チューニング
@araki
第1話
「っ、またかよ」
リズムを外した瞬間、勇はステッキを投げ捨てた。それはドラムの端に当たり、そのまま部屋の隅まで転がっていった。
――しょうもな。
勇は腕を投げだし、放心したように天井を仰ぐ。これで一四度目。何度同じミスをすれば気がすむのか。通しできた試しが一度もなかった。
『お前さ、調子外してね?』
昨夜のライブ後、ギターの小林に言われた言葉が脳裏を過ぎる。彼は滅多に他人の演奏に口を出さない。その彼が苦笑を浮かべていたのだ。よっぽどひどかったに違いない。
「才能ねぇのかな、俺」
思わず自嘲めいた笑みが零れる。家にドラムがあったから、そんな適当な理由から始めた楽器だ。それでも自分なりに努力してきたつもりだったが、今はその先がまるで見えない。
――やっぱ、ケンには――。
いつもの思考が首をもたげた、その時。
「相変わらず、荒れてるねぇ」
部屋の扉が開くと同時、呑気な声が部屋に入ってくる。見れば、パンクな格好をした女が床に転がるステッキを拾い上げていた。
「何しに来たんだよ」
「決まってんじゃん。可愛い弟の様子を見に来たの」
「だからもう弟じゃねえって」
勇は軽い舌打ちをした。
本条 美枝子。勇の兄の、それも前の彼女。別れてからしばらく経つというのに、今もちょくちょくここに来ては、何かとちょっかいをかけてくる。厄介な女だった。
美枝子はドラムに視線を向けた。
「まだドラム叩いてんだ」
「悪いかよ」
「悪くはないよ。でも、もったいないかな」
「あ?」
勇は苛立ちを隠さず目を細める。
美枝子は持っていたステッキを指さした。
「これ、ケンちゃんのでしょ? そのドラムもケンちゃんのだし」
「だからなんだよ」
「どれもケンちゃんづくしだなと思って。ファンなの?」
「なわけねぇだろ」
「じゃあ追っかけだ」
勇は何も口にしない。ただ、美枝子を睨みつけていた。
「図星みたいだね」
美枝子はにこにこ笑っている。しばらくの間、面倒な沈黙が流れた。
結局、先に折れたのはこちらだった。
「……別に追っかけてるわけじゃねえよ」
勇は肩をすくめる。それは降参のポーズに似ていたのかもしれない。
「一度くらいはあいつに勝っておきてぇ。そう思っただけだ」
健吾は何でもできる兄だった。あいつの前では何もかもが霞む。その感覚が今も拭えていない。
あいつはとっくにくたばったというのに。
「勝ち逃げされるのも癪だしよ」
勇は苦笑を漏らす。みっともないという自覚はあった。ただ音楽なら健吾に食い下がれる気がするのだ。あいつの幻影を振り払うにはそれしか――。
「なら、ちょっと待ってて」
一方的に話を断ち切るように、美枝子は部屋の外へ出ていった。
勇が呆然としていると、すぐに美枝子が戻ってくる。その腕には大きな包みを抱えていた。
「なんだそれ」
「プレゼント。とりあえず開けてみて」
ずいと、美枝子が包みを差し出してきた。
勇は訝りながらも、渋々受け取る。直後、ずしりとした重みが腕に伝わってきた。
「やばいもんじゃねぇだろうな……」
ぶつぶつ文句を言いつつ、勇は包装を乱暴に引き破る。すると黒革のケースが中から現れる。
――うそだろ。
勇は恐る恐るケースの上蓋を開ける。
途端、動きを止めた。
「いい反応。奮発した甲斐があったね」
場違いな美枝子の言葉一切が意識をすり抜けていく。それほどまでに目の前の品は驚きだった。
「なんだよこれ」
「新品のギター。種類はよくわかんないけど、店でとびきりのってお願いしたから間違いないと思うよ」
「そんなことは訊いてねぇ。こんなもん渡して何のつもりだよ」
「弾いてみてよ」
「あ?」
「だから弾いてみて。それで十分だからさ」
じっと睨みつけるも、美枝子は相変わらず意図の読めない笑みを浮かべるだけ。何かを言う気配がない。
「ったく」
勇はとりあえず構えると、楽器の調子を確認する。新品だというのにチューニングは完璧。すぐにでも弾けるようにお膳立てされていた。
そのことが無性に苛立たしく思えたが、一呼吸おく。それから試し、基本のある一音を鳴らした。
やはり拙い音。ただ、
――へぇ。
ひどく新鮮に感じた。近くで散々聞いてきたはずなのに、自分が鳴らすとなると、まるで印象が違う。不思議な感覚だった。
しばらく言葉が出ない。
「今は色んなものを試してみたら? 旅は早めにしとくもんだよ」
美枝子はドラムに近寄る。そして、その縁をステッキで愛おしそうに撫でつけた。
「それでもこれが名残惜しくなったら、戻ってこればいいんだし」
反論したい思いに駆られたが、やめる。
ドラムをやめるつもりも、ましてや諦めるつもりも毛頭ない。それでも、
――たまの寄り道も乙か。
勇は昨晩の小林の演奏を思い出す。それからを最初の一音を鳴らした。
チューニング @araki
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