第2話 噂
典型的な冬型気圧配置により、鬼ノ子村は前日からの大雪が続いていた。正月とは言え、林業景気で鬼ノ子村営林署に休みはなかった。
山の伐採現場の宿舎には13人の作業員が泊まり込みで働いていた。夜半になって宿舎で寝ていた朝子の長男・龍一郎が目を覚ました。静か過ぎる…時間が止まったような静寂に違和感を覚えた龍一郎はピンと来た。
「みんな起きろ! “わば”来るど!」
次の瞬間だった。ドーンという衝撃が走って、隣室の壁が突き破られた。龍一郎ら十人の作業員たちは、一瞬早く外に飛び出していた。地元民が“わば”と呼ぶ表層雪崩が一気に襲って来た。隣の部屋が押し流され、斜面を滑り落ちて行った。その部屋には三人の上司たちが寝ていたはずだ。十人の作業員たちは、手当たり次第にカマスやスコップなどをソリ代わりに、転げ落ちるように雪崩を滑りながら宿舎を追った。宿舎は林道でやっと止まったが、原型を留めないまま雪中に潜ってしまった。作業員たちは雪明りだけの手作業に手間取りながら雪を掘り始めたが、龍一郎の手は動いていなかった。耳を澄ましていた。そして夢中で掘り始めた。掘り進むうち、雪の中から手が飛び出した。
「誰か手伝ってくれ!」
龍一郎が叫ぶと作業員たちの何人かが駆け付けて、やっと一人を雪の底から引っ張り出した。龍一郎と龍作を採用してくれた上司の中村義昭だった。
「中村さん、大丈夫ですか!」
「キ…キネ…」
「キネ?」
「お、おれはおめば連れで…」
「中村さん!」
「逃げれば良かった」
「中村さん! しっかりして!」
「許してけれ…キネ」
中村はそのまま動かなくなった。別の場所を掘っていた最年長の加賀谷喜市が叫んだ。
「見つかったど! ふたり居る!」
その二人が続けて掘り出されたが、既に圧死状態だった。懐中電灯に照らし出された二人の形相を見て作業員たちは目を逸らした。中村とは対照的にあまりにも恐怖の形相に歪んでいたからだ。肩を落とした加賀谷は、憮然とした面持ちで舌打ちをした。
夜が白々と明ける頃、作業員たちは三人の遺体を毛布で包み資材運搬用のソリに乗せた。山を下りながら振り向いた雪崩の現場は、幅13メートルほどの規模だった。
件の営林署宿舎は、森林鉄道小岱倉(こたいくら)線の先の伐採現場に向かう林道の入り口に建っていた。裏山は70度の傾斜になっていたが過去に雪崩が起きたこともなく、利便性を考慮して建てられていた。しかし、裏山の急斜面の杉は安全面を考えて昨年の秋に一部伐採されたばかりで、この春に補強工事が予定されていた。しかし、山を知り尽くしたマタギでもある加賀谷は、尚早な伐採には異を唱えていた。案の定の惨事につい舌打ちをしたのだ。
開店の仕込みをしていた朝子は、ふと気配を感じて食堂のカーテンを開けると、吹雪のガラス戸越しにソリを引く営林署の作業員たちが肩を落として通り過ぎるのが見えた。朝子は3台のソリの荷姿にピンと来て胸騒ぎを覚えた。重い足取りの作業員たちの中に必死に龍一郎の姿を探し当てた朝子は、安堵の震えでその場に座り込んでしまった。
「母さん、どうした?」
日勤の龍作が起きて来て、座り込んでいる朝子に声を掛けた。
「山で誰か亡くなった、三人も。今、龍一郎たちがソリを引いて家の前を通ったよ」
「誰が亡くなったんだべな?」
「急いで営林署に行ったほうがいいんでねえか、龍作?」
朝子が言い終わらないうちに龍作は出掛けて行った。朝子は気が重くなった。自分が生まれ育った土地のことはよく知っているつもりだった。毎年、人の命を奪う冬山の怖さも知っているつもりだった。安定した収入を得るためにと息子たちを送った職場だったが、そこも危険と背中合わせの場だったことを思い知らされ、重苦しい一日が始まった。
救助に当たった十人の作業員の間で、中村義昭が最期に呼んだ名前が話題に上っていた。
「中村さんは確かに絹子じゃなくキネって…」
誰もが頭に浮かんだ。昨年の夏、木村絹子という作業員の髪が高速回転する鋸刃に吸われて惨死した際、その場で一緒に作業をしていた三人のうちのひとりだった藤島ヨネ子が、その夜に不審な死を遂げた話は村中の知るところとなっていたし、雪崩で命を落とした義昭がキネと連れ添えなかった悲劇も、作業員だけでなく、村人の誰もが知るところとなっていた。義昭の哀しげな死顔と、他の二人の恐怖に戦いた形相は余りにも掛離れていた。
「中村さんが見たのはキネさんで、他の二人が見たのは絹子だったんだべか…」
作業員たちは、絹子の話から惨死の現場に居た竹五郎と清蔵の話になった。竹五郎は家に籠り切りで、その視線の先はもうあの世を泳いでいる追い詰められようだった。一方の清蔵は事故の後、製材所を辞めて再就職した鬼ノ子村水力発電所の管理の仕事にも慣れてきていた。
清蔵が作業を終えて部屋に戻ると電話が鳴った。役場の湊夕子からだった。
「そちらは変わったことはないですね?」
「ええ、何も」
「そうですか…応援やりましょうか?」
清蔵は“おや?”と思った。今まで何が起ころうが応援を送るなどという連絡は入ったこともなかった。
「応援って…どうしてですか?」
「応援があったほうがいいかなと思いまして」
「応援の意味が良く分からないんですが…」
「意味ですか?」
「ええ」
「意味は後ろを見れば…分かると思いますよ」
湊夕子の声が途中から別の女の声に変わった。聴いたことのある声…清蔵は背中に悪寒が走った。
後ろに誰か居る。この声は絹子…きっと絹子だ…絹子が後ろに居る。多分、絹子は背中で自分を指差している。そう思いながら清蔵はもう一度電話に話し掛けた。
「もしもし」
電話がブツッと切れた。清蔵は恐る恐る後ろに振り向いた。誰も居なかった。ホッとして受話器を置いた途端、再度けたたましい呼び出し音が鳴り、清蔵の心臓がツンと来た。勢いその手が受話器を持ち上げていた。仕方なくそっと耳に当て、電話の向こうを探った。
「…もしもし」
「清蔵さん、そちらは変わったことはないですよね?」
「え?」
「役場の湊夕子ですけど…昨夜来の雪が激しいので応援やろうかと思いますが…」
「さっきも電話して来ましたよね」
「さっき誰か電話しました?」
「ええ、あなたが」
「私は今初めて電話したんですが…役場は8時半からですから」
畠山が壁の時計を見ると8時半を回ったばかりだった。
「もしもし、清蔵さん? 応援があったほうがいいですよね」
「応援の意味が良く分からないんですが…」
「意味ですか?」
「ええ」
「意味は後ろを見れば…分かると思います」
また湊夕子の声が変わって電話が切れた。清蔵はうんざりして何気なく振り向くと、鼻先に絹子の顔があった。仰天した清蔵は悲鳴を上げて後退り、腰が抜けて部屋の隅に固まった。
魘された清蔵は電話の音で跳ね起きた。
「夢か…」
電話に出ようとしたものの清蔵は躊躇して暫く迷っていたが、電話が鳴り止まないので思い切って出た。案の定、湊夕子の声だ。清蔵は慌てつつも好戦的に後ろを振り向いたが誰も居なかった。
「清蔵さん、湊夕子です! 小岱倉で雪崩があって営林署から三人の職員の犠牲者が出ました! そちらは大丈夫でしょうか?」
「小岱倉で! …こっちは今のところ特に…」
「そうですか、雪崩の現場が近いので充分に注意してください。避難しても構いません。清蔵さんの判断でお願いします」
「分かりました」
普通の電話だった。万が一と思い、再び勢い後ろを振り向いたが何もなかった。
清蔵は“待てよ”と思った。夢の中で絹子に指を差されたか差されなかったかを懸命に思い出していた。
「差されてない! 助かった!」
あの事故後、鬼ノ子村では絹子に指を差されたら死ぬという噂が定着していた。そして日が経つに連れて噂は膨らみ、指を差す絹子の狙いは、現場に居ながら助けようともしなかった藤島ヨネ子と畠山清蔵と横淵竹五郎だけではなく、村人全体への復讐だということになり、絹子の話をした場に居合わせた者全員にも恐ろしい祟りがあると信じられるようになっていた。
〈第3話「指切りげんまん」につづく〉
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