第三十一話 戦略的遅滞行為
「僕は、籠の中の鳥になるくらいなら、雨に濡れた野良犬でいい」
勇輝はその言葉が浸透するのを、口を噤んで待った。
今まではっきり口にしなかったが、今、話したことは、偽らざる本音だった。また言葉にしたことで、勇輝の中にしっくりくるものがあった。
楓に対する反動がないとは言えない。だが、神様とともに生きると言うことは、勇輝にとって当然のことだった。
大輝を見ると、力強く頷いてくれた。先輩は、勇気付けるように微笑んでくれた。
勇輝にとって、それで十分だった。
二人がいれば、迷いなくこの道を進んでいける、と思えた。
三人の中に通じ合うものが流れ――それは楓の悲鳴で断ち切られた。
「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!」
楓は、嫌々をする様に首を振った。暴れ出そうとする体の、両手をグッと握って落ち着かせる。
「楓。僕は楓が執着するほど、いい女じゃないよ。ほら、楓もよく言ってるでしょ? 『下賤の者だ』って」
「関係ない! 俺は勇輝がいい! ……どうやったら、勇輝が助けられる? 勇輝は俺のものになる?」
身を切るような楓の声に、勇輝の胸は傷んだ。求められている嬉しさと、それが自分の望みと決定的に相容れない切なさ。
ここで楓の手を取ることは簡単だが、それはしてはいけないのだとわかっている。
「……ごめんね、楓」
決別の言葉は、ひどく苦かった。だが、それを言わなければならないのだ。
どうして自分が楓の『初めて』に選ばれたのか、本当のところはわからない。彼らに説明されても、きっと納得できない。だったら、あの日、狂ってしまった二人の関係だけでも、元に戻すべきだ。
戦場にあることが、己の運命だと思っている様な女は、楓のそばにふさわしくない。
「楓は、もっとちゃんとした女の子と恋愛をするべきだ。楓の家の身分に釣り合った、いいお家の女の子と」
こんなところで、僕につまずいている場合じゃない、と言外に滲ませる。
「僕は、楓とのことをなかったことにする。だから、楓も、忘れなさい。」
「なんでそんなこと言うんだ! お前は、俺のそばにいればいいんだ!」
楓の涙交じりの声にも、勇輝は答えなかった。
「なぁ、俺のそばにいろ。何不自由させない。好きなものだって買ってやる。……そうだ! 庭に植える木は、柿でもいい。だから……、なぁ! 勇輝!」
「……ごめんね」
大輝と先輩の視線を受けて、勇輝は穏やかに、しかし、はっきりと決別の言葉を口にしたのだった。
◇ ◇ ◇
「……ごめんね」
穏やかながらも、きっぱりとした謝罪の言葉。それが意味することは、楓を受け入れないと言うことだ。それがわかったのか、楓は勇輝に抱きつくと、駄々をこねるように
「なんで助けていらないんだ。何が気に食わないんだ。俺のものになれば、いい生活ができるのに!」
「……僕は、それはいらないんだ」
「いらないとか言うな! お前は、知らないからだ」
「うん。知らないからもあるかもしれない。でも、僕はここにいたいんだ。――楓のそばにいることが、家に入ると言う意味なら、僕は受け入れられない。……ごめんね」
「ごめんねじゃない! 今からでも許してやる。前言撤回しろ!」
答えを返さずに、楓の髪を優しく撫でてやる。少しでも興奮が落ち着くように。
だが、それは逆効果だったらしい。かえって楓は意固地になる。
「撤回しろ! なぁ、勇輝!」
「――甘えたこと抜かすな。さっきの話聞いただろ。勇輝は、お前のものにならねぇんだよ」
見かねた大輝が、楓を引き剥がそうとする。が、思わぬ力で勇輝にしがみついているため、それはできなかった。
「嫌だ! ヤダヤダ!」
「楓。我慢なさい。今までだって、あなたの思う通りにできなかったことはあったでしょう」
「それとこれとは、話が違います!」
伊吹の穏やかな説得も、楓の態度を変えることはできなかった。
ここで勇輝を手放せば終わりであるかのように、必死に抱きついてくる。
事実、ここで楓の手が離れれば、それで終わりなのだ。
勇輝は楓の『責任』を不要だと突っぱねた。楓が今まで責任感だけで動いていたなら、もう勇輝に構う必要はない。
今は、多少の執着が残れど、日が経って落ち着けば、それも消えていくだろう。
そうして、いつか、どこかの大切に育てられたお姫様と幸せになる。
それが楓にとっても、自分にとっても一番いいことなんだと、勇輝は自分に言い聞かせた。
「ね、楓。僕は楓の物にならないけど、だからって、これで終わりじゃないからさ。これからも、伊吹隊の隊員として、一緒にいるだろ? それじゃ、駄目?」
「――したら?」
「え?」
「伊吹兄様が、卒業したら? 伊吹隊がなくなったら? そしたら、どうするんだ!」
「だって、その時は、楓は、近習の人たちと隊を組むんだろ? 同じ小隊は無理でも、同じ大隊くらいなら――」
「そんなの、一緒にいると言わんだろ!」
楓の指摘も尤もだった。誤魔化されなかったか、と内心でつぶやく。
「そんなこと言われても……」
「そばにいなきゃ、守ってやれないだろ! お前一人じゃ、戦えないくせに!」
そう言われて、少しムッとする。
「そりゃぁ、僕は神司で、戦いには向いてないかもしれないけど。それでも、僕にだってできることはあるし、楓のことだって今まで何回も助けたことあるでしょ」
「それは同じ小隊だったからだろ。大隊で同じことができるのか」
「それは……」
ほらみろ、と言わんばかりの楓に反論する。
「でも、楓の近習にもいるだろ。神司が」
「いるけど、俺はお前がいいんだ! なんでそれがわからないんだ!」
そう叫んだ楓は、何かに気がついたように口を
「……そうだ! お前が俺の近習になればいい!」
「「「近習!?」」」
期せずして、楓以外の三人の声が重なった。思わず顔を見合わせると、三人とも「何を言ってるんだ」と顔に書いてあった。
だが、楓はそれに気づかず、名案だとばかりに続けた。
「お前が、俺の近習になれば、お前は俺の物で、でも、戦さ場にもいられるだろ。俺の近習なら、ずっと俺と一緒だから、守ってやれるし、無茶な任務も振られまい。いい案じゃないか!」
楓は、自分の案に満足したのか、どうだと言いたげに周りを見渡した。
「楓、あのね……」
得意げな楓の表情に、続きをいうのは
困って周囲に目をやると、大輝は「絶対断れ」と言う念を飛ばしてきた。だが、伊吹は意外にも、その話に乗り気なようだった。
「勇輝が、近習……」
その手があったか、というかのような口調に、勇輝と大輝は驚いた。
「伊吹さん?」
大輝の非難するような呼びかけに、伊吹はハッとなった。そして、慌てて言い繕う。
「あ、違います。違うんです。勇輝が近習になればいいという意味ではなくて。いや、もちろん、なっても構わないんですけど」
「「なっても、構わないんですか?」」
勇輝の疑問と大輝の非難が重なる。
今まで、伊吹が近習を持っていなかったから、勇輝達も近習というものをよくわかっていなかった。なんとなく知っていることは、主人のそばにいて、いろいろするんだろうな、ぐらいだった。
楓の、否、誰かの近習になる、という発想は、三人の頭の中にはなかった。それで楓に指摘されて、皆、驚いていた。
「……なったら、仕事に対する責任が生まれ、自由は制限されます。ですが、それ以上に、『三条家の近習』は、栄誉なことなんです。ですから、勇輝がどうしても、というなら、私は止めることができません」
失言だった、というように、伊吹が途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ほら。伊吹兄様もこう言っているではないか。俺の『近習』になれ、勇輝」
味方を得た楓が、嬉しそうに勇輝に詰め寄ってきた。
だが、それもすぐに大輝に阻まれる。
「俺は、反対だ!」
「何を!」
「近習なんて、ろくなもんじゃねぇだろ」
憎々しげに吐き捨てる大輝に、楓は余裕だった。
「ふん、なんだ? 妹の栄達が妬ましいのか?」
「ちげぇよ!」
「羨ましいなら、お前も近習にしてやらんこともないぞ?」
「それは、駄目です!」
楓の軽口に反応したのは、意外にも伊吹だった。
突然の大きな声に、皆の視線が集まる。その視線を受けてハッとなった伊吹は、居心地が悪そうに身を竦めた。
「いえ……、あの、駄目じゃなくて……。もちろん、大輝が望むなら、止めることはできないのですが、でも、二人は私の隊員で、それなのに二人とも楓の近習になるのは、その……」
「伊吹さん?」
いつもの伊吹らしくなく、モゴモゴと口の中で言い訳を繰り返す。そして、大輝に名を呼ばれると、捨てられた子犬のような目で彼を見上げた。
「……大輝は、楓の近習になりたいのですか……」
「まさか!」
「私も、大輝はどうでもいいです」
険悪な二人の意見が、珍しく一致した。それに伊吹はほっと安堵する。
「そんなことより、勇輝のことです。まさか、伊吹兄様まで、勇輝の上進を邪魔しませんよね?」
そんなことをしようものなら、ただじゃおかないとばかりに楓が視線に力を入れる。
「しかし、二人は兄妹なのに……。離れ離れにするのですか」
「たとえ、兄妹であっても四至鎮守軍に入れば、そんなこと考慮されません。いつかは、別の道を歩むのです。それが今でいけないわけはありますまい」
この件に関しては、楓の方が強い信念を持っていた。それで、伊吹の消極的な反対など、歯牙にも掛けなかった。
「伊吹兄様も、よくご存じでしょう? 四家やそれに次ぐ我が家の近習になると言う意味が。誰にでもなれるわけではない。栄達なのです。名誉なことなのですよ」
「……そう、それはわかります」
「それに、我が家の近習ともなれば、前線に出ることはありません。危険がぐっと減るのです。その代わり、本陣で采配に携われるのです。それこそ、勇輝の希望と能力を生かす最良の道だと思いませんか」
「……そうです、」
けど、と言う伊吹の呟きは、楓の「ほらみろ!」と言う声にかき消された。
「な! 伊吹兄様も、こう言ってくださっている。だから勇輝、俺の近習になれ!」
「断れ」と念を送る大輝。どこか煮え切らない伊吹。そして、断られると思っていない、満面の笑みの楓。
三者に挟まれた勇輝が、悩んだ末に、出した結論はこれだった。
「……一ヶ月間、お試しなら……」
一ヶ月、近習をやってみて、やっぱり無理だったと断ればいい。
それは、断るのが苦手な勇輝らしい回答だった。
だが、勇輝は気がついていなかった。それは、ただ、問題を先送りにしただけで、一ヶ月後、きちんと断らなければならないことに。
そして、その時、またこの笑みを向けられたら……?
一月後の自分も、一月経った自分でしかない、と言う事実を勇輝はすっかり忘れていた。
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