第二十九話 楓の思い

「それで、これはどうなってるんですか?」


 伊吹は部屋に入ると開口一番、疑問を口にした。

 青羽は、主人の諍いを止められるほど有能ではなかったが、伊吹を連れてくる程度には有能だった。そして、青羽は今、何も言われずとも扉の前に立ち、何人もここに入れないように見張りをしている。分をわきまえた優秀な近習だった。


 閑話休題。

 説明もそこそこに連れて来られた伊吹は、教官室の中を見ても何が起こったのかよくわからなかった。

 大輝と半裸の楓が言い争うその間で、勇輝が耳を塞いで丸くなっている。勇輝は肌襦袢しか身につけておらず、うっすらとその肢体が透けて見えているのだが、構わないのだろうか。


「伊吹せんぱぁいっ……!」


 伊吹の声を聞きつけた勇輝が、情けない声を上げた。

 二人の間から這うように伊吹の元へと逃げて来る。


「勇輝。どうしたのです、その格好は」


 肌もあらわな勇輝を見咎め、近くに落ちていた彼女のものであろう着物を羽織らせる。


「先輩、それが……」

 と話し始めた勇輝の説明を聞いて、伊吹は頭が痛くなった。


 またか、と思うと同時に、その割に色気のない室内を見渡す。

 色気といえば、勇輝はほとんど裸なのだが、あの夜のような凄惨な淫靡さは見られなかった。その代わり、へにゃりと眉が垂れ下がり、困っていることだけは伝わった。


「合意の上……ではないのですよね」

 そんなことないとわかりつつも、どうしても確認せざるを得なかった。


「あんた、これ見えてんだろ」

 その言葉を非難するように大輝が勇輝の手を突きつける。その手首には痛々しく擦れた紐の痕があった。


「お貴族様の世界では、縛ってすんのを『合意』っていうのか?」

「大輝! そんな言い方しないの!」


 その刺々しい言い方に、勇輝が抗議の声を上げるが、伊吹は自分の浅はかな発言を詫びた。


「すみません、勇輝。愚かなことを聞きました。……楓、どうしてこんな事を……」


 それは皆が聞きたかったことらしい。伊吹の言葉とともに、楓に注目が集まる。

 皆の視線を浴びた楓は、ぶすっと頬を膨らませると、「だって、勇輝が……」と不満げな声を漏らした。


「あぁ? オメェが欲求不満だっただけだろーがよ!」


 大輝がガンッと手近にあった文机を叩いた。その拍子に、机の上に積んであった書類の山が散乱する。

 伊吹は元の状態を知らないが、この三人でかなり荒らしたのではないだろうか。こんなことをして、大丈夫なのか。


 大輝の乱暴な物言いと行動に、楓だけでなく伊吹も萎縮する。唯一、勇輝だけが平気で、「乱暴しない!」と大輝をたしなめた。

 狭い教官室に、大輝の荒い息だけが響く。誰もが、楓の次の一言を待っていた。


 責めるような、心配しているような視線を両脇から浴びて、楓がぽつぽつと言葉を零す。


「勇輝が……、月のものが来たと……、子が出来ていないと、喜んでいたんだ……。それが腹立たしくて……」


 そこまで聞いて、伊吹は勇輝と目を合わせると、揃ってため息をついた。そのため息に、楓が傷ついたような表情になる。


「楓。何度も言っているが、勇輝は今、子を望んでいないよ」


 嚙んで含めるように伊吹は言った。何度も繰り返している事を、再度口にする。

 その度に楓は黙りこくったが、今日は違った。


「どうして、伊吹兄様が勇輝のことを決めつけるのです!」


 楓は咎めるような声を出したのだ。それは、まるで、伊吹が重大な規則違反でもしたような口調だった。


「伊吹兄様はずるいです。勇輝は誰の物でもないと言いながら、勇輝を我が物のように扱っているではありませんか。大輝だってそうだ。兄というだけで、勇輝を自由にしようとする。なのに何故、私だけが責められるのです!」


 それは、癇癪を起こした子供の理論だった。


「楓――」

「うるさい、うるさい、うるさい!」


 落ち着かせようと伸ばした手が、振り払われる。楓は勇輝に抱きつくと、駄々をこねるように首を振った。


「伊吹兄様は、勇輝のことをわかっているふりをして、全然責任を取ろうとしない。だから私が責任を取ろうというのです。責任を取るんだから、勇輝を自分のものにして何が悪いんですか! 戦いは辛い。討伐は危険だ。そこから、大切なものを遠ざけることの何が悪いんですか!」


 楓の声は、どうしてこんな簡単なことがわからないのか、とでも言いたげな声だった。


「それが何で、強姦になンだよ!」

「お前たちが無知だからだ!」


 大輝の怒鳴り声に負けない声で楓が言い返す。その瞳には、自分の方に道理があると信じている者特有の強さがあった。


 楓と大輝はしばしにらみ合った後、どちらからともなく視線を外す。


 そして楓は物分かりの悪い生徒に話すように滔々とうとうと話し始めた。


「孤児だったお前たちは、知らないんだろう? 人並みの生活というものを。だから、四至鎮守軍に入ると思っている。それが大輝おまえだけなら構わない。だが、勇輝は女なんだぞ? だと思わんのか。だから、情けをくれてやったのに、大輝おまえも、勇輝も、あまつさえ兄様まで情けは不要だとのたまう。そんな事あるか! どうして誰も勇輝を守ってやろうと思わないんだ」

「俺だって、守ってやりたいと――」

「戦さ場に駆り出すことの、何が『守る』だ!」


 義憤に駆られた楓が、ピシャリと言った。その腕の中に、勇輝を囲い込む。


「『守る』ということは、危険から遠ざけ、安全なところで、心安らかに過ごさせることだ。なのに、大輝おまえはそれをしない。……伊吹兄様も『勇輝が望んでいるから』などとおっしゃって、改善しようとしない。『勇輝が望んでいるから』? 無知で、蒙昧で、不識な勇輝が望めることなど、限りがあるでしょう。どうして誰もそれを指摘しないのです。勇輝は。なら、多少強引でも、と思いませんか。……幸いなことに、私の家には勇輝一人養うくらいの甲斐性はありますし、小隊で一緒になったと言う縁もあります。ならば、私が面倒を見てやるのが一番いいと思いませんか。勇輝も最初こそ戸惑えど、きっと後で私に感謝する日が来ます」


 自分こそが勇輝のことを最も考えているのだ、と楓は胸を張る。

 そして、違いますか? と伊吹と大輝に視線を投げかけた。




 伊吹は反論できなかった。

 それは、楓の言うことに納得したからではない。伊吹が思っていたよりも、楓がきちんと考えていたことに衝撃を受けたのだ。


 伊吹は、楓が勇輝に執着するのは、子供っぽい独占欲からだと思っていた。そうでなければ色欲だけのことだと思っていた。自制心の強くない年齢で閨事を覚えた者は、しばし、それに耽溺することがある。嵌って、沈んで、そこから抜け出せなくなる。

 だから、道理を解けば理解できる理性を持ち、自制心のある楓なら大丈夫だと思っていたのだ。


 だが、そうではなかった。

 そうではなかったのだ。


 一連の行動は、――そのきっかけや手段がどうであれ、楓は楓なりに、勇輝のことを思っての行動だったのだ。

 そのことに今、ようやく気がついて、伊吹は楓が小さいままの『弟』ではないと知る。

 そして、自分がずっと楓を子供扱いして侮っていたことに気がついた。


 楓を子供扱いし、自分の判断基準で「こうだろう」と思い込んで、その主張によく耳を貸さなかった。

 思い返せば、最初から、楓は言っていた。「勇輝を助けたい」と。

 それが、こう言うことだったのかと、伊吹はようやく腑に落ちた。


 大輝も同じなのだろう。苦々しい表情はそのままだが、険のある雰囲気はいつの間にか消えていた。


 伊吹も大輝も口を開けなかった。

 今、ここで楓に何か言えるのは、当事者の勇輝だけだ。

 そう思って、勇輝を見て、伊吹はぎょっとした。


 勇輝は泣いていた。

 真ん丸な目を見開いて、声もなく静かにポロポロと泣いていた。

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