第二十八話 俺の家族

「いつか此処を二人で出て行こう」


 それは彼らの口癖だった。


 理不尽な暴力に、自分たちの無力さを噛み締めた夕方。

 何も食べ物が手に入らなかったひもじい夜。

 寄る辺のなさから誰かの手を取りたくなった荒天。


 そんな時、どちらからともなくその言葉を口にした。

 その言葉は、大輝にとって救いだった。

 その言葉を耳にするたびに、慰められ、時には奮起した。


 それは二人にとって、夢物語だった。


 鱶河城ここを出たその先に、何があるのか、二人は知らなかった。どんな人たちがいて、どんな生活をしているのか、わからなかった。

 だが、ここで身寄りもなく、二人だけで生きていくよりずっとマシな生活があると二人は理解していた。


 大輝の隣で、少女が夢想する。うっとりした表情で、どこか遠くの、何か綺麗なものを見つめて言葉を紡ぐ。


「いつか此処を二人で出て行こう」


 鱶河城ここを出て、何をするのか。鱶河城ここを出て、何者になれるのか。

 大輝にはわからなかったが、この言葉は大輝にとって、夢であり、目標であり、現実だった。


 この隣にいる小さな子を、幸せにしなければならない。

 いつしかそれが、大輝の生きる意味になっていた。




「いつか此処を二人で出て行こう」

 そうしたら、俺が君を幸せにするよ。

 君の笑顔が曇らないように。

 君がずっと笑っていられるように。

 ――勇輝。

 俺の大切なたった一人の『かぞく』。

 ちいさな、ちいさな、かわいい『妹』。



   ◇ ◇ ◇




 教官室の扉をぶち破って、最初に目に入ったのは、勇輝の涙だった。

 あぁ、また泣かせてしまったと罪悪感が胸を締める。

 次いで、縛られた腕、そして楓に組み敷かれていたことを理解すると、大輝の視界が一気に真っ赤に染まった。


「……楓えぇぇえぇええぇえ……!!」


 気が付いたら、楓は吹き飛んでいた。ぐるりと壁を取り囲む本棚に背中からぶち当たり、どさどさと音を立てて落ちてきた本に埋もれる。


 それは、技巧も何もない、力任せの一撃だった。

 だから、楓の歯か何かに当たったのだろう。殴った大輝の拳からも血が出ていた。だが、大輝はそんな些細な痛みに気がつかないほど激昂していた。


「何してやがんだ! テメェ!」

「……何をするはこっちの台詞だっ」


 いきりたつ大輝を、楓が口の端をぬぐいながら睨みつけてくる。そのふてぶてしい視線に、大輝の神経が逆撫でされる。


 ――あぁ、こいつは反省していない。反省するわけがないのだ。


 大輝の瞳に、ゆらりと炎が宿る。


 ――なら、もうわかるまで殴るしかない。ごめんなさいと謝って、許しを請うまで殴り続けよう。


 言ってわからないなら、体に刻み込むまでだ。その思考に沿うように、大輝の拳に力が集まってくる。


「大輝、待って……! ――楓!」


 勇輝の制止の声は、吹き飛ばされた楓を心配する悲鳴に変わった。

 だが、その悲鳴も大輝を止める枷にはならなかった。


 これは『戦い』ではない。『喧嘩』だ。

 そして喧嘩なら、貧民窟で育った大輝に一日の長がある。

 立ち上がろうとした楓を蹴り倒し、馬乗りになる。

 普通の喧嘩には使わない『術』を拳に纏い、力を込めて振り下ろす。楓はとっさに両腕を上げて防御したが、そんなこと関係なかった。その腕ごと砕くまでだ。

 ゴッと鈍い音がして、楓の骨が軋む。


「おやめなさい!」


 振り上げた拳に青羽が抱きつく。だが、それは大輝を止める枷にはならなかった。

 「ウゼェ」の一言で、腕を振れば振り払える。大輝の腕力なら、人一人吹き飛ばすくらい簡単なのだ。ガシャンと音を立てて机がひっくり返る。


 大輝は、それに構わず楓に向き直ると、二度、三度と拳を振り下ろす。

 ……と、そこに体当たりするように誰かが割って入った。


「もうやめて!」

「――っ!」


 誰に制止されようと止まる気のない大輝だったが、勇輝だけは別だ。振り下ろしかけた拳を間一髪でらす。


「っぶね。……勇輝、邪魔するな。退け!」

「ヤだ! 楓を殺す気!?」


 大輝がいくら怒気を発そうが、勇輝は怯まなかった。それどころか楓を庇うように抱える。


 なぜ、お前がそいつを庇う?


 かぁっと頭に血がのぼる。その怒りのままに大輝は吠えた。


退けッ! そいつは一回、痛い目見なきゃわかんねーんだよッ」

「だからって、やりすぎだよ!」


 勇輝が叫んだ通りに、楓の頬は腫れ、何度も殴られた腕は真っ赤になっていた。あと一発、二発でその腕は折れていただろう。

 だが、大輝はちっともやりすぎだと思わなかった。むしろ、まだ何もしていないに等しいとさえ思っていた。それだけのことを楓はしたし、被害者なのに楓を庇う勇輝を信じられない目で見る。

 しかし、勇輝はそう思わないらしい。大輝の下から楓を引っ張り出すと、守るようにその腕の中に抱え込んでしまった。


「……可哀想に。こんなに腫れて」

「……勇輝っ」


 慰めるように頬を撫でる勇輝に、ここぞとばかりに抱きつく楓。

 その姿は、勇輝の庇護欲をそそるように弱々しかったが、大輝は気がついていた。さっき殴った痛痒など楓にほとんど残っていないことに。

 喧嘩なんかしたことがないお坊ちゃんだ。だから、いきなり殴られた精神的な衝撃はあれど、体に怪我らしい怪我はほとんどなかった。なのに、甘えるように勇輝の腕の中に逃げ込む楓が憎らしかった。


「……ッ! 騙されんなよ、勇輝」

「騙すって、何? この痣も、怖くて怯えてるのも、本当だろ!」

「自業自得じゃねーか! お前、さっきまで何されてたかわかってんのか!」

「――!!」


 襦袢一枚の姿を指摘してやると、勇輝はさっと頬を染めた。自分のあられもない姿に、今更ながらに気が付いたかのように。

 それだけで楓を殴る理由は十分だ。そう言うように大輝が楓に手を伸ばすと、その手を勇輝に弾かれた。


「……確かに、楓はひどい事をしたけど、これはやりすぎだよ!」

「ンな事、ねー。お前にした事を考えたら、殺しても足りねぇだろ」


 その涙の跡をぬぐいながら言うと、勇輝は信じられないと言うように目を見開く。


「……その言葉、本気じゃないよね?」


 その問いかけに大輝は肩をすくめるだけで答えた。大輝は脅しを使わない。

 それを知っている勇輝は、楓を絶対に離さないとばかりに両腕に力を込める。話についてきていない楓が不思議そうな声を出した。


「勇輝……?」

「何……、何考えてるんだよ、大輝。そんな事したら、ここに居られなくなるじゃないか」

「それがどうした」


 一言で斬って捨てると、勇輝は傷ついたような表情になる。傷つけたいわけではない大輝は、慌てて言葉を紡いだ。


「ここを出て、どこかへ行けばいいだろ。俺たちは『外』のことも、力の使い方も十分理解できた。二人でだったら、どこへ行ってもうまくやれるさ」

「何言って……」

「お前をに合わせてまで、いるような所じゃないんだ、ここは。決心するのが遅くて、お前を二度も傷つけてしまったけど、もう、俺は腹を決めた。出て行くぞ」


 それは以前からうっすらと考えていた事だった。

 渾天院に入ったことは、自分たちの出自からすれば大した出世だ。だが、渾天院にいる事で勇輝の尊厳が踏みにじられるなら、ここにいる意味はない。

 先輩や同輩、人間関係に恵まれ、将来に未練があった。だから踏ん切りがつかなかったが、さっきの勇輝の涙で迷いも消え去った。


 自分の生きる意味は、勇輝だ。この子の笑顔を守れないここに、未練はない。


「出て行くって……どうするんだよ、先輩は」

「伊吹さ……いや、なら、俺らが居なくてもうまくやっていくさ」


 それが祈りにも近い願望でしかないことを大輝は理解していた。

 確かに、伊吹のことは心残りだ。だが、優先すべきものは何か、大輝の中では明確だった。


「何それ……。僕は嫌だよ。出て行くなんて」

「このまま楓の慰み者になる気なのか」

「――その言い方は何だ!」


 わざと傷つけるような言い方をすると、勇輝ではなく楓が反応した。猫がフーっと毛を逆立てているかのように威嚇する。


 ……こいつは、本当に殴っても殴り足りない。


 大輝の拳に力が溜まる。しかし、楓は、そんなこと御構い無しに吠えた。


「俺は勇輝を遊んで捨てるつもりはないぞ! 子を成せば、母子ともにきちんと面倒を見てやるつもりだ!」

「楓、それは――」


 今までとは逆に、勇輝は自分のものだと主張するように楓が抱きしめる。だが、勇輝は楓のものではない。

 大輝は勇輝の腕を取ると、その瞳を覗き込んで言った。


「ほら見ろ。こいつは何もわかっちゃいねーんだよ。お前の意思なんてカンケーねぇ。ちっとも気にしちゃいないんだよ。ここにいたら、ずっとこいつに遊ばれるぞ」


 だから、俺と一緒に行こう、と言うと、勇輝の瞳は迷って揺れた。


「ふざけるな! 渾天院をやめたいなら、一人でやめろ。勇輝は俺といるんだ」

「いいや。勇輝はお前のおもちゃじゃない。俺と行く」


「勇輝!」

 奥から楓が縋るような視線を投げかける。


「勇輝!」

 大輝はその視線を断ち切るような鋭い声を出した。


「「どっちを選ぶんだ!」」

 期せずして二人の声は一致した。


 二人に詰め寄られた勇輝は、へにゃりと眉を下げると、この部屋で唯一、勇輝に何も要求していない青羽に助けを求めるような視線を向けた。

 青羽は、その視線を受けて、力強く首を横に振る。

 後に聞くと、できないことはできないと言えることが、信頼される近習の条件らしい。そして、青羽は、自分の能力というものを弁えていた。

 だが、現在において、それは勇輝を突き放すものでしかない。


「「勇輝! どうするんだ!」」


 両脇から責められた勇輝は、頭を抱えるしかなかった。

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