第368話 せめて、最期くらいは

 その瞬間、ハピを中心に未だかつてない程の超低温の猛吹雪が渦を巻き、それは次第に質量と形を得て──巨大な翼竜プテラノドンが顕現する。


『キュウゥウウウウ……ッ、キュアァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!』


 翼竜プテラノドン──と言うより翼竜プテラノドンを模した巨大かつ流麗な氷像は、かつてハピが暴走した時よりも更に甲高く、それでいて薄氷の様に透き通った声を響かせながら大きく翼を広げた。


 それと同時に、ポルネだけを巻き込まない様にと調節された吹雪によって、ウィザウトごと部屋の全てを銀世界へと染め上げたが。


『ギヒ、ギャハァ!! 無駄無駄無駄──』


 そんな事などお構いなしに、ウィザウトは無数の触手を伸ばしてハピとポルネにとどめを刺すべく肉塊ごと前進しようとした──。


 ──しようと、した筈だが。


『──……ァ、ア"ァ?』


 その動きは次第に緩慢となり、緩慢どころではなく完全に停止しかけたところで、ウィザウトも流石に己に起きた異変に気がつく。


『サ、寒……寒、イ"ィ……眠、イ"ィ……何ガ、何ガァ? 起コッ、テェエエエエ……?』


 そう、目蓋に相当する部位が閉じかけているだけでなく、およそ脳味噌とさえ呼ぶに値しない思考回路すら鈍り始めている事にだ。


 肉体も、思考も、魔力も、神力も──。


 果ては、時すら凍てつかせる極寒の冷気。


 それこそが、ハピの奥の手──大鷦鷯命オオササギ


 破壊の塊だったウルの火之迦具土ヒノカグツチともまた異なる、あまねくを閉ざす氷を司る神の力。


『……オ"、オ"ォォ……』

『っ、く、ふぅ……っ』


 その力を直に受けたウィザウトが徐々に氷漬けになっていくのを見て、ハピは奥の手が上手くいった事を確信して安堵の息を吐く。


 だが、ハピはを理解してもいた。


(マズい、このままじゃ……私の身体も凍りつく──いや、凍るどころか氷そのものに……)


 この力が、長くは保たないという事を。


 雅な氷像が如き翼竜プテラノドンの骨の鎧の内に居る己もまた、その一部に成りかけている事を。


 望子が手に入れた六つの変化ナイズ系統の魔術とは違い、それらが己を死に至らしめる事を。


 ……尤も、死ぬ事自体は怖くなんてない。


 望子に逢えなくなるのは辛く哀しいが、ハピの犠牲の先に望子の未来があるなら──。


 それは決して、悪い事じゃない筈だから。


『っ、は、はぁ……く、うぅ……』


 故にハピは、この状態と状況を利用し。


 この戦いを終わらせる為に前へ進む。


 一歩、また一歩と向かう先に居るのは。


『ギ、イ"ィィ……ッ』


 大鷦鷯命オオササギによって時さえ止まっている筈の空間で、『ピシピシ』『バキッ』と氷を軋ませて自由を得ようと試みているウィザウト。


 時が止まりきっていないのは、ただ単に。


 ハピの命が終わりかけているからだ。


 だからこそ、これを利用するしかない。


『私と一緒に、氷になってもらうわよ……』

『ナ"、ナニ、ヲ"……ッ』


 ──……そう、どうせこのまま全身が氷と化してしまうのならば、ウィザウトに触れ続ける事で共に一つの氷塊になろうという策。


 それを直感で悟ったウィザウトは、どうにか逃れようと身を捩るが──……もう遅い。


 ……少しずつ、ハピの手が触れている部位から肉塊は音を立てて氷と化していき、ハピとウィザウトの境界線が曖昧になっていく。


 薄れゆく意識の中で、ハピは思う──。


(大丈夫、私が死んでもフィンが居る。 ウルも居るし、レプも居る。 ローアも、いざとなれば手を貸してくれる筈。 私が、居なくても──)


 自分が死んでも、自分より圧倒的に強いフィンやキュー、自分と同じくらいに強いウルやレプター、自分には僅かに劣るが優秀なカリマ、自分たちとは種族が違えど望子の友達であるローア──などが居るから問題ない。


 だから、ここで死ぬ事だって哀しくない。


 ……そう思っていた。


 思っていた、筈なのに。


 ──カツンッ。


『え……?』


 その時、何かが床に落ちたかの様な音が響き、ハピが思わず視線を下に向けたところ。


 その音を立てた物と同じ物だろう何かが。


 ハピの翠緑の瞳から、零れ落ちた。


『涙……? 私、が……?』


 そう、それは正真正銘ハピが零した涙。


 何の感情に依る物なのか言うまでもない。


『……そっ、か……そう、なのね……やっぱり私、哀しいんだ……あぁ、望子に、逢いたい……二度と逢えなくなるなんて、嫌……』


 今さらながらの、深い後悔と悲哀の念。


 やっぱり、死にたくなんてない。


 もう一度、望子に逢いたかった。


 フィンと同じ様に、あの幼く可憐な黒髪黒瞳の少女に、この燻る想いを伝えたかった。


 ……だが、もう遅いのだ。


『さようなら、望子。 愛してるわ──』


 ハピの身体を蝕む氷が、いよいよ以て胴体へ侵食し、その心臓を止めんとしていた時。











『──……っ、え……?』


 命の停止を覚悟していたハピの身に、いつまで経っても終わりが来ない事に違和感を抱き、その翠緑の瞳をゆっくり開いたところ。


『──訳が分からないわよ、鳥人ハーピィ。 自分から死にに来ておいて、すぐに後悔するなんて』

『っ!? 貴女、正気を……!』


 眼前には、つい先程よりも明らかにサイズの小さくなったウィザウトを模した肉塊がハピを呆れた様子で見据えており、その口調から明らかな知性を感じたハピは即座に悟る。


 ウィザウトが、正気を取り戻したのだと。


『貴女が、何かしたのね……?』


 そして、ハピ自身への氷の侵食が止まったと同時にウィザウトが正気を取り戻した事は絶対に偶然ではない、と確信しての問いに。


闇黒死配ダクロウルで貴女の魔術を止めたのよ。 もう少し正確に言うんだったら、貴女の脳に魔力を止めろと命令を出した形になるかしらね』

『どう、して……』


 ウィザウトは、さも何でもない事の様にハピが行使した神の力を己の魔術一つで止めたのだと明かしてきたが、ハピとしては何故そんな事をという疑問ばかりが浮かんでくる。


 そんなハピの問いに、ウィザウトは笑い。


『……羨ましく、なったのよ』

『えっ?』


 意図の掴めぬ言葉を呟いた。


 どういう事かと問う前に、ウィザウトは。


『短い間だけど、この氷を通して貴女と一体化してたからかしら。 こんなにも想い、想われる関係にある貴女たちが羨ましくなったのよ。 私は、ずっと──……孤独ひとりだったから』

『そう、だったのね……』


 ほんの数十秒でも、ハピと文字通り繋がっていた為か、ハピの胸中に渦巻いていた後悔と悲哀の念や、その原因となった幼い勇者への愛、勇者からぬいぐるみたちへの愛などを知った彼女には、これまでの自分の生涯とかけ離れた勇者たちの関係はあまりに眩しく。


 思わず、ハピを助けてしまったのだと。


 それを聞いたハピもまた、敵であるウィザウト相手に思わず同情してしまう中で──。


『……さて、魔力を止めたお陰で氷の侵食も止まったでしょう? さっさと行きなさいな』

『……貴女は、どうするの?』


 既に氷と化してしまった部位はともかくとしても、それ以外は無事なのだから大丈夫でしょうとウィザウトが背中を押して──物理的にではない──きたのはいいが、ハピとしてはもうウィザウトに敵意はない為、彼女がこの後どうするのかを思わず問うてしまう。


 敵意どころか憐憫の感情さえ抱いてしまったハピの声音は、かなり優しくなっていた。


『私が止めたのは貴女の中で発動した魔術だけ。 私の身体を侵食する氷の力は止めてないから、このまま放っておけば勝手に死ぬわ』


 それを受けたウィザウトは、とても肉と血と骨の塊だとは思えない程に分かりやすく自嘲気味な表情を浮かべながら、スッと伸ばした触手の先端から根元まで氷が侵食する、ある種の美しささえ感じさせる光景を見せつけて、どうせ死ぬから構う事はないと微笑む。


 既に心臓は喰われている為、死ぬというより存在の消失という方が正しいのだろうが。


 そして、そのまま自らの言葉通りに緩やかな死を迎えるのを待つ──のかと思いきや。


『……でも、そうね。 私も落ちこぼれとはいえ魔王軍幹部、勇者一行に殺されるのは正しいのだろうけど──せめて、最期おわりくらいは』

『!? 何、を……!?』


 何を思ったかウィザウトは、まだ氷に侵食されていない己を象った肉塊の右手に相当するのだろう部位を身体の中心──少し前までは心臓があった場所へと確かに押し当てて。


『──っ、自分で、決めないとね……っ』

『自分に、魔術を……!』

 

 魔王コアノルを除けば自身しか扱えない最凶の超級魔術、闇黒死配ダクロウルを自身に行使した。


 小さな、小さな──それこそ下級魔族程度かそれ以下の、されど確かな誇りを護る為。


 自分は此処に居たのだと、コアノルやデクストラを始めとした全ての同胞に告げる為。


 その全てが自己満足だったとしても。


 ウィザウトの貌に、後悔の念はない。


 闇黒死配ダクロウルによって氷の侵食が止まり、その代わりとしてラスガルドに奪われた筈の心臓を自らの胸部に再現したウィザウトは──。


『……覚えておきなさい、鳥人ハーピィ。 私は、決して貴女たちの為に自害するのではないという事を。 そして、に伝えて頂戴──』


 あくまで自分は今際の際まで魔族という種である事と、ハピに絆されて命を絶つのではないという事を告げた上で、あの方々──つまりは魔王とその側近に直接言うつもりで。


『──私は、傀儡パペットなんかじゃないって……』


 思う通りには、ならないでやった──と。


 満ち足りた貌で、再現された心臓を潰し。


 ぐねぐね、と僅かに蠢いたかと思えば。


 次の瞬間には、ただの肉塊と成り果てた。


 それを、まさしく氷像が如き無表情で見届けたハピは、パキパキと音が鳴る身体を引き摺って、未だ倒れ伏すポルネの元へ向かい。


『……行か、ないと……ねぇ、ポルネ──」


 恐化きょうかさえ保てぬまま同じ様に倒れ伏した。


 魔王軍幹部、魔王の予備サタンズスペア・ウィザウト戦。


 ハピ、ポルネ組の勝利──後、戦闘不能。

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