第392話 怒りを超えて
「っ、あ……」
思わず息を呑み、そして確かな恐怖から来る声を漏らしたカナタの表情を見ると、その視線の先には途轍もなく恐ろしい何かが居るのではないかという事になってしまうのだが。
……それも、あながち間違ってはいない。
『……』
そこに居たのは、いつの間にか
明らかに、フィン自身の奥底に燻る魔族の力が彼女の怒りに呼応して表に出てきてしまっていると分かるが。
……そんな事は、この際どうでもいい。
カナタが恐怖した理由は、そこではなく。
フィンの、
いや、正確には見たと言うのも違うかもしれない。
何しろ、辛うじて輪郭が分かるかどうかという程に顔全体がドス黒い闇に覆われていて表情も何も分かったものではないと言うのに、どういう訳か見ているこちらに苛烈な不安と恐怖を感じさせるのだ。
名状し難い──とでも言えばいいのだろうか。
しかし、それでも一つ分かった事もある。
(違う……! 何もしてない訳でも、怒ってない訳でもない……! 魔王の所業を垣間見て──)
フィンは決して何もしていなかった訳ではない。
怒っていないなどという事もあり得ない。
つまり、そう──。
(──臨界点を、超えちゃってるんだ……!!)
水を操る彼女の危険水域を超えた結果、全ての感情が抜け落ちると共に行動の自由を自ら封じてしまったのだ。
ウルの様に誰よりも早く魔王を殺したい気持ちを抑え、確実に殺す事が出来るタイミングを見計らう為に。
望子を、この手に取り戻す為に──。
「そこな
『……』
「ふむ、会話を愉しむ余裕もないか?」
それを知ってか知らずか──おそらく知っての事だろう──コアノルは、ニヤニヤとした昏い笑みを浮かべながらフィンに話しかけるも、やはりフィンからの応答はない。
彼女は魔王を殺しに来たのだ。
会話を愉しむ為に来たのでは、断じてない。
「実を言うと、其方との邂逅だけは妾も愉しみにしておったのじゃ。 何しろ其方は一行の中で最も強く、そして誰よりも──」
しかし、そんな風に未だかつてない真剣味を帯びたフィンを尻目に、コアノルは望子の濡羽色の髪を褐色の細長い指で梳きつつ一行の中で唯一フィンにだけは少なからず興味を抱いていた事と、その理由を語るついでに再び望子に顔を近づけ。
「──ミコを愛しておると知っておったからの」
『ッ、テメェ……ッ!!』
「……っ」
長く艶やかな舌を、シミ一つない望子の頬に這わせた事でウルの怒気は更に強まり、それはウルの周囲の気温の急上昇という形で露わになる。
だがカナタは隣に居るウルの肌を焼く様な熱に、そして肌を刺す様な怒気に気圧された訳ではない。
今度こそ深海の如く底の見えない怒りが発露してしまうのではないか──と隣に居るフィンを恐れていたのだ。
『……言いたい事は、それだけ? 挑発にしては随分お粗末だね、そんなんでも務まるんだ。 魔王って』
「妾を相手にその物言い。 やはり趣深いのぉ」
それでも、フィンはカナタの邪推に反して努めて冷静に嘲る様な笑みを浮かべるとともに、コアノルからの露骨な挑発を挑発で以て返し、『その様に不遜な態度を取れた
『っていうかさぁ──』
「む?」
スッと、フィンは魔王を指差す。
一瞬、望子の記憶を覗いた際に見た水の槍でも飛ばしてくるのかと警戒したものの、コアノルはすぐに気がついた。
自分に向けて指差しているのではない。
自分が抱いている幼児を指差しているのだと。
『──いつまで寝てるの? もう朝だよ、みこ』
「何を言うて──……ッ!?」
「あ、あれって……!!」
しかし気づいた時には遅く、フィンが優しい声音で──それこそ望子の母親である柚乃、もとい女神ジュノが望子を起こす時の様な慈愛に満ち満ちた声音でそう告げた瞬間、望子の小さな身体が一瞬で液状化し、その異常事態に驚きながらもコアノルやカナタが何の力による事象かを看破した時には、もう既に液状化が解除された望子がフィンの腕に収まっており。
『お帰り、みこ。 でも、まだ起きてはくれないみたいだね』
「……
穢れを払う様に望子の唇や頬、髪なんかを濡れた指で優しく拭きつつ愛おしさ満点で抱きしめるフィンに対し、望子の持つ
せっかく手に入れた望子を奪われてしまった事は業腹だが、それはそれとして相手にとって不足なしと断じる事が出来たから。
『さぁ、みこは取り戻した。 これで、やっと──』
そして目一杯、本当に目一杯これでもかというくらい望子を愛でた後、
『──お前を殺すのに、何の躊躇も要らなくなった』
「く、ふふ……っ、良かろう! 来い、
勇者一行最強であると自負する己と、望子を穢した憎き魔王との戦いの幕開けを宣言した──。
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