怪談「指を差す女」

伊東へいざん

第1話 貯木場

 風鈴の舌(ぜつ)がピクリともしない暑い日が続いていた。小さな食堂の手回し式かき氷機が一日の役目を終え、水滴を垂らしながら夕涼みをしている。突然、鬼ノ子村貯木場のサイレンが鳴った。

 暫くすると、食堂の前を大八車を押した地元消防団員らが通り過ぎて行った。近隣の村人たちが、稲の花はじける田圃の畦道に出て、不安げに貯木場の方角を眺めている。間もなく村のスピーカーから、製材所での事故を告げるアナウンスが流れた。

 食堂を営む松橋朝子は、近しい誰かが怪我を負ったのではないかと胸騒ぎを覚えたが、取り敢えずは火事でないことに胸を撫で下ろした。もし、製材所で火災が発生すれば、四方に隣接する収穫前の稲に飛び火して、あっという間に燃え広がり、この集落一帯を焼き尽くしてしまう大惨事に繋がるからだ。


 朝子の食堂のある鬼ノ子村は林業景気の最中にあった。藩政時代から続いていた伐採事業は昔ながらの筏流しなどの水運が主流で、天候などに左右されて効率が上がらなかったため、明治後期になって全国的に官営鉄道が整備され、次第に陸運への移行が進んでいった。

 朝子は1909年(明治44年)にこの地に生まれた。林道網がまだ開拓途上で運搬車両の性能も低かった時代だ。伐採したばかりの材木を効率的かつ安全に貯木場や官営鉄道駅まで輸送する「森林鉄道」の敷設工事が始まった頃である。

 開発の歳月が流れ、秋田県内を管轄していた秋田営林局は、県内に24の営林署を配置し、多くの職員や作業員が雇用されて当該集落は活気に満ちていった。鬼ノ子村にも営林署と貯木場が併設され、森林鉄道はその貯木場を起点として鬼ノ子川の左岸に沿って田園を南下して敷設されていた。


 鬼ノ子村が鉄道起点になったばかりの頃は朝子の三男・龍三の遊び場でもあった。気の合うひとつ上の学年の佐藤時春とはいつも一緒だった。時春は龍三の面倒をよく見た。家庭環境のあまり良くない時春を朝子も自然と面倒見るようになっていた。二人は待機トロッコに乗ったり、枕木の補強工事で交換された錆びた犬釘を拾っては、どうするともなく龍三の家の物置の隅に貯め込んでいた。


「オレも龍三んちに生まれればよかった」

「なんで?」

「龍三の母さん優しいし、父さん大工だし、マタギで炭焼きで農業も何でもやれるし…」

「時春の父さんは?」

「仕事しないし、酒飲むと暴れる」

「うちの父さんも酒飲むと暴れるよ」

「んだか…したら、オレたちは大きくなっても酒飲みにはならないようにしような」

「うん!」


 朝子は大工の夫・恒松これまつと二人で兼業農家を営んでいたが、龍三の上にいる年の離れた長男の龍一郎と次男の龍作の二人を、定時制高校に入れる学費を稼ぐために食堂を始めた。息子二人には先細りの農家を継がせず、一年を通して安定した給料を貰える営林署に就職させたかったためだ。兼業農家の傍ら、製材所の従業員を対象に食堂を開いた朝子の店は繁盛し、龍一郎と龍作は定時制高校を卒業して鬼ノ子村営林署に就職するようになった。


 この地域一帯が将来まさか資源の枯渇がやって来て、木材供給の衰退と輸入材木の導入に見舞われ、更に奥地開発による鉄道建設費の増加や採算性が悪化していくなどとは思いもよらなかったろう。


 林道整備に伴うトラックへの切替が進んだにも拘らず、昭和46年9月に五城目営林署の杉沢線が廃止されたのを最後に、秋田県内の森林鉄道は姿を消し、1975年(昭和50年)本州最後の長野の森林鉄道「遠山森林鉄道」も廃線となり、その歴史が完全に幕を閉じることになるが、この物語はそうした林業景気の風がまだ吹いていた頃の鬼ノ子村のお話である。


 その日、鬼ノ子村貯木場でパートに通う若い女性・木村絹子が、製材機に髪を巻かれて惨死した。彼女に何が起こったのか…同じ現場に居た三人の作業員が絹子の絶叫に振り向くと、彼女の長い髪が高速回転する鋸刃の軸に巻かれ、あっという間に引き摺り込まれて頭から血飛沫を上げ始めた。

 すぐ傍で目撃してしまった三人の作業員には一瞬の出来事だったが、絹子にとっては回転する製材機の鋸刃がゆっくりと近付いて来たはずだ。鋸刃が頭に到達し、恐怖と激痛に見舞われている時に、傍に居た三人の作業員たちの誰一人として救いの手を差し伸べてくれない孤独が、憎しみに変わりつつ死んでいったに違いない。

 回転する鋸刃が頭に到達し、真っ二つに切り裂かれながら、絹子は順番に三人を指差した。その指先が激しい痙攣の後、だらりと垂れた。三人は絹子の無残な最期を凝視したまま、その場に凍り付いた。

 風雨に朽ちた羽目板張りの間から偶然中の様子を見た者が居た。父親の後を継いで大工見習の身だった龍三である。たまたま泊まりの建築現場に向かう前に、恒松に頼まれた材木を仕入れに来ていた。急いで作業場に駆け付けると、製材機の台から惨死した絹子の血が滴り落ちていた。その傍らを逃げ出そうと必死に這い回る三人を横目に、もう一人の姿を探したが既に消えていた。


 蜂の巣を突いたような村の騒ぎが一日掛けて治まった深夜、食堂の硝子戸をけたたましく叩く音がした。そろそろ寝ようとしていた朝子が食堂の硝子戸のカーテンを開けて覗くと、貯木場の社員長屋に住む藤島ヨネ子だった。社員長屋は、朝子の食堂から100メートルほど先の貯木場正門の手前右側にある。当時としては設備の整った2Kの風呂トイレ付5軒が、棟続きで二棟向かい合って建っていた。ヨネ子は貯木場入口に一番近い手前の棟に住んでいた。

 寝巻のままのヨネ子の荒れた呼吸が、何かとんでもない恐怖に見舞われたことを物語っていた。朝子が急いで硝子戸を開けると、ヨネ子は勢い土間に倒れ込んで来た。


「どうした、ヨネ子さん!」


 ヨネ子は歯をガクガクさせて震えが止まらず、真っ青な顔で座り込んだまま放心状態になった。朝子は蒟蒻のようになっているヨネ子を抱え上げて、何とか囲炉裏端まで連れて行き、座布団に座らせた。とにかく落ち着かせようと、囲炉裏のアクの中から熾きを戻した。


「落としたばっかだから、すぐ暖まるからね」


 夏とは言え、盆地の夜は底冷えする。それでなくてもヨネ子は恐怖で痙攣のような震えが止まらない。朝子は、丁度いい冷め具合のお湯で煎茶を入れた。湯飲みに注がれる茶湯の一筋は柔らかい湯気を漂わせて、少しはヨネ子の心を癒したはずだ。


「一口付ければ落ち着くべ」


 ヨネ子は朝子に言われるままに茶碗に手を伸ばしたが震えが止まらず、その手を引っ込めて胸の前で両腕を固く閉ざしてしまった。そしてヨネ子は歯をガクガクさせながら呟いた。


「出た…絹子が出た…」


 要領を得ないヨネ子の話によると…

 職場で恐ろしい光景を目撃してしまったその夜、帰宅してから夕食も喉を通らず、悶々としながら床に就いた。一旦は電気を消したが、闇に事故の場景が繰り返し浮かんで来て眠れなかった。ヨネ子は電気を点けて寝ることにした。

 やっとうとうとし始めた頃、ふと襖の向こうに人の気配を感じて、長屋の誰かが心配して来てくれたのかと襖を開けると、絹子が立っていた。ヨネ子は寝惚けていたのか死人を見ているとも思わずに話し掛けた。


「来てけだの? そんな恰好でどうかした?」


 白装束の絹子はゆっくりとヨネ子に指を差した。ヨネ子の脳裏に、またあの事故が蘇った。絹子があの時と同じように自分に指を差している。そこでやっと状況を飲み込んだヨネ子は絶叫した。


「許してけれ! 許してけれ! 私を指で刺さねでけれ!」


 朝子にしどろもどろ説明するヨネ子の目が一点に張り付いた。


「どうしたの、ヨネ子さん?」

「絹子ちゃんが…居る。また私を指差して…」


 ヨネ子は食堂の入口のガラス戸を凝視していた。


「誰も居ないよ! ヨネ子さん、しっかりして!」

「居る…居る…」


 ヨネ子にはガラス戸のカーテン越しに立っている絹子が見えていた。その姿が戸の境をすり抜けてぐんぐんヨネ子に近付いて来た。狂ったように叫ぶヨネ子の前に立った絹子は、またゆっくりと指を差した。


「…お願いだから、指を差さないで!」


 ヨネ子はそう言って気を失った。朝子は鳥肌を立てながら恐る恐る部屋中を見回したが、絹子が居るわけもなく、仕方なくヨネ子に麻布団を掛けてやり、今夜はそのまま休ませることにした。

 朝子は神棚に立った。モロビを燻してヨネ子の周囲を浄めた。それがヨネ子に今してやれる精一杯のことだった。


 明け方、上棟祝いの持て成しから龍三と泥酔した恒松が帰って来た。恒松は大声で朝子を呼んだ。


「朝子! 誰だ、この人!」


 龍三は直ぐに、昨日惨死した絹子の横を這いずって逃げたお年寄りだと気付いたが、説明するのが億劫で黙った。それに、現場から消えた人物のことも言いたくなかった。


「オレ、ウサギの餌採りに行ってくる」


 龍三はその場から退散した。朝子が何事かと起きて来た。


「大きい声出さねで、黙って寝でけれ」

「誰だ、この人?」

「貯木場長屋のヨネ子さんだよ。昨夜遅くに来たんだ。あんた! 上棟式だからって、また朝まで管撒いて…」

「引き止められたんだよ!」

「酒に負けて中風ちゅうぶ当だったって知らねよ!」

「それより、どうしてこの人がここに!」

「ヨネ子さんは夕べ、しこたまおっかね目に遭ったんだから、もう少し寝かしててやってよ」

「息してねんだよ」

「えーっ!」

「よく見ろ…目を剥いたまま血の気がなくなってる」


 朝子は鬼ノ子村診療所に走った。回診前の診療所が開いているわけもなく、仕方なくその先に在る交番に走った。西根巡査はステテコ姿で歯磨きをしていたが、事の次第を話すと歯ブラシ片手のまま自転車に乗った。


「先生ば叩き起こして連れて来てけれ!」


 そう言い残して、先に朝子の家に向かった。

 森川医師を連れた朝子が到着すると、早朝だというのに食堂の前は既に人だかりになっていた。森川医師によってヨネ子の死亡確認がなされた。


「どうだしか、先生?」

「目を剥いたまま亡くなってるんで、何か恐ろしいものでも見たんですかね?」


 西根巡査は朝子に視線を移した。朝子は西根巡査にも話したヨネ子の見たらしい“おっかねもの”の話をもう一度森川医師に話した。


「指を差されたって?」


 絹子の幽霊に指を差されてヨネ子が死んだという話は瞬く間に集落中に広まった。最も怯えた者が二人いた。ヨネ子と一緒にいて指を差された畠山清蔵と横淵竹五郎だ。

 清蔵は事故後2~3日して貯木場の日雇いを辞めて、空きの出た鬼ノ子村水力発電所の管理の仕事に移っていた。その発電所は村全体の電気を供給していたが、慢性的に作業員の成り手に窮していた。春から秋にかけては水路の落下口に詰まる樹木の小枝や枯葉を除去したり、冬場には雪や氷の塊を砕いて水流を確保する作業である。一ヶ月交代の孤独な泊まり込みなので、人付き合いの苦手な清蔵にはうってつけの仕事だった。

 一方、竹五郎は製材所で事故のあった翌日から、家に籠ったきり外に出ることがなくなっていたが、ヨネ子のお通夜だけはやっとの思いで顔を出した。その死顔に修整が施されていたとは言え、ヨネ子の尋常ではない死顔が竹五郎の心を抉った。お通夜から帰って以来、竹五郎は更に酒びたりになってしまった。


 あの事故以来、清蔵にしろ竹五郎にしろ、頻繁に絹子の夢にうなされ続けていたが、製材所ではその後事故もなく、絹子やヨネ子の死から半年ほどが経った。

 深い雪に閉ざされた鬼ノ子村は、明け方に除雪ドーザの雪が民家の出入り口を堆く塞いで通り過ぎる厳寒の正月を迎えていた。


〈第2話「噂」につづく〉

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