第三十話 野良犬の矜恃

「ゆゆゆ勇輝? どうした?」


 大輝にオロオロと問われ、そこで勇輝は自分が涙を流している事に気がついた。伊吹も驚いたように自分を見ている。

 だが、勇輝はそんな事よりも確認したいことがあった。


「……楓。今の話、本当?」


 涙を拭うこともせず、呆然と楓を見つめる。

 その雰囲気の異様さに気圧されながらも、楓はあぁ、と頷く。


「本当だ。勇輝は何の心配もしなくていいんだぞ。俺がきちんと面倒を見てやるからな」

 だから泣くな、と言う楓の言葉はもはや耳に入ってこなかった。




 

 




 それだけだ。

 楓にとってはそれだけのことだったのだ。


 あはは、と小さな笑い声が勇輝の口から漏れる。

 勇輝は、楓の言葉に衝撃を受けていた。

 そして、衝撃を受けたことで、ようやく自覚した。


 楓の手が振りほどけなかったわけを。

 口では抗いつつも、なんだかんだと楓を受け入れていたわけを。


 期待していたのだ。楓は、性欲ではなく、ただ自分を求めているのだ、と。『好き』と言う言葉はもらえなくても、想いは同じだと。


 だが、それは勇輝の自惚うぬぼれだったわけだ。完全に一人相撲だった。


 楓は最初からそう言っていたではないか!


 楓は、貴族の責任として、な勇輝を何とかとしていただけなのだ。


 ――あぁ、なんて立派な貴族様なんだろう!


 そうとわかった途端に、羞恥が勇輝を襲う。


「勇輝……?」


 心配そうな大輝の声に、何でもないと首を振る。もう、出てくるのは苦笑いだけだった。

 苦笑しながら、勇輝は涙を拭う。

 自分が、これほど鈍いと思わなかった。これでは大輝ひとのことを言えない。




 




 選ばれたのは、楓ではなく、自分だったのだ。

 楓はそれに付き合わされただけ。


 そうであるなら、本当に朧は悪趣味だと思った。醜悪で、低劣で、卑俗だ。

 だが、それにまんまと踊らされた自分は、滑稽で、愚鈍で、大馬鹿者だ。


 かわいそうに、と楓を見る。

 大人たちの悪趣味な娯楽のために歪まされた楓。

 真の被害者は、この子ではないのだろうか。


「どうしたんだ、勇輝。なぜ泣く?」


 ポロポロと涙をこぼし続ける勇輝を、楓が心配そうに見やる。それに、心配ないよと微笑み返す。


 その心配も、同輩に対する心配でしかないと思えば……、悲しい。


 勇輝は、今更ながらに自覚した。なんのことはない。自分が寂しかったのだ。

 寂しかったから、楓の強引さを言い訳に、ここまでずるずると受け入れてきてしまったのだ。


 本当に忘れるなら、――本当に、ただの先輩と後輩に戻るなら、二度目は受け入れるべきではなかった。

 なんとしても拒絶しなければならなかったのに、受け入れたのは勇輝の責任だ。

 確かに、もなかった関係に戻るのは、寂しい。だが、あると思っていたのは、自分だけだったのだ。


 であるなら。

 楓のことを思うなら、年長者である自分がきちんと選択しなければ。彼の将来を歪めてしまうことになる。


 一時いっときの感情に流されず、大局を見据えろ。


 これは、伊吹の背中を見て学んだことだ。

 そして、それを実践する時は、――今だ。


 勇輝は一つ、決意をすると、居住まいを正して楓と向かい合った。

 ぐずぐずと鳴る鼻を無理やり止め、できるだけ真剣な表情を作る。


「楓。楓の気持ちは、嬉しい」


 その言葉に、三者三様の反応が返ってくる。だが、勇輝は話はこれからだ、と皆を押しとどめる。


「楓。僕は楓がだよ」


 口にすると、こんなに陳腐なのかと苦笑する。勇輝の台詞に大輝と伊吹が驚いた顔をする。

 でも、そんなに驚かないでほしい。驚いているのは、勇輝も同じなのだから。


「何を……!」

「でも、だからと言って、楓の子供を産むことはできない」


 穏やかに、だが、きっぱりと楓の目を見つめて言い切った。

 その言葉に、楓は傷ついた表情をする。だから、勇輝は卑怯だと知りつつも、こう訊ねた。


「楓は、僕のことが、好き?」

「……!」


 その質問に、楓の瞳が揺れる。答えがないことはわかっていたが、それでも勇輝の心はちくりと痛んだ。だが、それを表情に出さずに続ける。


「楓は、初めて知った女が僕だったから、それで執着してるだけだと思うんだ」

「違う! 俺は、お前を助けたいと……! やや子ができれば、お前は戦わなくて済むんだぞ!」

「ううん。僕は、戦いたいんだ。伊吹さんの隊で。この力を使って」


 子供の頃から、勇輝の隣には神様がいるのが当たり前だった。それが普通でないと気がついたのはいつだっただろうか。

 普通でない勇輝は、集団から弾かれても仕方がなかった。だが、大輝は受け入れてくれた。勇輝の力を迷惑に思うことなく、ただただ妹として慈しんでくれた。

 そして、その力の使い道がやっとわかったのだ。だから、勇輝にその力を使わないという選択肢はなかった。


「あのね、楓。僕が神司だって知ってるよね」

「当然だ」


 そんな簡単なこと、今更確認されるまでもない。何度、神の加護を分け与えてもらったと思ってるんだ、と楓は怒る。


「じゃ、僕が祀っている神様はどなたか知っているかな」

「確か……建御雷之男神たけみかづちのおのかみ――?」

「――そう。建御雷之男神たけみかづちのおのかみ。……その神格は、雷であり、剣である。つまり、戦の神なんだ」

「……それが?」


 急に話が変わって、楓は訝しげな声を出した。大輝も、先輩も不思議そうにこちらを見ている。

 皆の注目を集めながらも、勇輝は落ち着いていた。もう、心は決まっているからだ。


「僕は……、生まれが生まれだから、特別に修行して神司の力を得たわけじゃない。物心ついた時から、神様と一緒だったんだ。それが自然のことで。」


 生まれた時から、当たり前だった自分の感覚を言葉にして説明するのは、少し難しかった。うまく伝わるといいけれど、と思いながらも、勇輝は必死に言葉を紡ぐ。


「えーっと、だから、戦いの神様と一緒にいることが自然で。それで、僕の神様は、戦場にいると、本当に楽しそうなんだ」

「つまり、何が言いたいんだ」


 要領を得ない勇輝の説明に、楓がイライラとし始めた。――もしかしたら、自分の望まない話へと進んでいることを感じたのかもしれない。


「僕は今まで、ずっと神様に守られてきた。だから、僕は僕の神様をお慰めする義務があると思う。……だから、僕は、僕の意思で言うよ。……戦うことはやめられない。楓に、助けてもらわなくてもいい。責任なんて、僕は欲しくない」

「お前はッ……」


 楓が反論しかけたのを、手を握って制する。


「楓が言うことも、理解できる。戦いから離れて、安全な所で生活することは、とてもいいことだと思う。……でも、僕の神様は、建御雷之男神たけみかづちのおのかみなんだ。僕は戦場に在ってこそ、意味があるんだ」


 それは、それこそが、勇輝が勇輝であるという矜持だった。


「僕は、籠の中の鳥になるくらいなら、雨に濡れた野良犬でいい」

 穏やかに、だが、誇りを持って勇輝は言う。

 その瞳は、力強く輝いていた。

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