ウシとネズミ
佐野心眼
ウシとネズミ
春の心地よい風が、そよそよと草花の香りを運ぶある昼下がりのことです。黒くて、大きくて、立派なウシが、ある草原でのんびりと草を食べていました。そこへ、次の獲物を狙っている一匹のネズミがやって来て、人の良さそうな笑みを浮かべてウシに言いました。
「ウシさん、ウシさん、毎日毎日草ばかり食べていてかわいそうですね。たまにはうま味たっぷりのおいしい肉とか、とれたての新鮮な魚とか、濃厚なチーズとかを食べてみたいとは思わないんですか?そう毎日同じ草を食べていたら、三日とたたずに飽きてしまうでしょう。私はこの伸びる自慢の歯で、毎日違ったおいしいものをたらふく食べていますよ。」
言い終わると、ネズミは春の陽を浴びてキラキラと輝く小さな二本の前歯をウシに見せびらかしました。
ちっぽけなネズミに自慢され、馬鹿にもされたので、ウシは少しムッとしながら言い返しました。
「ふん、何をほざく、生意気な小ネズミめ。お前はこそこそと人の家に忍び込んで、人のいない隙を狙って食べ物をかすめ取る“こそ泥”じゃないか。お前は毎日びくびくしながら生きているが、俺は広い草原でゆったりと食事ができるのだ。それに、俺は毎日草ばかり食べているが、この頭には立派な角が生えているのが見えないのか?お前など、この一突きでおしまいだ。」
そう言うと、ウシは頭を低くして、つやつやと黒光りする大きな角の先端をネズミに向けました。小生意気なネズミを少しおどかしてやろうと思ったのです。ところがネズミは、怯むどころか落ち着き払って次のように言ったのです。
「では、あなたは私よりも強いんですか?」
予想とは違ったネズミの反応に、ウシの心は波立ちました。そして、吐き捨てるようにネズミに言いました。
「当たり前だ!」
ネズミはさらにウシを見下すように目を細めて言いました。
「確かに、あなたはご立派な角をお持ちのようですね。でもあなたは、その大きな角をトラさんとは反対の方向に、いつも向けておいでになりますねぇ。」
「どういう意味だ?」
「あなたは、私のような弱い者には角を向けてきますが、強いトラさんには角ではなく尻尾を向けて、いつも逃げてばかりいらっしゃるということです。」
「むむ、この俺が意気地なしだとでもいうのか?」
ウシの心の中では、いくつもの波と波とがぶつかり合って、いつの間にか大きな渦を巻いていました。ウシは鼻から勢いよくブルルッと息を吐いて、尻尾を
これを見て、普通のネズミならプルプルと震えて縮み上がってしまうのですが、何故かこのネズミは平静でした。そして、指で
「ええ、私の方が、あなたよりもよほど勇気があります。しかし、それだけではありません。体はあなたの方が大きくても、私の方が弁が立ちますし、頭の回転も早いし、何よりも私の方が誇り高いのです。私の前では、どんな者でも最後には
これを聞いたウシは、まるで目の前に稲妻が落ちたように、一瞬頭の中が真っ白になりました。それと同時に、心の底から憎しみがどうっと湧き出してくるのを感じました。ウシは心のバランスを失っていましたが、かろうじて残っていたちっぽけな平常心を頼って、低い声で言いました。
「ほう、この俺とお前とどっちが勇気があるか、どっちが価値があるか、試してみるか?」
ネズミはさらに
「いいでしょう。その丘の向こうは
言い終わるとすぐにネズミは駆け出して、いち早く崖っぷちにたどり着きました。そして後ろを振り返り、後を追って来たウシに大声で叫びました。
「お馬鹿で弱虫で
ネズミが舌を出しているのが見えました。ウシは額の血管を浮き上がらせ、目を真っ赤にして小さなネズミめがけて突進しました。
「今そこへ行って、お前を踏みつぶしてやる!」
崖っぷちに近付いたウシは、大きく飛び上がり、憎しみの全てを前脚に込めてネズミに叩きつけました。しかし待ち構えていたネズミはするりとウシをかわして一直線に逃げ出していました。そしてウシが自分の全体重を前脚に感じたその瞬間、崖っぷちの地面に亀裂が走りました。ガラガラ、ドドドーッと大きな音を立てて崖は崩れ、大きな岩や細かな土砂に混じって、ウシは谷底へと真っ逆さまに落ちてしまいました。
ウシは大きな体を空に舞わせながら、何とくだらない争いをしてしまったのかと嘆きましたが、もうどうすることもできませんでした。
ウシとネズミ 佐野心眼 @shingan-sano
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