った。


「そうか! おちんちん触りながら付いて来たか!」


そう言ってまた當雄が笑うと絹子も笑った。


「笑い事でねでば」


 清乃は憮然と呟いた。豊子は笑いを堪えながら…


「万吉さんも頭の痛いことだわね」

「邦松もこの先、嫁迎える歳になるべども、あのままだば成り手が居ねべ」

「あそこは代々、借金させてる家の娘ば嫁っこさ漁る家だんて、なんも困らねべ」

「それもそんだべども」

「警察沙汰になっても、邦松だばすぐに帰されるもんだがら、迷惑蒙っても誰も彼もみんな泣き寝入りだ」

「関わった者はみんな傷物扱いだものな」

「あそこは代々ああいうのがよく生まれる。万吉さんがもう少ししっかりしてければな。最初の奥さんは邦松の下孕んで身投げだべ」


 清乃たちは大きな溜息を吐いた。


「そうだ!」


 そう言って當雄は、年季の入った綿入れ半纏の袖から点袋を出して絹子に差し出した。


「絹ちゃん、今年もよく来てけだな!」


 絹子は當雄のお年玉には見向きもせず、隣の豊子を凝視したままだった。


「絹ちゃん?」

「はい!」

「私の顔に何か付いてる?」


 豊子は冗談交じりに絹子に微笑んだ。絹子は不安げに清乃の顔を見た。


「絹子、本家のお祖父ちゃんからお年玉をいただきなさい」


 絹子は慌てて當雄から点袋を受け取った。


「ありがとうは?」

「ありがと」


 當雄夫婦も清乃も、絹子を気に入っていた。両親の居ない絹子を、子どもの出来ない息子夫婦の養女にしようと決めていた。絹子の身に何かあっては困るのだ。


「絹ちゃん、邦松は病気なんだよ。邦松が近付いて来たら、病気が移るから急いで逃げるんだよ」

「うん!」


 本家を出た絹子はすぐに清乃に聞いた。


「…バッチャ」

「なんだい?」

「あのおばちゃん、どうして顔半分しかないと思う?」

「そんなおばちゃん居ないでしょ」

「ほら、あのおばちゃん、顔半分ないよ」


 そう言って、絹子は見送る豊子に指を差した。清乃は手を振っている豊子に深々とお辞儀をするそぶりで絹子の指差す手をさり気なく下げ、再び帰り道を歩き出した。


「なしてそんた事…優しいおばちゃんだべ。そんた事言うもんでね」

「バッチャ、あのおばちゃん死んじゃうよ」


 その夜、豊子は外厠で用を足している最中に熊に襲われた。悲鳴を聞き付けた當雄が何事かと顔を出すと、豊子は熊に頭を銜えられて外厠から引き摺り出されながら苦しみもがいていた。


「貞行! 熊だ! 鉄砲、鉄砲!」


 當雄の息子の貞行が鉄砲を持って飛び出して来たが、熊に頭を銜えられた豊子は既に山に向かって引き摺られて行く途中だった。

 貞行は一旦は熊に狙いを定めて引き金に指を掛けたが、万が一豊子に弾が当たってはと威嚇射撃を一発放った。熊は構わず豊子を銜えたまま引き摺って行くので、貞行は意を決して熊に狙いを定めて発砲した。震える手で弾は逸れ、空を切った。


「おれによこせ!」


 當雄は貞行から銃を受け取って構えた。すると、熊は豊子を放して一目散に逃げて行った。


「あのやろう、おれば覚えでだな」


 當雄は熊を追う本能に駆られたが、豊子に駆け寄って絶句した。豊子の顔面が半分抉り取られていた。當雄は慌てて上着を脱ぎ、豊子の頭を覆った。駆け寄って来た貞行がその上着を取ろうとしたので當雄は怒鳴った。


「見るな! …見ねでけれ」


 その夜、本家から清乃の元に豊子の訃報が届いた。清乃は床に就いて間もない絹子を起こした。


「絹子、昼間、何見た?」


 寝入り端に起こされた絹子は半分寝惚けながらも答えた。


「何って何?」

「本家でおばちゃんの何見た?」

「おばちゃん?」

「んだ、おばちゃんの何見た?」

「おばちゃんの顔が半分しかなかったよ。見た時、バッチャに言ったべ? したらバッチャはそんた事言うもんでねって言ったべ」

「…言ったな」

「おばちゃんがどうかしたの?」

「…おばちゃんが熊に噛まれて死んだ…頭、半分無くなった」

「うん」

「うんって…絹子、あの時、他に何かが見えてたの?」

「見えてたよ。おばちゃん、熊に銜えられて山さ連れてかれるとこ見えたよ」


 清乃は腰が抜けた。まじまじと絹子の顔を見ながら考えた。


「絹子、これはあんたの特別な力かもしれない。人の助けになる力かもしれないから、何か見えたら早く教えて。そしたら、その人は死なないですむかもしれないからね」

「うん、分かった」


 絹子は清乃と指切りげんまんで約束した。


〈第4話「指を差す」につづく〉

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